2023/12/05

唐(3)

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唐王朝とは

1. 李淵が建国した中国の王朝である。

2. 古唐。周の時代の初期にあったという。魯の周公旦に滅ぼされた

3. 春秋時代にあった王朝。楚に滅ぼされた。

4. 李存勗が立てた王朝。後唐。

5. 李昪が立てた王朝。南唐。

6. 李添保の立てた政権。

7. 蔡伯貫の立てた政権。

8.  

ここでは最も有名な1について記す。

 

唐王朝とは、中国にあった王朝(618~690705~907)である。

 

概要

618年の李淵の即位から武則天の周を挟んで、907年朱全忠の即位まで存在した王朝。日本では遣唐使もあって、日本の政治システムを越えて国家そのものに強い影響を与えた。

 

建国

世は隋末期。度重なる遠征の失敗の民衆に重くのしかかった重税を主因として、各地で反乱が勃発。皇帝、煬帝は部下に殺され中国は再び大戦乱時代を迎えた。その中で台頭した群雄の一人が唐の李淵である。

 

6186月、長安の大極殿で唐王朝の初代皇帝、李淵の即位の儀式が行われた。これが唐の高祖である。李淵は長男の建成を皇太子に、次男の世民を秦王に、4男の元吉を斉王に任命し(三男は既に死去)、各地の抵抗勢力の鎮圧に向かわせた。

 

その中で活躍が光ったのは、次男の李世民である。世民は若い頃から武勇と知略に優れ、父の李淵に挙兵を進言したのも、この李世民だとされる。李世民は太原を占領していた劉武周を征伐し、さらに洛陽を拠点に皇帝を名乗った王世充を破って、唐の基盤を整えた。

 

624年、李世民は敵対勢力を5年かかって平定し長安に凱旋してきたが、世民の余りの人気に皇太子の建成は彼を疎ましく思い、626年玄武門にて四男の元吉と共に世民の暗殺を企む。しかし世民はこれを見破り、逆に二人を討ち取ってしまった。この事件を玄武門の変という(世民の方が、先に二人を殺そうとしたという説もある)。

 

この事件を機に皇太子となった李世民は高祖を閉じ込め、二ヶ月後には位を譲らせた。中国史に残る名君、二代皇帝、唐の太宗である。

 

太宗は親政を開始すると、こびへつらう側近をしりぞけ魏徴などの有能な側近を重く用いるようになった。太宗の治世により、国力は高まり近隣諸国は貢ぎ物を持って唐に訪れるようになった。これを讃えて太宗の治世を、その元号を用いて貞観の治と呼ぶ。

 

貞観の治

629年、出国を禁じる国法を破って、一人の僧侶が天竺(インド)に旅立って行った。これが西遊記のモデルとなった玄奘(げんじょう)である。

 

また630年には、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らを乗せた初めての遣唐使が日本からやってきた。当時の長安には、小野妹子と共に遣隋使として先にやってきていた南淵請安(みなぶちのしょうあん)や高向玄理(たかむこのくろまろ)が住んでおり、御田鍬は二人から唐の政治の仕組みを学んだとされる。

 

唐の政治の基本は律令制度であり、それを押し進めるための役所に三省六部(りくぶ)があった。三省とは、皇帝の命令を文書にする中書省、文書を審査する門下省、六部を管轄して皇帝の命令を実施する尚書省。

 

また六部には役人を管理する吏部、戸籍・土地・税を管理する戸部、祭祀や教育・科挙・外交を扱う礼部、軍事・警護を司る兵部、裁判や刑罰を担当する刑部、土木・建築事務を扱う工部があった。農民に土地を分け与える代わりに、租(麦・米)、庸(20日の労役か布)、調(綾、絹、真綿など)の税が課せられる均田制が用いられており、これらの政治システムを学んだ御田鍬らは日本に戻り、日本の政治システムに取り入れていった。

 

630年、北方の遊牧民族、東突厥を平定した太宗は、その目を西へと向けた。640年、高昌(トゥルファン)を滅ぼした唐軍は、さらに西の亀茲(クチャ)、疎勒(カシュガル)、于闐(うてん、ホータン)まで軍を進めた。この頃の東の朝鮮半島では高句麗、新羅、百斉の三国が争う三国時代であった。644年、唐は高句麗に軍を進めるも隋と同じく失敗してしまう。

 

645年には玄奘が16年ぶりに帰国。玄奘はインドのナーラーンダー寺院で仏教を学び、仏教の聖典を三種に分類した経蔵、律蔵、論蔵の三蔵の教えをよく知る事から三蔵法師と呼ばれ、太宗に重用された。玄奘は大慈恩寺で膨大な数の教典の翻訳にとりくみ、その教典の数は1237巻にも及んだとされる。また玄奘は天竺への旅行記として大唐西域記を著した。玄奘の旅は宋の時代に面白おかしく伝えられ、明の時代には小説家の呉承恩によって西遊記として世に広まった。

 

外征

649年、太宗は亡くなり3代目皇帝として高宗が即位した。高宗の妻、王皇后には子供がいなかったのだが、王皇后は他の女に高宗を奪われる前に、かつて太宗の後宮にいて高宗が寵愛していた武照を利用して、自分の権勢を保とうとする。この武照と呼ばれた女性が、後に中国史上最初で最後の女性皇帝となる武則天(則天武后)である。武照は自分の子供を扼殺し、その罪を王皇后に着せる事によって自ら皇后の地位に上り詰めた。

 

一方、朝鮮半島では三国の戦いが更に激しくなっていた。660年、太宗の時代から唐に接近していた新羅の武烈王は高宗とも国交を結び、これに対して高句麗と百斉は同盟を組んで新羅に対抗した。同年、百斉と高句麗の連合軍は、新羅の領内に深く侵攻。唐はこれを救援するため、10万の援軍を船に乗せて半島に送った。唐と新羅の連合軍は百斉の都、泗沘(しび)を陥れ、旧都の熊津(ゆうしん)をも占領し、国王の義慈も唐に連れ去られてしまった。百斉の将軍、鬼室福信は倭(日本)に救援を頼み、662年、これに応じた倭は170隻の船と安曇比羅夫(あずみのひらふ)将軍を、当時日本にいた百斉の王子、豊璋を連れさせて派遣した。

 

663年、斉明天皇と皇太子中大兄皇子は更に阿部比羅夫、上毛野君稚子(かみつけぬのきみわかこ)、巨勢神前臣訳語(こせのかんさきのおみおさ)ら270000の増援軍を400以上の軍船に乗せて百斉に向かわせるが、日本と百斉の連合軍は陸上でも大敗北を喫する。これが白村江の戦いである。唐の反撃を恐れた中大兄皇子は、九州の太宰府に水城(みずき)を築いたとされる。

 

この後、唐は新羅と共に高句麗の首都平壌に攻め込み、約800年も続いた高句麗はここに滅んだ。高句麗の遺民と高句麗に服していた靺鞨人は現在の東北地方に逃れ、698年に靺鞨人の指導者、大祚栄(だいそえい)が震(後の渤海)を建国した。渤海は9世紀に海東の盛国と呼ばれ全盛期を迎える。また新羅は高句麗を倒した後、朝鮮独立のために唐から離反し抵抗運動を開始した。

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