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この作品はシューベルト最後の室内楽作品なのですが、時代を超えた抜きんでた内容ゆえに長きにわたって無視されてきた作品でもあります。
自筆譜を所持していたのはディアベッリなのですが、この作品の価値が理解できなかった彼は、これを出版しようとはせんでした。さらに、どのような経緯があったのかは不明ですが、結果としてその自筆譜は失われてしまうことにもなりました。そう言うこともあって、この作品がようやく初演されたのは、シューベルトが亡くなってから20年以上が経過した1850年のことであり、出版はその3年後の1853年でした。
では、ディアベッリが理解できなかった「新しさ」とは何だったのでしょうか。
まず一つめは、自らが五重奏曲の範としていたモーツァルトの作品のスタイルを乗り越えようとしていたことです。
モーツァルトの五重奏曲は、弦楽四重奏の編成にヴィオラを追加することで内声部の充実を図っていました。しかし、シューベルトはチェロを追加することで低声部を充実させ、その充実した低声部を土台として、よりシンフォニックな音楽を指向したことです。そのシンフォニックへの指向は「ロザムンデ」や「死と乙女」という二つの弦楽四重奏曲を「交響曲への道」として位置づけていたように、それは晩年のシューベルトの執念のようなものでした。
そしてシューベルトは、その二つの弦楽四重奏曲(「ロザムンデ」と「死と乙女」)を完成させた後に、さらにその道を推し進めようとト長調の弦楽四重奏曲(D.887)を完成させ、さらにそこから少し時をおいて、より響きを充実させた五重奏曲という編成で、よりでシンフォニックな広がりを追求したのです。
そのために、シューベルトはヴィオラではなくチェロを編成に追加し、さらに、その二つのチェロをペアとして扱うのではなく、それぞれに独立した動きを与えることで低声部の厚みを増すだけでなく、時にはヴィオラやヴァイオリンと結びつくことで、その他の音域でも厚みを増すように工夫しているのです。
おそらくディアベッリは、このチェロの扱い方の意味するもの、その新しさが理解できなかったのではないでしょうか。
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