2019/08/29

日代の宮二之巻【景行天皇二】(9)

ところでこの社は、代々尾張の連氏が奉斎することになっているのだが、書紀に「熱田の祝部らが奉斎する」とあるのは疑問である。熱田の祝部は、どんな姓なのか。尾張連氏の中で、この社を掌っていた人をそう呼んだのではないか。熱田縁起には「尾張の氏人を神主・祝などの職に任ずる」とある。尾張氏が大宮司となって代々伝わってきたのだったが、その大宮司だった尾張員職(かずもと)の娘が藤原季兼(すえかね)に嫁いで、季範(すえのり)を生んだ。この季範は藤原氏でありながら、初めて熱田の大宮司になり、これ以後代々藤原氏が継いだ。

 

玉葉集(2743)に「櫻花ちりなむ後のかたみには、松にかゝれる藤を頼まむ」とあるが、これは熱田大明神の歌だという。

「昔熱田の社の大宮司は、代々尾張氏がなってきたが、尾張員職の娘、松という女性が藤原季兼の妻になって季範を生み、後に明神が上記のように託宣したので、初めて藤原氏である季範が大宮司に就任し、その末は今も絶えないという」

とある。

 

鎌倉将軍頼朝の母は、この季範の娘である。ところが季範の末に、子孫が絶えたことがあり、また卜部氏の子を養子にして嗣いだそうだ。それでも今も藤原氏を名乗っている。大宮司の次には権宮司(ごんのぐうじ)という者がある。その一家は總檢校(そうけんぎょう)という役になる。家は馬場という。また別の一家は祭主というものになる。祝師ともいう。家を田嶋という。この二家は今に至るまで尾張宿禰の姓で、いにしえから絶えることなく続いているそうだ。その次には大内人という者がある。姓は守部宿禰で、家を大喜という。また八劔(やつるぎ)神社の祠官も尾張宿禰で、家を大喜という。熱田の社は東西に二殿が並んで建ち、東の方を土用御殿という。草薙剣を納めてある。

 

ある説に

「土用御殿という名は、社伝には出て来ない。渡用御殿という名があり、それを土用と訛って言い、近世に土金の説(五行説)を付会して、神剣の納まった御殿の名としたのだ」

と言う。これもありそうなことだ。理由はともあれ、「土用」などという名があるはずはない。西の方は正御殿といい、五座の神を祭ってある。西から第一天照大神、第二須佐之男尊、第三倭建尊、第四宮簀媛命、第五建稻種命となっていて、第三、中央の倭建尊を主祭神としている。

 

熱田縁起にも

「熱田明神を尾張氏の氏神とする。宮簀媛命と建稻種命は、大宮の相殿神である」

とある。一説に

「大宮は日本武尊、東は素戔嗚尊、南は宮簀姫命、西は伊弉並(いざなみ)尊、北は倉稻魂命、中央は天照大神」

と言うが、これはどうか。社伝とも違っている。八劔の宮というのは、熱田の中に別にある。延喜式神名帳に八劔神社とあるのがそうだ。これは和銅元年に勅によって新たに神剣を作らせ、本社とは別に奉斎させたという。

 

氷上の宮というのは、前記の氷上姉子神社であって、熱田縁起に

「宮酢媛が世に下って後、祠を建てて祭った。名を氷上姉子天神という。その祠は、愛智郡氷上邑にある。海部氏を神主とする。海部は、尾張氏の別姓である」

とある。この氷上の社の末社に常世の社というのがある。宮酢媛の墓であると伝える。

 

また延喜式神名帳に「愛智郡上(かみつ)知我麻(ちがま)神社、下(しもつ)知我麻神社が載っている。和名抄には千竈(ちがま)郷がある。この地である。今の本は、竈を電に誤っている。上知我麻の社は乎止與(おとよ)命を祭ると言い、俗に源大夫の宮と言っている。下知我麻の社は、乎止與命の妻、眞敷刀婢(ましきとべ)を祭ると言い、俗に紀大夫の宮という。

 

源平盛衰記には、沙門道行が神剣を盗んで逃げた話を述べるところで

「末代にはそういうこともあるだろうと思って、見た目には少しも変わりのない剣を四つ造り備えて、社頭に立ててあった。一つの社の官が、後代の者に教える時、五本の指を挙げて、このことを伝えることになっていた。他の人は、どれが本物か、新たに作った物か分からないという」とある。

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