2019/11/07

訶志比の宮上巻【仲哀天皇】(1)

口語訳:帶中日子天皇(仲哀)は、穴門の豊浦宮と筑紫の訶志比宮に住んで、天下を治めた。この天皇が大江王の娘、大中津比賣命を妻として生んだ子は、香坂王と忍熊王の二人だった。また皇后となった息長帶比賣命(神功皇后)を娶って生んだ子は、品夜和氣命と大鞆和氣命、またの名は品陀和氣命の二人だった。大鞆和氣命の名は、生まれたとき、腕に鞆の形をした肉が付いていたので、その名にしたのである。このことで、胎内にいたときから国を定める人だったことが分かる。

 

この天皇の後の漢風諡号は仲哀天皇という。

 

○穴門(あなど)については、日代の宮の段【伝廿七の二十六葉】で言った。

ここで言っているのはその国の名で、今の長門の国だ。この国の名は、書紀の崇神の巻や欽明の巻でも、いずれも「穴門」と書いてあり、孝徳の巻にさえそう書いてあるから、その頃までは長門とは言わなかったのだろう。【「長門」と呼ぶのは、いつから始まったのか、分からない。穴戸(洞門)の距離が長いので、長門と言われるようになったのだろう。】

その巻の詔に「今、私の親神祖(むつかむろぎ)が天下を治めた穴戸の国内で云々」とあるのは、この仲哀天皇がここに住んだことを言っている。

 

○豊浦宮(とよらのみや)は、和名抄に「長門国豊浦【とよら】郡」とあるのがそうだ。【「豊受神」を「とゆけ」と言うから、これもいにしえには「とゆら」と言ったかも知れない。しかし確かにそう言ったという証拠もないので、ここでは和名抄にある通りに読んでおく。「浦」は「う」を省いて言うこともあるからだ。】

 

その宮の地は、帝王編年記に「長門の豊浦郡北樹林である」と書いてある。【「北」の上か下に脱字があるのだろう。】源貞世の「道行ぶり」に「長門国府(こふ)になった。北濱といって、東南に向かって家がある。この里を一村過ぎると、神功皇后の御社の前に出た。御社は南向きである。・・・ここは穴門の豊浦宮の跡だとか言う」とある。【国府は、和名抄に「豊浦郡にある」と出ている。今は長府と言い、ここは豊浦宮の跡だと、今でも言われている。】

 

書紀には「二年二月、角鹿(つぬが)に行幸した。行宮を建ててしばらく住んだ。これを笥飯(けひ)宮と言う。三月、天皇は南国に移り、紀伊国に到って徳勒津(ところつ)の宮に住んだ。この時、熊襲が朝廷に反抗した。そこで熊襲を討とうと、海路で穴門に行き、六月、豊浦の津に泊まった。皇后も角鹿から行って、秋七月に豊浦津に到着した。九月、穴門に宮室を作って住んだ。これを穴門豊浦宮と呼ぶ」とあり、八年正月まで、この宮にいたようだ。

 

その明くる年には天皇は筑紫の宮で崩じ、「ひそかに天皇の屍を収めて武内宿禰に預け、海路で穴門に移し、豊浦宮で殯葬を行った」と見え、神功の巻に「新羅を征伐した翌年の春二月、皇后は群卿と百寮を引き連れて穴門豊浦宮に移り、天皇の葬儀を済ませた後、海路を京に向かった」とある。【推古の巻に見える豊浦宮は倭にあって、別である。】

 

○訶志比宮(かしいのみや)は和名抄に「筑前国糟屋郡、香椎【かすい】郷」とあるところだ。【「し」を「す」と言ったのは、後の訛りだろう。一般に「椎(しい)」と書いており、書紀にも「橿日(かしい)」と書かれている。「かしい」であることに疑問の余地はない。】

 

書紀の神功の巻には「橿日の浦」ともあり、万葉巻六【二十二丁】(957-959)に香椎滷(かしいがた)の歌【三首】がある。香椎廟は今も香椎村にある。【続日本紀廿二に「天平宝字三年、太宰の帥、船親王(ふねのみこ)を香椎の廟に遣わして、新羅を討つべき事情を告げた」、同廿四に「同六年十一月、参議藤原朝臣巨勢麻呂、散位土師宿禰犬養を使わして、香椎廟に幣を奉った。新羅を討つ軍旅を調習するためである」、続日本後紀一に、「天長十年夏四月、和氣朝臣眞綱を遣わして、劔と幣帛を八幡大菩薩の宮と香椎廟に奉り、新しい天皇の即位を報告した」とある。

 

この宮は仲哀天皇であるとも神功皇后であるとも言って、確かなところは決まらないそうだ。続日本紀の記事を見ると、神功皇后のようである。兵範記にも「香椎大多羅志姫(おおたらしひめ)の宮」と書いてある。これは「神社」とは言わず、古い書物ではいずれも「廟」とあり、他には例のないことだ。延喜式神名帳にも載っていない。何か理由があるのだろう。そこで考えるに、漢国の考え方で言うと、諸々の神社はすべて「廟」と言えるわけだが、皇国ではそう呼ぶことはないのに、これだけを特に「廟」としたのは、神功皇后の征伐の後に、三韓からの使者が頻繁にやって来ていた頃、彼らがこの皇后の御霊を齋(いつ)き奉った社だからではなかろうか。とすると皇国の一般的な神社とは異なり、異国人が祭った宮であり、その違いをはっきりさせるため、「廟」と名付けたのではなかろうか。これは試みに推量を述べただけである。後世の歌に「香椎の宮」と詠まれているのは、この廟のことである。

 

また宇佐八幡宮縁起に「嵯峨天皇の御世に、神功皇后の託宣があって、弘仁十四年に、勅して新たに大帯姫の宮を造らせた」とあるのは、延喜式神名帳に「豊前国宇佐郡、大帯姫廟(おおたらしひめのびょう)神社」とある社だろう。宇佐宮三座の一つである。これを廟と言っているのは、香椎廟から取ったのだろう。】

 

書紀には「八年春正月、筑紫に行幸した。・・・岡の浦に入り、儺縣(なのあがた)に到った。因(そこで)橿日宮に滞在した」とある。【「岡の浦」は筑前国の遠賀(おか)郡の浦である。儺縣は、神功の巻に儺河、宣化の巻に那津(なのつ)などとあるのと同じ所だ。斉明の巻には「那の大津」とあり、「この名を改めて長津とした」と見える。那珂郡はこれだろうか。しかし「長」の「が」は濁音、「那珂」の「か」は清音だから違うかも知れない。】その後神功の巻の初めに「九年春二月、足仲彦天皇は筑紫の橿日の宮で崩じた」とある。この天皇は書紀によれば、二年二月に越の国と紀の国に行幸して以後、倭国には帰還せず、ついには西国で崩じた。そのため「豊浦の宮と訶志比の宮で天下を治めた」と言う。

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