2026/04/14

トマス・アクィナス(3)

哲学

トマスは、その哲学において、アリストテレスの「形相-質料」(forma-materia)と「現実態-可能態」の区別を、存在者説明のために受け入れる。アリストテレスによれば、存在者には静態的に見れば「質料因」と「形相因」があり、存在者が何でできているかが「質料因」、その実体・本質が「形相因」である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが「可能態」であり、それが生成した様態が「現実態」である。

 

「形相-質料」は、主に質量を持つ自然界の存在者に該当対象が限られるが、「現実態-可能態」は自然界を超越した、質量を持たないで形相のみの存在者にまで該当対象が及ぶ。すべての存在者は、可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、すべての存在者の究極の原因である「神」(不動の動者)は、質料をもたない純粋形相でもあった。

 

しかし、トマスにとっては神が万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼はアリストテレスの存在観念に修正を加え、「本質不可欠存在」(essentia不可欠のente)とした。本質論者のアヴィケンナによる影響があった。彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であるが、「本質」はそれだけでは現実に存在できないため「可能態」である。一方、「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。そして神は自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。

 

人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって、知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られるのである。

 

法・政治論

トマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から、永久法の観念を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永遠法を「分有」することによって把握する自然法を導き出し、その上で人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される人定法と、神から啓示によって与えられた神定法という二つの観念を導きだした。

 

その詳細は以下のとおり。

 

永久法とは、この宇宙を支配する神の理念であり、そのうち理性的被造物たる人間が分有しているものが自然法である。そして自然法のうち、人間が何らかの効用のために特殊的に規定するものが人定法であり、人間がより強く永久法に与れるように神から補助的に与えられたものが神定法である。すなわち、人間の能力には限界があるために、人々は永久法から与った自然法にもとづいて適切に人定法を制定するということができず、また様々な意見の対立が生じるので、それを補うために神から与えられたものが神定法である。

 

ここで神定法として念頭に置かれているのは、旧約聖書と新約聖書において命じられている事柄であり、前者は旧法(lex vetus)、後者は新法(lex nova)と呼ばれる。永久法は神のうちにある最高の理念であり、あらゆる法の源泉である。このような永久法の一部である自然法は、あらゆる人定法の源泉であり、その妥当性の基準となるとして、トマスは永久法・自然法・人定法の階層構造を認めたのである。

 

トマスは著作を自ら筆記せず、口述したものを弟子たちに書き取らせた。トマスは悪筆で有名で、初期の伝記作家によればトマスは複数の筆記者にそれぞれに異なった事柄を話し、あたかも「神からの真理の巨大な奔流が、彼のうちに流れこんでいるかのようだった」という。このような伝説的な逸話は別としても、近代の研究者も写本の研究から、トマスが覚書を手にして読み上げながら、自分が読み上げた文章を必要に応じて修正し、他の著作を引用するときはその書物を取り出して読んでいたのであろうと推測している。

 

その著作において、トマスはドゥンス・スコトゥスらと違い、読者にも自らの思想の軌跡を懇切丁寧に追体験させるような表現をせず、権威を持って教えるという形にしている。これは彼が啓示を受けて著作したというスタンスに立っているためであり、そのためトマスの著作は現代のわれわれの視点からは、やや物足りないという感を与えるものになっている。

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