2018/11/30

原始仏教の教理(釈迦の思想10)


 ブッダに帰依する人々が集まり、僧団が形成され、それが発展するとともにブッダの教えは急速に整備され、体系化されていった。そして、三宝・三法印・縁起・四諦八正道などのまとまりのある説が成立してくる。

1. 無記
 原始仏教が思想を構築していく上でとった基本的な立場は、無記である。

 「無記(avyākata, avyākta)とは、形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ることである。無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という本来の目的を見失わないためにとられた立場である。

 『マッジマ・ニカーヤ』(中部経典)第63経「小マールンキャ経」は、世界が永遠であるか否か、有限であるか否か、生命と身体は同一のものであるか否か、人は死後存在するか否かという問題について、ブッダが何も語らなかったことを「毒矢のたとえ」によって巧みに表現している。

 毒矢にいられ、苦しむ人を前にして、医者が患者の身分、階級、弓の種類、矢の種類などについて知られない間は治療しないとしたら、その人は死ぬ。
 世界が永遠であろうとなかろうと、有限であろうとなかろうと、生命と身体が同一であろうとなかろうと、人が死後存在しようとしまいと、人は生まれ、老い、死に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩む。

 ブッダは、現実にそれらの苦しみを止滅することを第一義の目的とした。あくまで、この目的を見失うまいとするのが「無記」の立場である。ここには、心の病の医者としてのブッダの側面が如実に現れている。

2. 中道
 実践においては「中道」が説かれる。「中道」とは、単に二つの極端な立場の中間をとるというのではなく、二つの極端から離れた自由な立場、矛盾対立を超越している立場を意味する。

 当時のインドには、苦しみから解放されるために、どのような実践方法をとるかについて、さまざまな立場があった。ローカーヤタ派のように快楽主義に立つ思想もあったが、大方はいかにして欲望を制御するかに関心があった。欲望が苦しみの原因と考えられたからである。欲望を制御する方法として、さかんに行われたのは、肉体の苦痛を耐えしのぶ苦行(タパス)である。ブッダも、悟りを得るまでの一時期、苦行を実践したことがあるが、後に苦行の無意味さをさとり、瞑想すなわち禅定の方法を選んだとされる。このことから、ブッダは快楽主義でも苦行主義でもない「中道」をとったといわれる。そして「中道」が修行者のとるべき道として説かれる。

 「修行僧らよ、出家した者が近づいてはならない二つの極端がある。二つとは何か。一つは、欲望の中にあって、欲楽にふけることで、劣っていて、いやしく、凡愚のすることで、聖なるものでなく、目的にかなうものではない。もう一つは、自分を苦しめることにふけることで、苦しく、聖なるものでなく、目的にかなうものではない。如来は、両極端に近づくことなく、中道を悟った。これは、(真理に対する)眼を生じ、知を生ずるもので、心の平静・神通力・悟り・涅槃へ導く。」(Mahāvagga 1-6-17)

 具体的には、中道は八正道であるとされる。八正道については、後に説明する。

3. 前提となる世界観ーー輪廻・業
 最古層の詩句には、業・輪廻の思想は明確には現れてこない。しかし、当時一般に広まっていたこの思想は、ごく早い時期に仏教の中にとりいれられた。『スッタニパータ』でも第 3章には濃厚に現れ、その第10経コーカーリヤには嘘の報いとして落ちる地獄のありさまが詳しく説かれる。このような思想は大衆教化に重要な役割を果たしたと思われる。このことは仏教説話『ジャータカ』からも推測される。『ジャータカ』は、大衆向けの教訓的な寓話をブッダの前世物語として説くものであるが、ここには業・輪廻の思想が前面に押し出されている。

 輪廻の観念を受けて、苦しみからの解放は、この苦しみの生存からの離脱、すなわち輪廻から脱することであると考えられるようになる。そして悟りを表す表現は、次のように定型化された。

「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」

 ところで、何に生まれ変わるかを決定する原因が何であるかについては、ブッダ時代の一般社会において、さまざまに考えられていた。臨終に際しての意志によるとの考え、あるいは神の意志によるとの考えもあったが、支配的な考えは、前世における業によるという考えであった。

 ブッダと同時代の自由思想家の中には、プーラナ・カッサパやアジタ・ケーサカンバリンのように、業の因果応報を積極的に否定したものもあった。彼らは善悪の行為が後に安楽と苦しみの果報をもたらすことはないと考えた。またマッカリ・ゴーサーラのように運命論を説く人もいた。さらに、業の因果応報思想の中には、前世での行為(業)を宿命のようにみなす決定論的な考えもあった。現世での行いは、善であれ、悪であれ、すべて前世の業によって規定されているというのである。この説によれば、意志の自発による行為は認められない。

 これらに対し、仏教やジャイナ教は、このような人間の行為の効力を認めない説を行為否定論(akiriyavaada, akriyaavaada)と呼び、道徳を破壊する説として非難した。

 仏教は「世尊は業論者、行為論者、努力論者であった」(Anguttara Nikaaya I p.287)として、業思想を容認しつつ、行為・努力に生存のあり方を変える効力を認める立場をとった。

行為がその後に効力を残し、その後の生存を決定することを認め、しかも現在の行為は過去と無関係に行われるということは、一見矛盾のように響く。この点について、後代の部派仏教では教理の整備が行われた。説一切有部では、次のように説かれる。

 善悪の行為は因となる。結果として生ずるのは快か不快であるが、これらは善でも悪でもない。善悪の行為を因として、それとは異なる善でも悪でもない結果が熟すから、これらは異熟といわれる。この善でも悪でもない結果が因となって、次の業(行為)を生ずることはない。過去の行為(異熟因)によって現在の苦楽(異熟果)は規定されても、現在の行為はそれによって規定されない。行為は行為者の意志によって起こるのであって、過去の行為によって支配されないというのである。

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