2026/05/06

世阿弥(世阿彌)

世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18/貞治2年(1363年)? - 嘉吉388日(144391日)?)は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は、観世流として現代に受け継がれている。

 

幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)、そして二条良基から藤若の名を賜る。通称は三郎。実名は元清。父の死後、観世大夫を継ぐ。40代以降に時宗の法名(時宗の男の法名〈戒名〉は阿弥陀仏〈阿彌陀佛〉号。ちなみに世は観世に由来)である世阿弥陀仏が略されて世阿弥と称されるようになった。世の字の発音が濁るのは、足利義満の指示によるもの。正しくは「世阿彌」。

 

生涯

世阿弥が生まれたとき、父である観阿弥は31歳で、大和猿楽の有力な役者であった。観阿弥がひきいる一座は興福寺の庇護を受けていたが、京都へ進出し、醍醐寺の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演し、大和国十市郡の補巌寺で竹窓智厳に師事し、参学した。

 

1374年または1375年、観阿弥が新熊野神社で催した猿楽能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍足利義満の目にとまった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。1378年の祇園会では、将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「後愚昧記」)。1384年に観阿弥が没して、世阿弥は観世太夫を継ぐ。

 

当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政二条良基には連歌を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。

 

義満の死後、将軍が足利義持の代になっても、世阿弥はさらに猿楽を深化させていった。『風姿花伝』(1400年ごろ成立か)『至花道』が著されたのもこのころである。義持は猿楽よりも田楽好みであったため、義満のころほどは恩恵を受けられなくなる。

 

義持が没し足利義教の代になると、弾圧が加えられるようになる。1422年、観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、自身は出家した。しかし将軍足利義教は、元雅の従兄弟にあたる観世三郎元重(音阿弥)を重用する。一方、仙洞御所への出入り禁止(1429年)、醍醐清滝宮の楽頭職罷免(1430年)など、世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。

 

1432年、長男の観世元雅は伊勢安濃津にて客死した。失意の中、世阿弥も1434年に佐渡国に流刑される。1436年(永享8年)には『金島書』を著す。公的記録に佐渡への流罪の記録は見つからず、流罪の原因は不明で、世阿弥自身は『金島書』で無実の罪としている。娘婿の金春禅竹が世阿弥の妻の面倒をみるとともに、佐渡にものを送り届け生活にさほど不便でなかったらしい。

 

同地で亡くなったという説が有力であるが、後に赦免されて帰洛したともいわれ、幼少時に参学した補巌寺に帰依し、世阿弥夫妻は至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ、田地各一段を寄進したとの能帳も残るとされ、大徳寺に分骨されたのではないかといわれている。「観世小次郎画像賛」によれば、嘉吉3年(1443年)に没したことになっている。

 

業績

世阿弥の作品とされるものには、『高砂』『井筒』『実盛』など50曲近くがあり、現在も能舞台で上演されている。また、『風姿花伝』などの芸論も史料価値だけではなく、文学的価値も高いとされている。

 

芸道論

著書『風姿花伝』(『風姿華傳』、『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説く。

 

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」

として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。

 

世阿弥が述べた「離見の見」とは、演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもつことである。

 

後世の評価

著書『十六部集』が1883年に発見され、能の大成者として高い評価を受けるようになったが、現在の観世家が音阿弥につながる流れとなったこともあって、一般のみならず能楽師の間でもほとんど忘れられていた。

 

2000年(平成12年)に朝日新聞社が実施した識者5人(荒俣宏、岸田秀、ドナルド・キーン、堺屋太一、杉本苑子)が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、世阿弥は徳川家康・織田信長に次いで得票数で3位を獲得した。

2026/04/30

遼(契丹)(1)

遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。

 

中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)とされる。ただし、領有したのは燕雲十六州と遼寧のみであり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。

 

名称

建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、正確には947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と称すべきであるが、便宜上まとめて遼とする。

 

歴史

11世紀のアジア

現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。

 

太祖耶律阿保機は、西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。

 

さらに2代耶律徳光は、五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて、多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と宋式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。

 

宋の太宗は、燕雲十六州の奪還をもくろんで北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。

 

6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り「澶淵の盟」を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。

 

その後は、宋から入る収入により経済力をつけたことで国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。

 

女真は次第に強大になり、1115年には自らの金王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗した。

 

この遼の弱体を見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた(遼の滅亡)。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼や、13世紀に成立した旧王族耶律留哥の東遼などもある)。

 

政治

遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。

 

北面官の機関には、北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。

 

南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし、南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。

 

この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを宋の体制に一本化しようとする派と、契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。

 

遼の兵制は北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。

 

地方行政

遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市として「府」が設けられた(複都制)。

 

    上京臨潢府(現在の内モンゴル自治区赤峰市バイリン左旗南波羅城)…キタイ人の本拠

    東京遼陽府(現在の遼寧省遼陽市)…渤海人の中心地

    中京大定府(現在の内モンゴル自治区赤峰市寧城県)…奚人の中心地

    西京大同府(現在の大同市)…沙陀チュルク人の中心地

    南京析津府(燕京:現在の北京市)

 

首都は、上京臨潢府で、内モンゴル自治区バイリン左旗(赤峰市北方の大興安嶺山脈の麓)の南に置かれた。遼の五京制は、女真(ジュシェン)国家の金朝にも引き継がれた。

 

日本との関係

中国()と日本との間には正式な国交はなかったが、『遼史』の「太祖本紀」には天賛4年(925年)冬十月庚辰に「日本国、来貢す」との一文がある。

 

また日本側の『中右記』によれば、寛治6年(1092年)913日の記事として、明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で、検非違使から取り調べを受けている。

 

続いて、嘉保2年(1094年)525日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された。

 

なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として、遼の太祖を挙げている。

 

『将門記』によれば、939年の承平天慶の乱の折、将門が時の太政大臣・藤原忠平の四男の藤原師氏に当てた奏状には

 

「今の世の人は、必ず勝つ実力をもって君主となる。たとえ我が朝廷でなくとも、人の国であることに変わりがない。去る延長年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」

 

との一文がある。

 

高麗との関係

993年、契丹は鴨緑江以南の高句麗の故地を獲得するために、はじめて高麗に侵攻した。翌年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)を行うことを告げた。

 

その後、顕宗元年(1010年)に至る時期に高麗は契丹に方物を献じ、契丹語を習い、婚を請い、幣を納め、冊封を乞い、生辰を賀するなどの修好をおこなった。『高麗史』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している。

 

高麗王顕宗が即位すると、契丹は康兆の弑君を理由に大いに問罪の師を興し、高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼の聖宗は高麗に親征し、この年(1010年)十二月郭州(現在の朝鮮民主主義人民共和国平安北道郭山郡)を攻陥した。

2026/04/28

オッカムのウィリアム(2)

存在論的倹約

オッカムが近代科学、および近代の知的文化に対してなした一つの重要な貢献として、オッカムの剃刀と呼ばれるようになる、説明や理論構築の上でのケチの原理がある。

 

バートランド・ラッセルの解するところでは、この格言は、ある仮定された存在がなくても現象を説明できるならば、その存在を仮定する理由がない、つまり常に原因、要因、変数が可能な限り最小となる説明を選ぶべきだということを言っている。彼は、この原理を存在論的倹約に用いた。この原理によれば、必要以上に存在を増やすべきでないEntia non sunt multiplicanda sine necessitateということになる。ただし、この著名な原理の定式化は、現存するオッカムの著作のどこにも見出されない。

 

彼は次のように定式化している

「自明(語義上は、それ自体を通じて知られる)であるか、経験によって知られているか、権威や聖典によって証明されるかしていない限り、理由がないなら何ものも仮定されるべきではないので[要出典]。」

 

オッカムにとって、唯一の本当に必要な存在は神であった。他のすべてのものは不確定である。そのため彼は充足理由律を受け入れず、本質と実在の区別を否定し、能動的知性と受動的知性というトマス・アクィナスの学説に反対した。彼の存在論的倹約の要求によって導かれる彼の懐疑論は、人間の理性は魂の不滅性も神の存在、唯一性、無限性も証明できないという彼の学説の内に現れる。彼の説くところによれば、こうした真理は啓示によってのみ知られる。

 

自然哲学

オッカムは自然哲学に関する膨大な量の著作を書いており、そのなかにはアリストテレスの『自然学』の長い注釈書もある。存在論的倹約の原理に従って、アリストテレスの十のカテゴリーのすべてを使う必要はないと、オッカムは述べている。たとえば、数学的存在が「現実」ではないために量のカテゴリーは不必要である。数学は実態や質といった、他のカテゴリに適用されなければならず、そのため近代科学のルネサンスを予期する一方で、アリストテレスが「メタバシス」を禁止したのを破る。

 

知識の理論

知識の理論においては、オッカムはスコラ学の種の理論を不必要で経験によって支持されていないとして否定し、普遍(:abstractum)の理論のほうを好んだ。これは後期中世認識論における重要な発展である。さらに彼は直観的認識(notitia intuitiva)と抽象的認識(notitia abstractiva)とを区別した。直観的認識は対象が存在するか否かに基づいているが、抽象的認識は対象を存在するという述語から「抽象」する。この二つの認識活動の果たす役割に関しては、解釈者の間でもいまだに評価が定まっていない。

 

政治理論

西洋を形作った理論、特に責任の制限された政府という理論を発展させてきた功労者としてもオッカムは徐々に認知されつつある。彼は中世で初めて教会と国家の分離という形式を唱道しており、所有権の概念の初期の発展においても重要である。彼の政治思想は「自然な」つまり「世俗的」だとみなされていて、世俗絶対主義の立場に立っている。君主が責任を負うという発想は『Dialogus(1332-1348年に書かれた)で支持されており、公会議主義運動に大きな影響を与え、自由民主主義思想の発生を助長した。

 

論理学

論理学の分野では、オッカムはのちにド・モルガンの法則と呼ばれる公式を書き残しており、3値論理、つまり三つの真理値を持つ形式体系について考察した。これは1920世紀に数理論理学の分野で再び取り上げられた。

 

文学的オッカミズム/唯名論

オッカムとその作品は数人の文学作品や人物、特にジョフリー・チョーサー、他にジャン・モリネ、詩人のガーウェイン、フランソワ・ラブレー、ジョン・スケルトン、ノリッジのジュリアン、ヨーク市の劇、ルネサンスのロマンス文学などに対する影響を与えたのではないかとして議論されている。実際には、これらのうちごくわずかなものだけがオッカムと彼の著作との関係を説明できる。しかし、オッカム主義者・唯名論者の哲学・神学と中世からポストモダンにかけての文学作品との間の対応関係は、文学的唯名論という学的パラダイムのもとに議論されている。

2026/04/24

ノルマンディー公国(4)

https://timeway.vivian.jp/index.html

 当時の神聖ローマ皇帝はハインリヒ4世(位1056~1106)。

グレゴリウス7世とやりあうことになるんですが、ドイツ国内でハインリヒ4世の立場は非常に微妙だった。実は、ドイツは古いゲルマン部族集団が比較的崩れずに残っていて、その流れをひく大諸侯たちの勢力が大きかった。皇帝の地位は、はじめから大諸侯の中の第一人者という面が強かったのです。何かあったら皇帝の足をすくって、混乱に乗じて自分が皇帝になりたいとか領地をぶんどってやりたいとか、野心をもっている諸侯がかなりいた。かれらは、皇帝に反抗するきっかけを待っていた。

 

 そこに起こったのが叙任権闘争です。

 

 グレゴリウス7世は武力はありませんが、神に仕える身です。敵を追いつめる独特の手段があった。それが破門です。キリスト教にとって、教会や聖職者の役目はそもそも何かというと、信者が死んだあと天国にいけるように、神さまに「とりなす」ことです。ローマ教会の「とりなし」がなければ天国にいけない。破門にするということは「とりなしてやらない。お前のためには祈ってやらない。」ということだね。

 

 グレゴリウス7世は、この武器を使った。ハインリヒ4世を破門にしたのです。ハインリヒ4世が、どれだけ真剣に天国や地獄や教会の「とりなし」を信じていたかはわかりませんが、本当に信じていれば、この破門は滅茶苦茶恐ろしいはずです。なにしろ地獄行きが確定するのですから。

 

 信仰上の恐怖だけでなく、この破門はドイツ国内の有力諸侯たちに反抗の口実をあたえることになってしまった。諸侯たちは

「ローマ教皇から破門されたような人物を皇帝にはできない。一年以内に破門が解かれなければ、あんたには皇帝をやめてもらうで。」

と言いだした。

 ハインリヒ4世、これには困ってしまった。何とか破門を解いてもらわなければならなくなった。

 

 聖職者叙任権どころか、自分の来世と皇帝の地位が危なくなってしまったハインリヒ4世は、グレゴリウス7世の所に詫びを入れにいきました。ドイツからアルプスを越えて、イタリア側のアルプス山麓のカノッサ城に出向いた。教皇はローマではなく、カノッサ城にこもっていたのです。1077年のことです。冬のアルプスを家族を連れて越えたというから、かなり難儀な旅だったでしょう。

 

 カノッサ城までやって来たハインリヒ4世ですが、教皇は面会もしてくれなければ城内に入れてもくれない。破門を解いて欲しければ誠意を見せろと言われてしまう。ハインリヒ4世、誠意なんて見せようがありませんからね。結局門の外で、裸足に粗末な衣装を身につけただけの姿で、三日三晩泣きながら詫びつづけたといいます。しかも雪の降る中で。

 

 この事件のことを「カノッサの屈辱」といいます。

 

 結局、その甲斐があって破門は解かれることになりました。

 

 危機を脱したハインリヒ4世は、こののち逆にグレゴリウス7世を追いつめて廃位して「カノッサの屈辱」の復讐をするのですが、皇帝ともあろうものが、教皇の前で立ちんぼうで泣きながら詫びたという事実は消えない。

 この事件をきっかけにして、西ヨーロッパでローマ教皇の権威が高まっていきました。

 

 叙任権闘争に関しては、この後も皇帝と教皇のあいだの争いはつづくのですが、1122年のヴォルムス協約で両者の妥協が成立しました。

 

 さて、教皇の権威が高まっていく過程で有名な教皇が二人。

 

 ひとりがウルバヌス2世(位1088~99)。この人は1095年、クレルモンの公会議で十字軍を提唱したので有名。長期に渡る大遠征の火付け役になった人です。

 

 もうひとりが、インノケンティウス3世(位1198~1216)。教皇の権威が絶頂になった時代の人です。政治的にも有能で、破門という武器を最大限利用しながらイギリスやフランスの政治に介入しました。かれの言葉として伝えらえているのが「教皇は太陽、皇帝は月」というせりふ。教皇権の絶頂ぶりがうかがえるね。

 

 最後に修道院の話に戻りますが、教会組織を改革していったクリュニュー修道会も、時代とともにその役割を終えていく。

 

 13世紀には、それまでになかった托鉢修道会というものが現れます。その代表が、フランチェスコ修道会とドミニコ修道会。この修道会は修道院をもたない。修道士は何の財産も持たずに托鉢しながら、野宿して暮らす。徹底的な禁欲生活を送るのです。

 

 フランチェスコ修道会の設立者、聖フランチェスコは、こんなことを言っている。自分たちが雨に濡れ飢えと寒さで震えながら、どこかの町の教会堂にたどり着き、一晩の宿と食事をもらおうとして扉をたたく。そうしたら教会堂の門番が出てきて、ゆすりたかりの悪党と間違えられて、骨が折れるほど棍棒で殴りつけられる。

「その時私達が受難のキリストの苦悩を思い、それを喜んで耐えることができたら、そこにこそ完全な喜びがあるのだ」

だって。

 

 聖フランチェスコは、もともとはなに不自由のない裕福な商人の家に育った。青年時代は、さんざん悪さもしたらしい。それが、信仰の道に目覚めて徹底的に禁欲的な生活に入るんです。諸国を托鉢遍歴しながら、民衆に罪を悔い改めよを説いた。私なんかは、何となく一遍上人と重なる人です。

 

 ともかく、以前のクリュニュー修道会のように托鉢修道会も民衆の信頼をあつめ、キリスト教組織を活性化する役割を果たしました。

2026/04/23

オッカムのウィリアム(1)

オッカムのウィリアム(英: William of Ockham1285 - 1347年)は、フランシスコ会会士、後期スコラ学を代表する神学者、哲学者。通例オッカムとのみ言及されるが、これは下記のように姓ではなく出身地で呼んだものである。哲学や科学における節約の原理「オッカムの剃刀」の提唱者として知られている。

 

経歴

1285年、イングランドのオッカム村に生まれる。オックスフォード大学で学ぶ。30歳を過ぎても命題集講師の職にとどまっていた。と言うのは、ボナヴェントゥーラ系フランシスコ会士として、トミスト(トマス・アクィナスの継承者)の立場をとる学長、ジョン・ラットレルと対立していたからである。フランシスコ会の会則の解釈をめぐり、いわゆる清貧派の立場をとる。普遍論争では急進的な唯名論の立場に立つ。

 

1323年、ジョン・ラットレルから異端だとして、当時アヴィニョンにあった教皇庁に訴えられる。ローマ教皇・ヨハネス22世と対立、1324年、異端審問のためアヴィニョンの教皇庁へ召還される。1326年、教皇は、オッカムの学説を異端として破門を宣告する。このときマイスター・エックハルトも異端の容疑で告発され、オッカムはエックハルトと会ったことを書き残している。

 

オッカムは、フランシスコ会総長チェーザナのミカエルとともにアヴィニョンからミュンヘンへ逃亡し、聖職叙任権などをめぐり教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。その後ミュンヘンに居住したオッカムは、同地でペストによって没し、市城壁外のペスト死亡者用墓地に葬られた。

 

信仰と理性

オッカムのウィリアムは

「信仰によってのみ、人間は神学的真理に到達できる。神の道は理性に開かれていない、というのは神は何物にも縛られずに世界を創造することを選択して、人間の論理や合理性が物事から覆いを取るのに必要な法則に頼ることなく、その世界での救済の方法を打ち立てるからである」

と信じていた。

 

オッカムの神論は、個人的啓示と信仰のみに基づいていた(彼は信仰と理性が矛盾しないという考えを支持していた)。科学のみが発見の方法であり、科学のみが神を唯一の存在論的必然物とみなすことができると彼は信じていた。

 

哲学的思索

Quaestiones in quattuor libros sententiarum

スコラ派において、オッカムは方法と内容の両面において改革を唱道したが、その狙いは簡易化にあった。オッカムは数人の先行する神学者の著作、特にヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの著作の多くを統合した。オッカムはスコトゥスから、神の全能性や恩寵といった概念、認識論や倫理学的意見を受け継いだ。しかし、予定説、受難、普遍の理解、「ex parte rei」(つまり、「物の側の」)の特性、節約の原理といった分野では、オッカムはスコトゥスに反する意見を持った。

 

唯名論

個物を超越した普遍、本質、形相といったものではなく個物のみが存在するものであり、普遍は人間の心が個物を抽象して生み出したものであって、心に外在する存在ではないという立場を強く主張したために、唯名論の開拓者であるオッカムを近代的認識論の父とみなす者もいる。彼は形而上学的な普遍が実在することを否定して、存在論の縮小化を唱道した。

 

オッカムは唯名論よりも、むしろ概念論の唱道者とみなされることもある。というのは普遍は名前に過ぎない、つまり存在する実在物ではなく、むしろ言葉に過ぎないと唯名論者が考えるのに対して、概念論者は普遍は心的な概念である、つまり名前は概念の名前であると考えるからである。ここで概念は心の中にのみであるが、存在するものとみなされている。それゆえに、普遍概念は人間の外部に存在する実在物ではなく、それ自体を理解することによって生まれ、心の内で心がそれを帰するものを「前提」する内的表象としての対象を持つ。つまり、それはさしあたって自身が表す物の場所を持つのである。

 

それは心を反映する行為を表す術語である。このゆえに普遍は単なる言葉でもなければ、コンピエーニュのロスケリヌスが言うような「セルモー(:sermo)」やアベラールが言う文の中で使われる言葉でもなく、実在物に対応する心的な代替物であり、反映の過程を表す術語である。このため、オッカムは唯名論者とも概念論者とも区別されて「記号論者」と呼ばれてきた。