2019/02/15

第三次シケリア戦争


紀元前315年、シュラクサイの僭主アガトクレスは、戦略的に重要な都市であるメッセネを奪取した。紀元前311年、アガトクレスがアクラガスを包囲すると、カルタゴの将軍ハミルカルはこれに反撃した。ハミルカルは、紀元前311年にヒメラ川の戦いでアガトクレスに勝利し、シュラクサイに撤退させた。ハミルカルはシケリアの他の部分を支配し、シュラクサイを海陸から包囲した(第三次シュラクサイ包囲戦)。

死に物狂いになったアガトクレスは、アフリカ本土にあるカルタゴを攻撃させるため、秘密裏に14,000人の兵士を送った。この作戦は成功し、ハミルカルの軍は本土に呼び戻された。紀元前307年、追撃してきたアガトクレスは敗れたが、シチリア島に戻り、停戦した。

エピロス王ピュロス
紀元前280年から紀元前275年にかけて、ギリシア・エピロス(ラテン語ではエピルス。現在のギリシャ共和国のアドリア海側)の王ピュロスは、西地中海におけるギリシアの影響力を維持し、拡大するために2つの大きな戦争を起こした。

一つは、「マグナ・グラエキア」と呼ばれた南イタリアにあるギリシアの植民都市に対するローマの攻撃に対抗するためのものであり、もう一つはシチリア島西部にあるカルタゴの領土を征服しようとするものであった。しかし、ピュロスはイタリア半島とシチリア島の両方で敗北した。カルタゴにとっては以前の状況に戻ったに過ぎなかったが、ローマはタレントゥム(現在のターラント)を占領し、イタリア全域を支配するようになった。その結果、西地中海における政治勢力に変化が現れ始めた。シチリア島におけるギリシアの拠点は明らかに減少する一方、ローマの強大化、領土拡大の野望はカルタゴとの直接対決を導くこととなった。

メッシーナの危機
紀元前288年、シラクサ王アガソクレスが死去すると、彼の雇っていた傭兵たちはメッシーナの町を乗っ取った。彼らはマメルティニ (Mamertini、マルスの子らの意) と名乗り、恐怖政治を敷いた。この集団は、カルタゴとシラクサにとって脅威となりつつあった。紀元前265年、シラクサ王ヒエロン2世は、カルタゴと共同してマメルティニを攻撃した。その大軍に直面したマメルティニたちの意見は、2つに分かれた。一方はカルタゴへの降服を主張し、もう一方はローマの救援を仰ぐというものであった。結局、彼らはカルタゴとローマの両方に使者を派遣した。

ローマの元老院が取るべき道を議論している間に、カルタゴとシラクサの軍はメッシーナに到着した。完全に包囲されたマメルティニは、カルタゴ軍に降服した。メッシーナにはカルタゴの守備隊が置かれ、港にはカルタゴの艦隊が停泊した。イタリア半島に程近いメッシーナにカルタゴの軍隊が駐屯したことは、ローマにとって明らかな脅威であった。そのため消極的ではあったが、メッシーナをマメルティニの手に戻すためにローマはカルタゴと開戦し、軍隊を派遣した。
出典 Wikipedia

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