2019/02/28

豊鍬入姫命 ~ 水垣の宮の巻【崇神天皇】(1)

口語訳:御眞木入日子印惠命は、師木の水垣の宮に住んで、天下を治めた。

この天皇が木國造、荒河刀辨という者の娘、遠津年魚目目微比賣を妻として生んだ子は、豊木入日子命、次に豊鉏入日賣命の二人である。

また尾張連の祖、意富阿麻比賣を娶って生んだ子は、大入杵命、次に八坂之入日子命、次に沼名木之入日賣命、次に十市之入日賣命の四人である。

また大毘古命の娘、御眞津比賣命を娶って生んだ子は、伊玖米入日子伊沙知命、次に伊邪能眞若命。次に國片比賣命、次に千千都久和比賣命、次に伊賀比賣命、次に倭日子命の六人である。

この天皇の御子は、全部で十二人だった。<男七人、女五人である。>

 

この天皇の後の諡は崇神天皇という。

 

口語訳:伊久米伊理毘古伊佐知命は、後に天下を治めた。

次に豊木入日子命は、<上毛野君、下毛野君らの先祖である。>

その妹、豊鉏比賣命は、<齋王となって伊勢大神の宮に仕えた。>

次に大入杵命は、<能登臣の先祖である。>

次に倭日子命。<この王の時、初めて陵に人垣をたてた。>

 

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと、生没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。

『日本書紀』では「豊鍬入姫命」「豊耜入姫命」、『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記される。

10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

 

『日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女である。同母兄に豊城入彦命(豊木入日子命)がいる。

なお『日本書紀』では、「一云」として、母を大海宿禰の娘の八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)とする異伝を載せる。

 

『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗している。

 

同書垂仁天皇25310日条によると、天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着くこととなる(伊勢神宮起源譚)。

 

『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されている。

 

考証

豊鍬入姫命と倭姫命とは、ともに伊勢神宮の斎宮の起源に求められる(ただし、制度上の最初の斎宮は天武皇女の大来皇女)。また上記伝承から、伊勢神宮の神格成立の要素として、豊鍬入姫命が出自とする紀国造の氏神の日前神や、三輪山(一説に笠縫邑祭祀と関連)での日神信仰の存在が指摘される。

 

そのほか名前の「豊(とよ)」から、豊鍬入姫命を邪馬台国における卑弥呼宗女の台与(壹與/臺與)に比定する説がある。

2019/02/24

ローマの発展

出典 http://timeway.vivian.jp/index.html

  イタリアの首都、ローマですが、ここはもともとは小さな都市国家でした。ギリシアのポリスと似たような構造で、アテネに比べて200年くらい遅れて発展してきました。

アレクサンドロス大王がペルシアを滅ぼしたあと、なぜそのままインド方面に向かったのか、西に、つまりイタリア半島の方向へ遠征を考えなかったのはなぜか。つまり現在のイタリア方面には、遠征するだけの魅力はなかった。後進地帯だったわけです。

このローマが、やがて大発展してアレクサンドロスの後継国家、つまりヘレニズム国家をすべて支配する大帝国になるのです。その経過を見ておきましょう。

ローマは前8世紀頃、ラテン人によって建国されました。ラテン人は、インド=ヨーロッパ語族です。今でもイタリア人やスペイン人をラテン系民族というのは、ローマ帝国の支配下に入ってラテン人の血を引き継いでいる、という意識から来るようです。

都市国家ローマには最初は王がいましたが、前6世紀には王を追放して共和政が始まりました。王がいる政治制度が王政、王がいないのは共和政です。こういう用語は覚えておこう。アメリカ合衆国は王がいませんから共和政、イギリスは女王がいますね、だから王政。韓国は、共和政。じゃ、日本は? 王はいないけど天皇がいる。どっちだといわれれば王政に分類されます。

ローマでは前6世紀に共和政が始まって以来、元老院と呼ばれる貴族の議会が政治を主導してきました。外国の使節がローマの元老院を見て、王が何百人も集まっているようだと言ったくらいに、彼らは誇り高かった。また共和政という政治制度に自信を持っていたようです。元老院という訳語は、伝統がある古い訳ですがわかりにくい。同じモノが現代政治だと上院とか貴族院と訳されます。

政府の役職で一番トップに立つのがコンスル執政官と訳されます。これも現代的に訳せば大統領です。任期一年で、2名おかれます。2名にしているのは、独裁政治にならないように互いに牽制させるためです。ともかく、ローマでは王や王もどきが出現するのを極端に警戒しました。

しかし、執政官二人の意見が異なると、国家存亡の非常事態に対応が遅れて困ることになります。この点を解決するためにおかれる臨時職に、ディクタトールがある。これは独裁官と訳す。半年任期で1名です。決して半年以上は任に着かない。独裁者にならないようにです。

執政官も独裁官も元老院議員も、みんな貴族から選ばれます。これに対して平民たちが不満を持つようになるのは、ギリシアと同じです。ローマでも、平民が武器自弁で重装歩兵として戦場にでる。これは貴重な戦力なんですね。ところが、戦場での活躍だけが期待されて政治的権利がない。ということで、平民が貴族に対して抗議活動をおこないます。

前494年の聖山事件というのがこれです。平民たちが聖山という山に立て籠もって、ストライキを起こした事件です。ローマの貴族たちは護民官設置を認めることで、平民に歩み寄りました。

護民官は2名。執政官の政策に対し、それが平民の不利益になると判断すれば、拒否権を発動することが出来る。護民官がノーといえば、執政官は何もできないというわけだ。それから、護民官は身体不可侵です。誰も護民官を肉体的に傷つけることは許されない、独特の宗教的ともいえる権威を持つようです。

その後も、徐々に平民の権利は拡大します。前451年、十二表法制定。12枚の銅板に法律を刻んで、誰もが見られるようにした。貴族独占だった法律情報の公開ですね。元老院はアテネに使節を派遣して、ドラコンの法なんかを参考にしたといいます。

前367年、リキニウス=セクスティウス法。執政官のうち、一名を平民から選出する法律です。

前287年、ホルテンシウス法。平民の議会である平民会というのがあるんですが、この平民会の決定を国法とする法律です。元老院と対等に立法出来るようになったわけです。

この段階で、ローマにおける身分闘争は終結し、政治は安定し外に向けて発展していきます。

ここで一つ注意。執政官も、貴族・平民から一名ずつ選ぶようになり、立法権も平等にあるから、二つの身分は対等のように見えます。でも、違うんです。例えばアテネでは貴族、平民も一緒になった民会が国政の最高機関になりましたが、ローマでは貴族は元老院、平民は平民会と、二つの身分は分離したままです。ここは、注意しておいてください。そして、常に貴族は大金持ちです。財産あります。平民にはありません。財産を築いた平民は、貴族の仲間入りを目指します。ローマで実質的に政治権力を握っているのは、元老院を中心とする貴族ですよ。

地中海世界の統一
ローマは周辺の都市国家や部族を征服し、前272年にはイタリア半島を統一しました。ローマの他国支配の仕方は、少しわれわれの常識とは違うので説明しておきます。

例えばローマがある都市、仮にA市としますが、A市を降伏させると条約を結びローマの同盟国とします。A市は自治を認められ、ローマに対して納税の義務はない。ただし、ローマがどこかと戦争をするときは、兵隊を出す義務があります。それだけです。今のアメリカとどこかの国みたいな関係です。

こんなふうに色々な国を支配すると、同じように条約を結び同盟国を増やすという形で、領土が増えていくのです。領土というより、緩やかな連合体という感じです。

ローマがその服属諸都市と結んだ条約の中身ですが、都市毎に待遇が違うのが大きな特徴です。差別待遇をするので、服属諸都市間の利害が一致しにくい。団結してローマに抵抗するということが起きにくい。これを、分割統治という。

さらに、ローマは服属都市の支配層である貴族たちに、ローマ市民権を与えるんです。つまりA市の支配者は、同時にローマ市民になる。支配者であるローマ人と同等になってしまうのね。これではローマに逆らう理由はないです。こういう支配の仕方が、ローマ人は実に上手い。あくまでも、このような支配の仕方はイタリア半島の支配地域だけです。やがて、ローマは海外に進出します。

 イタリア半島のつま先が蹴っ飛ばしている石、これがシチリア島です。ローマはここに勢力を伸ばします。ここはギリシア系の都市が多いのですが、カルタゴの勢力圏でした。ローマが最初にぶつかった強敵が、このカルタゴです。

 カルタゴはフェニキア人が建設した植民都市でしたが、当時は西地中海貿易を支配する大国になっていました。カルタゴ人をローマ人はポエニ人と言ったので、このローマ・カルタゴの戦争をポエニ戦争といいます。

2019/02/21

崇神天皇(2)

略歴

年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。

    開化天皇10年に産まれ、2815日に立太子、6049日の開化天皇崩御に伴い翌年即位。

 

    崇神天皇39月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。

 

    崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

 

    崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

 

    崇神天皇72月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。

 

    祟神天皇787日、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。

 

    崇神天皇109月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

 

    崇神天皇114月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。

 

    崇神天皇129月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。

 

    崇神天皇481月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。

 

    崇神天皇607月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。

 

    崇神天皇657月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。

 

    崇神天皇6812月、120歳で崩御(『古事記』は、戊寅年12月崩御、168歳とする)。

『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる。

 

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、奈良県天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵(山辺道勾岡上陵、やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は柳本行燈山古墳(前方後円墳、全長242m)。

『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。

 

なお、それより少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を、その真陵とする考え方もある。また、江戸時代には渋谷向山古墳が陵墓とされていた。行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において、他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

2019/02/20

報遺燕恵王書 ~ 楽毅(3)



報遺燕恵王書
※現代語訳は「中華名将録exit」様より転載。
私は不才にして、大王の命令を遵守する才なし。左右側近の方々は、おそらく私が英邁なる先王の徳を穢したと思うことでしょう。それゆえ私は国を辞し、趙へと逃れたのであります。

いま王は使者を遣わし、これを罪状に私を責め立てますが、王の左右の侍臣たちは私が先王の寵を受けたことをもってこれを憎み、認めることはないでしょう。ゆえにあえて、書簡をもってお答えしたします。

私が聞き及ぶところ、聖賢は信愛するものに私せず、功多きものはこれを賞し、能あればこれを位に置くと聴いております。
ゆえにこれを考察するに、才能あらば官職を授けるのは、これすなわち功業の君主たる人傑の行、論を行って交わりを結ぶのは、これすなわち立命の士。私は、ひそかに先王の挙動を拝見させていただきましたが、これまさしく世の主の心の上に立たれるお方。ゆえに私は魏の符節を借りて燕に入り、みずから燕王に見え考察するところを語ったのであります。

先王の過ちは私を幕下に加え、亜卿としたことであります。私は自らの明知の存量もわきまえず、ただ王命を奉じ教えを承れば、幸いにして罪無しというべき。ゆえに、あえて辞すことなかったのであります。

先王は、私に仰られました。
「余は斉に対して恨み骨髄、しかし彼我の国力差を考えるに、わが国はあまりに弱小。どうすれば斉を滅ぼすことが出来ようか」と。

私は、それに対して

「斉は桓公覇業の名残で常勝の名残り残っております。私兵は訓練が行き届き、軍旅のことに習熟しております。大王がこれを伐ちたいと望むのであれば、まず天下の諸侯と連合することが必須条件となりまましょう。まずは趙と結び、また淮北の宋の故地はかねてから楚、魏の狙うところでありますから、趙にこれと約定を結ばせて四国同盟を結ばせるに如かずであります。そうすれば、斉を打破することも可能となるでしょう。」

と答えました。

先王はこれを認めたまい、符節を準備して南は趙へ私を送り届けたまいました。かくして趙からの返事を持ち帰ったのち、先王は私を斉討伐の主帥として派遣し、斉を打たせたものです。天道と先王の霊威、黄河以北の軍は先王の霊威に従って済水ほとりに集まり、斉水ほとりで斉軍と激突のすえ、これを打ち破りました。私は精鋭を率いて長躯斉の国都に攻め入り、斉王を莒まで逃走させその命を脅かし、珠玉財宝車冑珍宝を奪い取って燕に送ったものです。

斉の器物は寧台に、大呂(鐘)は元英殿に陳列され、かつて斉に奪い取られた鼎も暦室宮に復旧され、斉の汶水(斉の一部にのみ生える竹)も薊丘に移植されました。春秋五覇以来、先王の功績は並ぶものはありません。

十分満足だったことでしょう。ゆえに、私のために土地を割いて私を諸侯に並べてくださったのですが、私が身の程をわきまえずそれを受け入れたため、左右にそれを忌む気風が出来上がったこと、これわが身の不徳のいたすところ。

また、私が聴くに賢明な君主とは

「勲を立て荒廃した土地をなくし、春秋にあるように、先見の明ある人は名を轟かせて瑕瑾なく、ゆえに後世の賞賛を受ける」

とあります。

先王は恥をすすぎ仇に報じ、万両の戦車を誇る大敵を平定なされて800年分の財宝を奪い蓄積し、そのご逝去なされた後も違令、政策が衰えることはありませんでした。政治は大臣が管理し、法令を明らかにし、嫡・庶の列をつまびらかにし、恩恵を民百姓にまで広くとどけたことは、すべて後世の模範とすべきことであります。

また聴くに

「よく創るものはまたよく完成を見ず、始めをよくするものは終わりをよくせず」

という言葉もあります。

かつて伍子胥の言葉は呉王闔閭に届き、伍の軍は楚の首都郢まで攻め入りました。
しかし夫差は伍子胥を認めず、剣を授けて自刃させたのち、その死骸は皮袋にくるまれて長江に鎮められました。

夫差は先王が子胥の言によって功業を為したことが理解できず、ゆえに子胥を長江深くへ沈めても、後悔することがなかったのであります。子胥は父子の器量の格差に気付くことができず、自分の言は夫差にも用いられると信じたゆえに、死を賜るまで言を曲げることがありませんでした。

これに対して、私は建業功業の災禍に見舞われることなく、賢明なる先王に仕えて功業に一臂の力を添えることが出来たこと、まさに人生の上策。しかし誹りにあって偉大なる先王の名誉を汚したことは、大いなる禍根であります。
思いもかけぬ罪で疑いを受けながら、僥倖を持って利を得ようとは道義的に出来ることではありません。

また古の君子は、交わりを立ってもその悪語を語らず、忠心は国を離れても自己の名を汚さず、と申します。
私は君子ではありませんが、しばしば君子に訓戒を受けております。
私が恐れるのは、王が左右侍臣たちの妄寧に心を曇らすことであり、疎遠な者を察せなくなるようになるのであります。これに関して返書をしたためますので、これを王が心に留め置かれるのであれば幸いです。

燕と趙の重臣へ
燕の昭王の厚遇に対して義を通そうとし、亡命したのは罪人にされると自らを抜擢した昭王の顔に泥を塗り、昭王の名を辱めることになるからと言う楽毅の思いを知った恵王は、楽毅が趙軍を率いて攻め込んでくることはありえない事を理解し、楽毅の子・楽間に昌国君の位を継承させた。

楽毅はその後、燕と趙の間を行き来するようになり、両国から政治顧問たる客卿の待遇を受け、趙にて没したと言われている。

楽毅、して燕の恵王の死後、燕は喜王の代となった際に、秦の白起の活躍と趙括大先生(笑)の大ポカで趙が国力を疲弊すると、燕の宰相の栗腹は「趙を討伐するなら今」と進言したが、楽毅の子・楽間は

「周囲を囲まれた趙は、士だけでなく民も戦争を習熟しているので侮れない」

として、趙への遠征に反対した。

しかし喜王は楽間の諌めを聞き入れずに趙に遠征し、秦もてこずった老将「廉頗」に撃退され、楽間も趙に亡命した。

父・恵王同様、楽間に帰還を願う手紙を送った喜王だったが、楽間は拒否し燕王二代で同じ過ちを繰り返した。