2019/11/14

神功皇后(1)

神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年 - 神功69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。

『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。

 

応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。

三韓征伐を指揮した逸話で知られる。

 

『日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。

夫の仲哀天皇が香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。

その後に熊襲を討伐した。

 

それから住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り、朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。

 

渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。

月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。

その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。

 

他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。

また八幡神と同じく、その言い伝えは北は関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社は元より、瀬戸内海を挟んで広島や岡山そして四国にも数多くの伝承があり、九州はもとより日本全土にも、その言い伝えは数多く存在する。数々の言い伝えが存在して、戦前ではまさに有名人であり偉人でもあった。

 

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きにより、これを平定したという。今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。

 

実在性

明治時代以前は、『新唐書』列伝第145 東夷 倭日本に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史』列伝第250 外国7 日本国に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあり、日本でも神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして15代の帝と数えられていた。1926年(大正15年)10月の詔書により、歴代天皇から外された[要出典]。

 

武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎こと源義家である。明治から太平洋戦争敗戦までは、学校教育の場では実在の人物として教えていた。現在では、実在説と非実在説が並存している。

 

『日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政

「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」

として、中国晋の文献における倭の女王についての記述が引用されている。このため江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかしながら、この年は266年で卑弥呼はすでに死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている。また、これとは別に、直木孝次郎は斉明天皇と持統天皇がモデルではないかとの説を唱えている。

 

紀年については、『日本書紀』は百済三書を参照または編入している。

『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年)九月丙子の条に、百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)が日本の使者、千熊長彦に会い、七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。孫の枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 - 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。

 

しかし、この辺の年代はどれも十数年から数十年の誤差が生じている上に複雑なので、どの記録が正しいのかはよくわからない。但し、この『日本書紀』の記述から推測すると、二倍暦説は間違いである可能性が高い。通説ではこの中の七枝刀を、石上神宮につたわる七支刀のことだと考えられている。

 

通常暦説(戦前の説)

七支刀の「泰■四年」の部分を、普国の秦始4年の西暦268年と考える。暦は従来どおりの物と考える。記紀との誤差は16年。

 

二運くりあげ説(戦後の説)

七支刀の「泰■四年」の部分を東晋の太和4年の西暦369年と考える。

百済三書の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運)繰り上げて(120年)書いているとされており、三書もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる。

 

井上光貞も『日本書紀』の編者が神功皇后を卑弥呼に比定したため、干支を2運繰り上げたという説を支持している。ただし井上秀雄は、百済記の年紀は干支だけの簡単なものであり、

それだけでは絶対年代が確定せず、『日本書紀』も『三国史記』百済本紀も、それぞれの編者が独自に考証して絶対年代を付与したものであって、既存の伝承があった上でそれよりも上げたり下げたりしたわけではない、とみている。

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