2007/07/02

シューマン 交響曲第3番『ライン』(第2楽章)

 


 183039年(20歳代)は「ピアノ曲の時代」。

 最初の作品『アベッグ変奏曲』(30年)を始め、『幻想小曲集』(37年)、『子供の情景』(38年)、『クライスレリアーナ』(38年)など、ピアノ曲ばかり作曲したのは、ピアノから入った彼としては順当な所であった。

 

 1840年(30歳)は「歌曲の年」で『女の愛と生涯』、『詩人の恋』など、138曲もの歌曲を一気に書いている。

 

 このように、同時期に同じジャンルのものをまとめて書き上げるのが、シューマンの作曲スタイルである。

 

 この1840年は、師ヴィークの娘クララと結婚出来た年でもある。

 シューマンの師ヴィークは、教え子シューマンの才能は認めていたものの「病弱そうな」シューマンと娘クララとの結婚には猛反対した。このため裁判沙汰の末、漸く2人が結ばれることになったのが1840年である。

 

 翌1841年(31歳)は「交響曲の年」。

『交響曲第1番「春」』や『交響曲第4番』(出版順で「第4番」と呼ばれるが、作曲順では2作目)を書き、小品から大作への転回点と成った。

 

 1842年以降は「器楽曲の時代」とも言える時期で『ピアノ五重奏曲』(42年)や『弦楽四重奏曲第3番』(42年)など、器楽作品を集中的に書き出した。

 

 1843年(33歳)には、メンデルスゾーンが創設したばかりのライプツィヒ音楽院の教授を1年間務め、1844年(34歳)にドレスデンに移る。

 この頃から精神錯乱の兆候を見せ始め、その苦しみの中で1845年には『ピアノ協奏曲』や『交響曲第2番』などを作曲している。

 

 そして1850年(40歳)、ライン川東岸のデュッセルドルフに転地療養も兼ね、指揮者として赴いた。

 『交響曲第3番「ライン」』は、デュッセルドルフに向かう途次のライン地方の風景やケルン大聖堂の儀式の印象を基に書かれた曲で、その気分転換の効果は明るい解放感と成って曲全体に満ちている。

 

2楽章 きわめて中庸に(Sehr mäßig

 スケルツォということだが、実際には流れるような感じのロンドである。

 主題は、レントラー舞曲風の美しい素朴さがある。

 途中、細かい音の動きが入った後、ホルンなどによって短調の主題が登場する。

 ライン川沿岸の、長閑な風景を彷彿とさせるような魅力的な楽章と言える。

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