2024/10/01

天智天皇(2)

即位に関する諸説

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中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。

 

天武天皇を推す勢力への配慮。すなわち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の宝算をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、89歳程度の年齢差を設けている史料が多い。

 

これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父の舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は『本朝皇胤紹運録』などが採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、ただちに即位しなかった)のために誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なるため、同一には扱えないとの意見もある(「天武天皇#出生」の項も参照)。

 

乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は母親である皇極天皇と共に地位を追われたという説。近年、中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。そうなると、中大兄皇子の変事の年齢は弱冠20と若く、皇極天皇以外に強力な後ろ盾がないことを考慮すると、親子ほど歳の差のある軽皇子と違い、皇位狙いであわてて入鹿を殺害する動機がなくなる。また、『日本書紀』の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。この説では皇極天皇の退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。

 

天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)にあてた歌に、彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが、当時の人々の恋愛事情だったとされる。

 

斉明天皇の崩御後に、間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証はない。

 

天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。舒明の后には、敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女がいるにもかかわらず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にもただちに即位せず皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説。

 

乙巳の変の意義を、蘇我大臣家のみならず同家に支えられた実母・皇極天皇率いる体制打倒にあったとする観点から、孝徳天皇との対立→崩御の後に自らの皇位継承の正統性を確保するため、皇極天皇の重祚という、乙巳の変の否認とも取られかねない行為を行ったことで群臣たちの信用を失った中大兄が、信頼を回復するまでに相当の期間を必要としたとする説。

 

政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。

 

天智と蘇我氏

天智は、皇極4年(645年)の乙巳の変で蘇我蝦夷と蘇我入鹿を、大化元年(645年)9月に蘇我田口川堀を、大化5年(649年)3月に蘇我倉山田石川麻呂を政治的に、あるいは物理的に抹殺しているが、蘇我入鹿抹殺の際には蘇我倉山田石川麻呂を、蘇我倉山田石川麻呂抹殺の際には蘇我日向を、有間皇子抹殺の際には蘇我赤兄を頼り、大化2年(646年)に東国に派遣する国司として蘇我氏同族を6人も任命し、晩年には大友皇子の補佐役として蘇我赤兄(左大臣)と蘇我果安(御史大夫)を選び、自身や親族の后妃に蘇我氏の女性を選んでいるように、自身の勢力の地盤として、大化以前からの伝統的な雄族であった蘇我氏の権力に頼らざるを得なかった。それにもかかわらず、蘇我安麻呂によって大海人皇子を逃してしまっていることから、蘇我氏全体を権力に組み込むことはできなかったことがわかる。

 

諡号

和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。漢風諡号である天智天皇は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が撰進した。森鴎外は『帝諡考』において、その典拠に『逸周書』世俘解、『淮南子』主術訓、『韓非子』解老篇を候補に挙げている。

 

陵・霊廟

天智天皇陵(京都市山科区)

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。

 

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。崩御の天智天皇10123日はグレゴリオ暦672110日に相当するので、110日に御陵で正辰祭が行われる(17日はユリウス暦)。

 

百人一首(天智天皇の読み札)

万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。

 

秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」農民のことを思って読んだ歌百人一首の最初の歌。

 

万葉集からも以下の一首。大和三山を詠んだ歌といわれているが、原文は香具山でなく高山であり、大和の天香久山ではない、畝火や耳梨は山ではないなど多くの異論がある。

 

香具山は畝火雄々(を愛)しと耳梨と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも嬬(妻)を争ふらしき

原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」

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