坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿、贈従二位。勲位は勲二等。
四代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて征夷に功績を残した。薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。
坂家宝剣では坂家。
生涯
ウィキソースに田村麻呂伝の原文があります。
※日付は和暦による旧暦。西暦表記の部分はユリウス暦とする。
出生から征夷大将軍まで
幼少期
天平宝字2年(758年)、坂上苅田麻呂の次男、または三男として誕生。生年は坂上田村麻呂の薨伝に記録された没年からの逆算。苅田麻呂は31歳、生まれた場所については、あきらかにされていない。
延暦12年2月3日(793年3月19日)に坂上田村麻呂の兄弟である坂上広人が、雲飛浄永(畝火清永)とともに高津内親王の外戚として従五位下に昇授されている。外戚とは高津内親王の母である坂上全子を通しての親族の意味で、全子の母の父か兄弟となるため、全子の母は畝火宿禰であり、浄永は母方の伯父か祖父、おそらく祖父(苅田麻呂の妻)に該当するものと推量される。
角田文衞は広人、坂上田村麻呂、全子の三人が同母であったならば、延暦12年2月3日の宴で坂上田村麻呂が昇授されなかったのは、前年の延暦11年3月14日(792年4月10日)に兄の広人を越えて従五位上に叙されていたからであろうとし、坂上田村麻呂の母が畝火宿禰某女であったことは確証できないが、蓋然性に富んだ推測であると言えようとしている。
田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系渡来系氏族の東漢氏と同族を称し、代々弓馬や鷹の道を世職として馳射(走る馬からの弓を射ること)などの武芸を得意とする家系として、数朝に渡り宮廷に宿衛して守護したことから武門の誉れ高く、天皇の信頼も厚い家柄であった。曽祖父の坂上大国は右衛士大尉として武官にあり、祖父の坂上犬養は少年期から武人の才能を讃えられて、聖武天皇から寵愛されると左衛士督に昇り、父の苅田麻呂は武芸によって公卿待遇を与えられた。
しかしながら、この頃の坂上氏は地方的豪族な存在にすぎなかった。そのため大国から苅田麻呂までの3代は氏族の没落を防ぐ試みに全力を尽くし、武人の供給源という特性を坂上氏の特徴にまで育てあげると「将種坂上氏」として武芸絶倫という家風を確立し、坂上田村麻呂とその兄弟は幼少期から武芸を好むよう教育された。
幼少期の田村麻呂については史料こそないものの、宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位すると、父・苅田麻呂が道鏡の姦計を告げて排斥した功績により、同年9月16日(770年10月9日)に陸奥鎮守将軍に叙任されている(宇佐八幡宮神託事件)。
宝亀2年閏3月1日(771年4月20日)に佐伯美濃が陸奥守兼鎮守将軍となり、苅田麻呂が安芸守となるまで半年ほどの在職期間ではあったが、その間は鎮守府のある多賀城に赴任していたものと思われる。律令では21歳未満であれば同道出来ることから、13歳前後であった田村麻呂は父とともに、道嶋氏が凋落して桃生城襲撃事件が起こる三十八年騒乱直前の比較的平和な時代の陸奥国で幼少期を過ごしていた可能性もある。
宝亀3年(772年)、大和国高市郡の郡司職に関して、代々郡司職にあった檜前忌寸ではなく、ここ数代は蔵垣忌寸・蚊帳忌寸・文山口忌寸が郡司職に任ぜられていることを父・苅田麻呂が上奏し、今後は譜第である檜前氏を郡司職に任じる旨の勅を得ている。
出仕
坂上田村麻呂が蔭位の制を適用される21歳に達した宝亀9年(778年)に父の苅田麻呂は正四位下であったため、坂上田村麻呂が庶子の場合は従七位上が叙位されるが、次男もしくは三男でも正室の長男であれば嫡子のため、正七位下が叙位される。
しかし田村麻呂が嫡子、もしくは庶子のどちらであったかを判断する決め手になる史料はない。いずれにせよ宝亀9年に出仕している場合は、七位の官人として出発した。
宝亀11年(780年)、坂上田村麻呂は23歳で近衛府の将監として将種を輩出する坂上氏らしく、武官からの出仕であった。
天応元年4月3日(781年1月30日)、光仁天皇は山部親王に譲位して桓武天皇が即位した。桓武の生母である高野新笠は武寧王を祖とする百済系渡来系氏族の和氏出身で、帰化人の血を引く桓武の登場によって渡来系氏族は優遇措置がなされることもあった。
延暦元年(782年)閏1月に起きた氷上川継の乱では、父・苅田麻呂が事件に連座したとして解官されているが、わずか4ヶ月後には再び右衛士督に復職している。また苅田麻呂は、延暦4年(785年)6月に後漢の霊帝の子孫である坂上氏が忌寸の卑姓を帯びていることを理由に宿禰姓を賜りたいと上表し許され、同族11姓16名が忌寸姓から宿禰姓へ改姓、嫡流の坂上氏は大忌寸であったため大宿禰と称した。
延暦4年11月25(785年12月31日)、安殿親王(後の平城天皇)が立太子すると、坂上田村麻呂は28歳で正六位上から従五位下へと昇進した。
外位の五位を通らずに従五位下へと昇進しているため、この頃には坂上氏が地方的豪族から中央貴族へと転身していた証左となる。延暦5年1月7日(786年2月10日)に父・苅田麻呂が薨去すると、坂上田村麻呂は一年間喪に服した。
延暦6年(787年)早々に喪があけると近衛将監へと復帰した。3月22日(787年4月14日)に内匠助を兼任、9月17日(787年11月1日)には近衛少将へと進んだ。延暦7年6月26日(788年8月2日)に近衛少将と内匠助のまま越後介を兼任、延暦9年(790年)には越後守へと昇格した。
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