古典史料の記述
ヤマトタケルの埋葬について、『日本書紀』・『古事記』・『延喜式』に見える記述は次の通り。
日本書紀
景行天皇40年是歳条では、日本武尊は「能褒野」で没し、それを聞いた天皇は官人に命じて伊勢国の「能褒野陵(のぼののみささぎ)」に埋葬させた。しかし日本武尊は白鳥となって飛び立ち、倭の琴弾原(ことひきはら)、次いで河内の旧市邑(ふるいちのむら、古市邑)に留まったので、それぞれの地に陵が造られた。そしてこれら3陵をして「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称し、これらには日本武尊の衣冠が埋葬されたという。
仁徳天皇60年条では、「白鳥陵」(上記3陵を指すものか)は空である旨と、天皇が白鳥陵の陵守廃止を思い止まった旨が記されている。
古事記
景行天皇記では、倭建命は伊勢の「能煩野」で没したとし、倭建命の后・子らが能煩野に下向して陵を造ったとする。しかし倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の志幾(しき)に留まったので、その地に陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」と称したという。
延喜式(延長5年(927年)成立)
諸陵寮(諸陵式)では「能裒野墓」の名称で記載され、伊勢国鈴鹿郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する(伊勢国では唯一の陵墓)。一方で白鳥陵の記載はない。
通常「陵」の字は天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓、「墓」の字はその他皇族の墓に使用されるが、『日本書紀』や『古事記』で「陵」と見えるのはヤマトタケルが天皇に準ずると位置づけられたことによる(現在は能褒野のみ「墓」の表記)。
ヤマトタケルの実在性が低いとする論者からは、ヤマトタケルの墓はヤマトタケル伝説の創出に伴って創出されたとする説を唱えている。確かな史料の上では、持統天皇5年(691年)において有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある。
またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある。一方、ヤマトタケルの実在を認める論者からは、ヤマトタケルが活動した年代や築造後すぐに管理が放棄されていることなどから、現允恭天皇陵に治定されている津堂城山古墳を真陵と見る説が唱えられている。また、景行天皇の治世を4世紀後半とする立場からは、能褒野王塚古墳は同時期に築造されてなおかつ伊勢地方にあるに関わらず、王族の陵墓の特徴である三段築成が後円部にみられることから、4世紀後半にヤマト王権の東方への勢力拡大に貢献した「ヤマトタケルノミコト的王族」(伝説のモデルとなる王族)が、この地で亡くなって葬られた可能性があるとする説が唱えられている。
その後、大宝2年(702年)[原 10]には「震倭建命墓。遣使祭之」と見え、鳴動(落雷、別説に地震)のあったヤマトタケルの墓(能褒野墓か)に使いが遣わされている。さらに『大宝令』官員令の別記(付属法令)には、伊勢国に借墓守3戸の設置が記されており、8世紀初頭には「能裒野墓」が諸陵司の管轄下にあったと見られている。その後、前述の『延喜式』では白鳥三陵のうち「能裒野墓」のみが記載され、10世紀前半頃までの管理・祭祀の継続が認められる。
後世の治定
上記の記述の一方、後世には墓の所伝は失われ所在不明となった。能褒野墓・大和白鳥陵・河内白鳥陵それぞれに関して、治定されるに至った経緯は次の通り。
伊勢の能褒野墓
近世には白鳥塚(鈴鹿市石薬師町)・武備塚(鈴鹿市長沢町)・双子塚(鈴鹿市長沢町)の3説があり、明治9年(1876年)までには教部省により白鳥塚に定められたが、明治12年(1879年)に宮内省(現・宮内庁)により3説のいずれでもない現墓の丁子塚(能褒野王塚古墳)に改定された。
なお「のぼの(能褒野/能煩野/能裒野)」とは、鈴鹿山脈の野登山(ののぼりやま)山麓を指す地名と推測される。この「のぼの」の地が選ばれた背景としては、化身の白鳥が「天空にのぼった」という物語が既に存在し、後世にその物語への付会として「のぼの」の地名が結び付けられたとする説が挙げられている。
大和の白鳥陵
『古事記伝』では、現陵に関する記述が見える。明治9年(1876年)に教部省により考定された。伊勢・河内に比べ小規模であることなどもあり、別に掖上鑵子塚古墳(奈良県御所市柏原)に比定する説もある。
河内の白鳥陵
明治8年(1875年)に、教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという。
白鳥伝説のモデルとも考えられる水鳥型埴輪が出土したことと、築造順から河内・古市古墳群最初の大王墓である津堂城山古墳を真陵する説もある。
『日本書紀』の日本武尊系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・武部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君(武卵王後裔)、伊予別君(十城別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。
『古事記』の倭建命系譜によれば、ヤマトタケルは犬上君・建部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別宮道之別か(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)ら諸氏族の祖とされる。
『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
左京皇別 犬上朝臣 - 出自は諡景行皇の子の日本武尊。
右京皇別 建部公 - 犬上朝臣同祖。日本武尊の後。
和泉国皇別 和気公 - 犬上朝臣同祖。倭建尊の後。
和泉国皇別 県主 - 和気公同祖。日本武尊の後。
和泉国皇別 聟本 - 倭建尊三世孫の大荒田命の後。
なお、『日本書紀』景行天皇40年条では、日本武尊のため「武部(たけるべ)」を定めると見え、これを基に建部(武部)をヤマトタケルの名代部とする説もあったが、事実としては名代部ではなく軍事的職業部であったとされる。
考証
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実在性
『古事記』では、倭建命の曾孫(ひまご)の迦具漏比売命が景行天皇の妃となって、大江王(彦人大兄)をもうけるとするなど矛盾があり、このことから景行天皇とヤマトタケルの親子関係に否定的な説がある。また、各地へ征討に出る雄略天皇などと似た事績があることから、4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある。
一方で雄略天皇に比定されている倭王武が、中国南朝の宋に送った上表文(西暦478年)に記された「自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國(以下)」は、四道将軍やヤマトタケルなどの説話を指すと考え、更に上表文自体は伝わっていないものの、武の3代前の珍も武と同じく宋の官爵を求めて遣使をしている(西暦438年)ことから、5世紀前期には既にヤマトタケルの説話が成立していたとする説もある。
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