2025/07/27

坂上田村麻呂(2)

延暦十三年の征夷

桓武朝第二次蝦夷征討は、延暦9年早々から準備がはじまった。

 

延暦10118日(791225日)に兵士の動員について具体化すると、坂上田村麻呂は百済王俊哲と共に東海道諸国へと派遣され、兵士の簡閲を兼ねて戒具の検査を実施、征討軍の兵力は10万人ほどであった。

 

713日(791817日)に大伴弟麻呂が征東大使に任命されると、田村麻呂は百済王俊哲・多治比浜成・巨勢野足とともに征東副使となった。軍監16人、軍曹58人と伝わるが、軍曹の多さが異例であることから、実戦部隊の指揮官級を多くする配慮とも思える。

 

実戦経験がないはずの坂上田村麻呂が副使として登用された理由は不明だが、朝廷からみても坂上田村麻呂の戦略家・戦術家としての能力は未知数であったと思われる。

 

一方、延暦11年の東北地方では、111日(79227日)に斯波村の夷・胆沢公阿奴志己等が陸奥国府に使者を送り、日頃から王化に帰したいと考えているものの、伊治村の俘等が妨害して王化を叶えられないと申し出たため、物をあたえて放還したと陸奥国司が朝廷に報告している。

 

これに対して朝廷から陸奥国司への返答は、夷狄は虚言もいい常に帰服と称して利を求めるので、今後は夷の使者がきてもむやみに賜らないことを命じている。これは伊治呰麻呂や伊佐西古のように服従した蝦夷が寝返ることもあり、報告では伊治村の俘とあるため不審から朝廷の言い分としてはもっともであった。

 

しかし同年725日(792817日)の勅では、夷・爾散南公阿波蘇が王化を慕って入朝を望んでいることを嘉し、入朝を許して路次の国では軍士300騎をもって送迎、国家の威勢を示したとある。

 

同年113日(7921121日)に阿波蘇、宇漢米公隠賀、俘囚・吉弥候部荒嶋が長岡京へと入京して朝堂院で饗応され、阿波蘇と隠賀は爵位第一等を、荒嶋は外従五位下を賜り、今後も忠誠を尽くすようにと天皇が宣命を述べている。1月時点と7月以降では政府の立場が一転しているため、この頃には蝦夷に対する懐柔策も推進していたのではないかと推測できる。

 

延暦12217日(79342日)、征東使が征夷使へと改称され、221日(79346日)には征夷副使の坂上田村麻呂が天皇に辞見をおこなった。

 

延暦1321日(79436日)、弟麻呂は征討へ出発。316日(794321日)には征夷のことが光仁天皇陵と天智天皇陵に報告され、317日(794421日)には参議・大中臣諸魚に伊勢神宮に奉幣せしめ征夷を報告している。

 

同年613日(794714日)、『日本紀略』には「副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」と短い記事のみあり、『日本後紀』に存在したはずの延暦13年の蝦夷征討の関係記事は散逸しているため、この戦いの具体的な経過や情況はほとんど不明である。928日(7941026日)には諸国の神社に奉幣して新京に遷ること、および蝦夷を征すことを祈願しているため、蝦夷征討は継続中であったと考えられる。1022日(7941118日)に長岡京から新京に遷都されると、1028日(7941124日)に新京に到着した報告によると、戦闘終了時に近いとみられる10月下旬時点での官軍側の戦果が「斬首457級、捕虜150人、獲馬85疋、焼落75処」であった。118日(794124日)、新京は「平安京」と名付けられる。

 

延暦14129日(795223日)、弟麻呂は初めて見る平安京に凱旋して天皇に節刀を返上した。同年27日(79532日)には征夷の功による叙位が行われたが、詳細は伝わらず従四位下に進んだとみられる。219日(795314日)に木工頭に任命された

 

征夷大将軍

延暦二十年の征夷

延暦15125日(79639日)、田村麻呂は陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命されると、同年1027日(7961130日)には鎮守将軍も兼ねることになった。延暦16115日(7971127日)、桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられたことで、東北地方全般の行政を指揮する官職を全て合わせ持った。

 

桓武朝第三次蝦夷征討が実行されたのは3年後の延暦20年(801年)だが、田村麻呂がどのような準備をしていたかなどの記録は『日本後紀』に記載されていたと思われるものの、記載されている部分が欠落している。延暦17年閏524日(798712日)に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛権中将になると、延暦19116日(8001125日)に諸国に配した夷俘を検校するために派遣されている。この頃には、肩書きが「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍」となっていた。

 

延暦20214日(801331日)、田村麻呂が44歳のときに征夷大将軍として節刀を賜って平安京より出征する。軍勢は4万、軍監5人、軍曹32人であった。この征討は記録に乏しいが、927日(801116日)に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり、征討が終了していたことがうかがえる。また「討伏」という表現を用いて、蝦夷征討の成功を報じている。

 

同年1028日(801127日)に凱旋帰京して節刀を返上すると、117日(8011215日)に「詔して曰はく。云々。陸奥の国の蝦夷等、代を歴時を渉りて辺境を侵実だし、百姓を殺略す。是を以て従四位坂上田村麿大宿禰等を使はして、伐ち平げ掃き治めしむるに云々」と従三位を叙位された。12月には近衛中将に任命された。

 

胆沢城造営

延暦2117日(802212日)、坂上田村麻呂が霊験があったことを奏上した陸奥国の3神に位階が加えられた。

 

同年19日(802214日)、坂上田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として胆沢城を造営するために陸奥国へと派遣された。

 

同年111日(802216日)には、諸国等10ヵ国の浪人4000人を陸奥国胆沢城の周辺に移住させることが勅によって命じられている。かつては胆沢城の造営について、大墓公阿弖利爲らを降伏に追い込む契機となった出来事ではないかと指摘されてきた。近年では和平交渉の結果、阿弖利爲らの正式降伏に向けてシナリオが定まり、それにともなって戦闘が全面的に終結したため、本格的な造営工事の着手が可能になったとの見方もされている。

 

同年120日(802225日)に坂上田村麻呂が度者(僧侶)を1人賜っている。理由は不明であるが、『類聚国史』によると坂上田村麻呂を含めた8人が度者1人を一括して賜ったとある。戦乱による彼我の戦没者の冥福を祈るため、蝦夷の教化のためなどの説が推定されている。

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