2024/04/30

大化の改新(1)

大化の改新は、皇極天皇4年(645年)612日、飛鳥板蓋宮の乙巳の変に始まる一連の国政改革。狭義には大化年間(645 - 650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。改革そのものは、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。

 

この改革によって、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。この改革により、「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになったとする説もある。中大兄皇子と中臣鎌足は、退位した皇極天皇に代わり、弟の軽皇子を即位させた(孝徳天皇)。その孝徳天皇即位の直後から、新たな時代の始まりとして日本で初めての元号「大化」を定めたとされる。

 

改新の歴史的意義や実在性については様々な論点が存在し、20世紀後半には大きく見解が分かれていた。しかし21世紀に入り、前期難波宮の発掘調査による成果や7世紀木簡の出土などにより、当時の政治的変革を評価する傾向が主流を占めるようになっている。

 

概要

大化の改新は、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を、皇極天皇の皇居において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させた乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)により始まった(改新の第一段階)。そして同年(大化元年)内に、初となる元号の使用、男女の法の制定、鍾匱の制の開始、仏法興隆の詔の発布、十師の任命、国博士および内臣・左大臣・右大臣の新設、私地私民の売買の禁止。古墳時代、大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇が皇居を置いていた難波高津宮の跡地周辺に難波長柄豊碕宮が造られた。

 

古墳時代以来、再び難波に都を戻す為、飛鳥から難波に遷都の決定など様々な改革が進められた(改新の第二段階)。翌大化2年(646年)正月には、新政権の方針を大きく4か条にまとめた改新の詔も発布された(改新の第三段階)。改新の詔は、ヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっている。

 

大化の改新には、遣唐使の持ってきた情報をもとに、唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。

 

政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに、すでに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。また、越に渟足柵と磐舟柵を設けて、東北地方の蝦夷に備えた。

 

ただ、改革は決して順調とは言えなかった。大化4年(648年)の冠位十三階の施行の際に、左右両大臣が新制の冠の着用を拒んだと『日本書紀』にあることが、それを物語っている。翌大化5年(649年)、左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが政情は不安定化し、このころから大胆な政治改革の動きは少なくなる。650年に年号が白雉と改められた。

 

研究史

大化改新が歴史家によって評価の対象にされたのは、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。ただ明治以降の日本史研究において古代史の分野は非常に低調で、王朝時代以降が日本史の主要な研究対象とされてきた。そんな中、坂本太郎は1938年(昭和13年)に『大化改新の研究』を発表した。ここで坂本は改新を、律令制を基本とした中央集権的な古代日本国家の起源とする見解を打ち出し、改新の史的重要性を明らかにした。これ以降、改新が日本史の重要な画期であるとの認識が定着していった。

 

しかし戦後、1950年代になると改新は史実性を疑われるようになり、坂本と井上光貞との間で行われた「郡評論争」により、『日本書紀』の改新詔記述に後世の潤色が加えられていることは確実視されるようになった。さらに原秀三郎は、大化期の改革自体を日本書紀の編纂者による虚構とする研究を発表し「改新否定論」も台頭した。

 

「改新否定論」が学会の大勢を占めていた1977年(昭和52年)、鎌田元一は論文「評の成立と国造」で改新を肯定する見解を表明し、その後の「新肯定論」が学会の主流となる端緒を開いた。1999年(平成11年)には、難波長柄豊碕宮の実在を確実にした難波宮跡での「戊申年(大化4年・648年)」銘木簡の発見や、2002年(平成14年)の奈良県・飛鳥石神遺跡で発見された、庚午年籍編纂以前の評制の存在を裏付ける「乙丑年(天智4年・665年)」銘の「三野国ム下評大山五十戸」と記された木簡など、考古学の成果も「新肯定論」を補強した。

 

21世紀になると、改新詔を批判的に捉えながらも、大化・白雉期の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。

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