内容
島田虔次は、朱子学の内容を大きく以下の五つに区分している。
存在論 - 「理気」の説(理気二元論)
倫理学・人間学 - 「性即理」の説
方法論 - 「居敬・窮理」の説
古典注釈学・著述 - 『四書集注』『詩集伝』といった経書注釈、また歴史書『資治通鑑綱目』や『文公家礼』など
具体的な政策論 - 科挙に対する意見、社倉法、勧農文など
理気説
朱子学では、おおよそ存在するものは全て「気」から構成されており、一気・陰陽・五行の不断の運動によって世界は生成変化すると考えられる。気が凝集すると物が生み出され、解体すると死に、季節の変化、日月の移動、個体の生滅など、一切の現象とその変化は気によって生み出される。
この「気」の生成変化に根拠を与えるもの、筋道を与えるものが「理」である。「理」は、宇宙・万物の根拠を与え、個別の存在を個別の存在たらしめている。「理」は形而上の存在であり、超感覚的・非物質的なものとされる。
天下の物、すなわち必ずおのおの然る所以の故と、其の当(まさ)に然るべきの則と有り、これいわゆる理なり。
— 朱子、『大学或問』
「理」は、あるべきようにあらしめる「当然の則」と、その根拠を表す「然る所以の故」を持っている。理と気の関係について、朱熹はどちらが先とも言えぬとし、両者はともに存在するものであるとする。
性即理
朱子学において最も重点があるのが、倫理学・人間学であり、「性即理」はその基礎である。「性」がすなわち「理」に他ならず、人間の性が本来的には天理に従う「善」なるものである(性善説)という考え方である。
島田虔次は、性と理に関する諸概念を、以下のように整理している。
体 - 理 - 形而上 - 道 - 未発 - 中 - 静 - 性
用 - 気 - 形而下 - 器 - 已発 - 和 - 動 - 情
「性」は、仁・義・礼・智・信の五常であるが、これは喜怒哀楽の「情」が発動する前の未発の状態である。これは気質の干渉を受けない純粋至善のものであり、ここに道徳の根拠が置かれるのである。一方、「情」は必ず悪いものというわけではないが、気質の干渉を受けた動的状態であり、中正を失い悪に流れる傾向をもつ。ここで、人欲(気質の性)に流れず、天理(本然の性)に従い、過不及のない「中」の状態を維持することを目標とする。
性即理(せいそくり)は、「性」(人間の持って生まれた本性)がすなわち「天理」であるとする説。宋明理学の命題の一つ。中国北宋の程頤(伊川)によって提言され、南宋の朱熹に継承された、朱子学の重要なテーゼである。
朱熹は存在論として、理気二元論を主張する。「理」とは天地万物を主宰する法則性であり、「気」とは万物を構成する要素である。理とは形而上のもの、気は形而下のものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるとする。また、気が運動性をもち、理は理法であり、気の運動に乗って秩序を与えるとする。
そして、このような存在論的な「理」は人間の倫理道徳にも貫かれている。「理」は「性」である。この場合「性」は孟子の性善説に基づき善とされる。人間の本来性(理)は善であるが、現実の存在(気)においては善を行ったり、悪を行ったりする。そこで儒者は「居敬」や静坐を行ったり、「格物」や読書によって、その本来性(理)に立ち戻り、「理」を体得しなければならない。朱子学では「聖人学んで至るべし」と学問の究極的な目標は「理」を体得し「聖人」となることとされた。
居敬・窮理
朱子学における学問の方法とは、聖人になるための方法、つまり天理を存し、人欲を排するための方法に等しい。その方法の一つは「居敬」また「尊徳性」つまり徳性を尊ぶこと、もう一つは「窮理(格物致知)」、また「道問学」つまり知的な学問研究を進めることである。
朱熹が儒教の修養法として「居敬・窮理」を重視するのは、程顥の以下の言葉に導かれたものである。
涵養は須らく敬を用うべし、進学は則ち致知に在り。
— 程顥、『程氏遺書』第十八
ここから、朱熹は経書の文脈から居敬・窮理の二者を抽出し、儒教的修養法を整理した。三浦國雄は、この二者の関係は智顗『天台小止観』による「止」と「観」の樹立の関係に相似し、仏教の修養法との共通点が見られる。
「居敬」とは、意識の高度な集中を目指す存心の法のこと。但し、静坐や坐禅のように特定の身体姿勢に拘束されるものではなく、むしろ動・静の場の両方において行われる修養法である。また、道教における養生法とは異なり、病の治癒や長生は目的ではなく、あくまで心の修養を目的としたものであった。
日常のいかなる時であっても、意識を集中させ心を安静の状態(敬)に置くこと。
宋代の儒教では、心の修養に仏教や道教に依らない独自のものを模索していた。その一つに「敬」があり、朱熹(朱子)の先駆者であった程頤は、儒家経典である『論語』憲問篇の
「己を修めるに敬を以てす」
や『易経』坤卦文言伝の
「君子は敬もって内を直し、義もって外を方す。敬義、立ちて徳、孤ならず」
の「敬」を「主一無適」(意識を一つに集中させて、あちこち行かない)と定義し「持敬」という修養法を唱えた。朱熹はこれを継承して「敬」を重視し、「窮理」のための一つの方法とし、著書『敬斎箴』で、その実践法を説いた。
その後、朱子学では「居敬」と「静坐」とが修養法として行われ、「居敬」は特に重要視された。
「窮理」とは、理を窮めること、『大学』でいう「格物致知」のことで、事物の理をその究極のところまで極め至ろうとすることを指す。以下は、朱熹が「格物致知」を解説した一段である。
いわゆる「致知在格物(知を致すは物に格(いた)るに在り」とは、吾の知を致さんと欲すれば、物に即きて其の理を窮むるに在るを言う。蓋し人心の霊なる、知有らざるはなく、而して天下の物、理有らざるは莫(な)し。惟だ理に於いて未だ窮めざる有るが故に、其の知も尽くさざる有り。是を以て大学の始めの教えは、必ず学者をして凡そ天下の物に即きて、其の已に知れるの理に因りて益ます之を窮め、以て其の極に至るを求めざること莫からしむ。
— 朱熹、『大学』第五章・注、島田1967a、p.76
朱熹のこの説は、もともと程顥の影響を受けたものであり、朱熹注の『大学』に附された「格物補伝」に詳しく記されている。
儒教的世界観の中で全てを説明する朱子学は仏教と対立し、やがて中国から仏教的色彩を帯びたものの一掃を試みていくこととなる。
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