2024/06/17

ウマイヤ朝(2)

絶頂期

第二次内乱後のアブドゥルマリクの12年の治世は、平和と繁栄に恵まれた。彼は租税を司る役所であるディーワーン・アル=ハラージュの公用語をアラビア語とし、クルアーンの章句を記したイスラーム初の貨幣を発行、地方と都市とを結ぶ駅伝制を整備するなど後世の歴史家によって「組織と調整」と呼ばれる中央集権化を進めた。

 

694年、アブドゥルマリクは、アッ=ズバイル討伐で功績を上げたハッジャージュをイラク総督に任命した。ハッジャージュは、特にシーア派に対して苛酷な統治を行い、多くの死者を出した一方で、イラクの治安を回復させた。

 

アブドゥルマリクは、カリフ位を息子のワリード1世に継がせた。征服戦争は、彼の治世に大きく進展した。ウマイヤ朝軍は北アフリカでの征服活動を続けたのち、ジブラルタルからヨーロッパに渡って西ゴート王国軍を破り、アンダルスの全域を征服した。その後、ヨーロッパ征服は、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまで続いた。また、中央アジアにおいてもトルコ系騎馬民族を破って、ブハラやサマルカンドといったソグド人の都市国家、ホラズム王国などを征服した。これによって、中央アジアにイスラームが広がることとなった。中央アジアを征服する過程では、マワーリーだけでなく非ムスリムの兵も軍に加えられ、これによって軍の非アラブ化が進んだ。

 

ウマル2世の治世

この時代になると、イスラームに改宗してマワーリーとなる原住民が急増し、ミスルに移住して軍への入隊を希望する者が増えた。また、アラブのなかでも従軍を忌避して、原住民に同化するものが増えた。

 

これを受けてウマル2世は、アラブ国家からイスラーム国家への転換を図り、兵の採用や徴税などにおいて、全てのムスリムを平等とした。これによってアラブは原住民と同様に、のちにハラージュと呼ばれる土地税を払うことになった。彼は今までのカリフで、初めてズィンミーにイスラームへの改宗を奨励した。ズィンミーは喜んで改宗し、これによってウマイヤ朝はジズヤからの税収を大幅に減らした。

 

また、ウマル2世はコンスタンティノープルの攻略を目論んだが失敗し、人的資源と装備を大量に失った。彼はアラブの間に厭戦機運が蔓延していることから、征服戦争を中止した。

 

ウマル2世に続いたカリフの治世では不満が頻出し、反乱が頻発することとなった。ヤズィード2世の即位後、すぐにヤズィード・ブン・ムハッラブによる反乱が発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ウマイヤ朝の分極化は次第にテンポを速めた。

 

最後の輝き

10代カリフとなったヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの治世は、ウマイヤ朝が最後の輝きを見せた時代であった。彼は経済基盤を健全化し、それを実現するために専制的な支配を強めた。しかしながら、ヒシャームはマワーリー問題を解決することは出来ず、また、後述する南北アラブの対立が表面化した。

 

また、ヒシャームの治世では、中央アジアにおいてトルコ人の独立運動が活発になった。その中のひとつである蘇禄が率いた突騎施には、イラン東部のホラーサーン地方のアラブ軍も加わった。

 

第三次内乱

744年、ワリード2世の統治に不満を抱いたシリア軍が、ヤズィード3世のもとに集って反乱を起こし、ワリード2世を殺害した。ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去し、彼の兄弟であるイブラーヒームが第13代カリフとなった。その直後、ジャズィーラとアルメニアの総督だったマルワーン2世が、ワリード2世の復讐を掲げて軍を起こした。彼の軍はシリア軍を破り、イブラーヒームはダマスクスから逃亡した。これによってマルワーン2世が第14代カリフに就任した。

 

アッバース革命

680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた。

 

カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシムがイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたと主張するグループが登場した。

 

アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(7188月から7197月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した。747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムが、ホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した。アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイーは、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、7499月、クーファに到達した。

 

74911月、クーファで、アブー・アル=アッバースは忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した。7501月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モースル近郊の大ザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い)。士気が衰えていたウマイヤ軍はアッバース軍に敗れ、マルワーン2世は手勢を率いて逃亡した。7508月、彼は上エジプトのファイユームで殺害された。これによってウマイヤ朝は滅亡した。

2024/06/14

イスラム教(13)

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イスラームの政治性・社会性

イスラームは、ムハンマドによる創建当初から宗教共同体=政治的共同体であったことから、宗教指導者や政治指導者は宗教的理念に基づいた公正な政治を行うべき責任を有している、という理念を持っている。また創建当時、預言者ムハンマド自身や聖地メッカの人々は、多くがアラビア半島内外への商交易によって生活を立てていたことから経済活動を重視しており、富者はアッラーの恩恵によって経済的に豊かになれているため、貧者に喜捨や施しをすることで社会還元すべきとする、経済活動についても固有の理念を持つ。

 

加えて貧者や孤児、寡婦などの社会的弱者は、近親者や縁故者なども含めて社会全体から保護・支援すべきであるとしているため、社会運営についても聖典クルアーンや、預言者ムハンマドの言行に基づいた理念や規定が設けられている。

これらイスラームは、単に信仰生活のみならず政治理念から経済活動、社会生活全般に渡る理念など、幅広い分野についても宗教的な理念や規定、許容範囲などが考察されて来た歴史がある。

 

ハラール(許可)とハラーム(禁止)

イスラームでは、宗教的に許可推奨されるもの・行為(ハラール)と、禁止されるもの・行為(ハラーム)の区別がある。クルアーンとハーディスで言及されていないものについては、イスラム法学者や知識人の見解やイスラム教徒側の許容や合意によって左右される。

なお、イスラム法学者によっては文面上ハラームなもの、例えば売春ギャンブルなどについても、見かけ上ハラールな行為を組み合わせて適法と解釈する行為を広く認めており、これを「ヒヤル」という。

 

事細かな戒律があるため、外部からは大変と思われがちだが、アラーはできるだけ多くの人間を天国に導こうとするため、その戒律には様々な救済措置などが設けられており、悪行よりも善行をうんと評価するシステムからさほど熱心ではなくとも、一生を普通に暮らせば(特に豚肉や酒が流通していないイスラム教が支配的な地域)、よほどの悪人ではない限り天国にいける可能性がある、というのが多くのイスラム教徒と法学者の見解である。

 

LGBTQについて

イスラム教では、基本的に異性愛のみを認め(ハラール)、同性愛は否定(ハラーム)されているが、過去には多くのイスラム王朝で権力者が男色を好み、少年愛の文化が花開いていた。だが現代では、インドネシアやトルコなど宗教分離が進んだ国家、ヨルダンやパレスチナなど比較的リベラルなイスラム国家では同性愛も許容されるものの、厳格なイスラム社会においては同性愛への風当たりは非常に厳しく、むち打ち刑や死刑となる場合もある。

 

イスラム教徒にも同性婚を認め、イスラム教式の宗教的な同性結婚式を行うモスクや宗教者が存在している(ゲイのイスラム教指導者の物語「イスラム教は対話にオープンになった - 10年前とは違って」死の脅し受けてもなお――ゲイのイスラム教指導者)。

 

トランスジェンダーについては自身の体に性的違和をおぼえ、性別移行手術を望む人々については、保守的な宗教権威においても認める立場がある。

スンニ派では「アッラーが地上に病をくだされた場合、必ずその癒しをくだされた」(ブハーリーのハディース集より)といった伝承が参照され、スンニ派最高学府アズハル大学がこれを認め、シーア派を国教とするイランでもイスラム諸国で最初に性別変更を認めている(イスラーム圏の性同一性障害、そして性別越境者 japanese only)。パキスタンでは国民IDカードにおいて「第三の性」として対応する方針をとるようになった(性は私事か、公事か―「トランスジェンダーであるだけで殺される国」からの脱皮を目指すパキスタン)。

 

しかしながら、イスラム教の国々でも迫害を受けるトランスジェンダー当事者がいるのも事実である(インドネシア:トランスジェンダーを警察が「再教育」)。

トルコや他の地域のトランスジェンダーたちは、預言者ムハンマドを背に乗せ天界に運んだと伝わる人面の天馬アル=ブラークを、自分達のアイデンティティを指し示す存在とみなしている(Why Turkey's activists and LGBTQ, Kurdish communities are rallying around the mythical figure of Şahmeran)。


ユダヤ教・キリスト教とのつながりと相違

聖書の扱い

イスラームは、先行するユダヤ教キリスト教と同じ唯一なる神を信仰していると自認しているが、3者間の差異は預言者に下された「啓典」の歪曲によって成ったとしている。ユダヤ教徒・キリスト教徒に伝わる現行の聖書は捏造・改竄がなされたもの、とみなされる。クルアーンによって誤りが訂正された、という信仰である。

 

六信にある「啓典」(モーセ五書、詩篇、福音書)とは、厳密には預言者に降された「改竄前のオリジナル」であり、クルアーンと食い違う箇所、また無神論者やニューエイジャーからも指摘される(「改竄後」である)聖書の内部矛盾も、容赦なく批判され、聖書が真理、神の言葉そのものであることは否定される。

 

イスラム教においては、聖書が改竄されて欠陥や矛盾を含んでしまった以上、地上において純粋まじりっけなしの神の言葉は、預言者ムハンマドに降された最後の啓示であるクルアーンの他に存在しないのである。


キリスト教徒に、ユダヤ教徒は自分達と同じ神を信じているとみなすが、イスラム教徒はそうでない、という人がいるのはこのためである。

 

アブラハムの扱い

古代のアブラハム(イブラーヒーム)をこれら3宗教の遠祖と仰いでおり、基づいてアラブの始祖をアブラハムの息子イシュマエル(イスマーイール)とし、メッカのカアバ神殿はアブラハムとイシュマエルが建設したというイスラーム以前の古いアラブの伝承に基づいて、イスラームの信仰の根本はアブラハムの宗教に立ち返ったものであるとみなしている。

 

イスラム教においては、(イエスやモーセもだが)アブラハムはユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなくムスリムである。

 

イエスの扱い

アッラーは、クルアーンによれば「生みも生まれもしない」唯一固有の存在としているため、イエス・キリスト(マスィーフ・イーサー)をマリア(マルヤム)の子にして救世主とは認めるものの、「神の子」であることは否定していることも特徴である(実はキリスト教においても、イエス・キリストはマリアから生まれる前、永遠の昔から存在したとされ、ある時点において発生・出現した(生まれた)、という見解はとらない)。


クルアーンでは、神を「父」と呼ぶ旧約聖書からの慣習も否定されているが、これに則るならイエスは神をアッバ(父)とは呼んでいないことになる。

 

またイエスは十字架にかかっていない。かかっているように見えたのは誤認であり、実際は神により天に引き上げられた、とされる。

ハディース(ムハンマドの言行録)によると終末の時代が来るとき、イエスは十字架を破壊する、という。

2024/06/09

ウマイヤ朝(1)

ウマイヤ朝(アラビア語: الدولة الأمويةal-Dawla al-Umawiyya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。

 

イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。

 

非ムスリムだけでなく、非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。

 

カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえに、シーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。 

 

歴史

イスラム世界の領土拡大

ü  ムハンマド下における領土拡大, 622–632

ü  正統カリフ時代における領土拡大, 632–661

ü  ウマイヤ朝時代における領土拡大, 661–750

 

預言者ムハンマドの時代は、アラビア半島のみがイスラーム勢力の範囲内であったが、正統カリフ時代にはシリア・エジプト・ペルシャが、ウマイヤ朝時代には東はトランスオクシアナ、西はモロッコ・イベリア半島が勢力下に入った。

 

ムアーウィヤによる創始

656年、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によって、マディーナの私邸で殺害された。ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、第一次内乱が起こった。

 

両者の抗争は65612月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、アリーが勝利を収めた。その後クーファに居を定めたアリーは、ムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえに、ウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。

 

このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、660年、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。ムアーウィヤとアリーは、ともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンは、ムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した。ムアーウィヤは、ダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。

 

第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。ムアーウィヤは、ビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。また、東方ではカスピ海南岸を征服した。しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。ウマイヤ朝の重要な制度は、ほとんど彼によってその基礎が築かれた。

 

ムアーウィヤの後継者としては、アリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブは、ムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。ムアーウィヤは、他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。

第二次内乱

ムアーウィヤの死後、ヤズィード1世がカリフ位を継承した。これは多くの批判を生み、アリーの次男であるフサインはヤズィード1世に対して蜂起をしようとした。6801010日、クーファに向かっていた70人余りのフサイン軍は、ユーフラテス川西岸のカルバラーで4,000人のウマイヤ朝軍と戦い、フサインは殺害された。この事件はカルバラーの悲劇と呼ばれ、シーア派誕生の契機となった。

 

ヤズィード1世は、カリフ位を継いだ3年後、683年に死去した。シリア駐屯軍は、彼の息子であるムアーウィヤ2世をカリフとしたものの、彼は10代後半という若さだったうえに、即位後わずか20日ほどで死去した。これを好機として捉えたイブン・アッズバイルはカリフを宣言し、ヒジャーズ地方やイラク、エジプトなどウマイヤ家の支配に不満を抱く各地のムスリムからの忠誠の誓いを受け、カリフと認められた。これによって10年に渡る第二次内乱が始まった。

 

第二次内乱中の685年には、シーア派のムフタール・アッ=サカフィーが、アリーの息子でありフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマームであり、マフディーであるとして担ぎ上げたうえで自らをその第一の僕とし、クーファにシーア派政権を樹立した。これによって第二次内乱は三つ巴の戦いとなった。ムフタール軍は、一時は南イラク一帯にまで勢力を広げたものの、2年後の687年にはイブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブがムフタールを殺害し、クーファを制圧したことで鎮圧された。

 

ウマイヤ朝陣営では、ムアーウィヤ2世がカリフ即位後わずか20日ほどで死去し、マルワーン1世がカリフ位を継いだ。これによって、ムアーウィヤから続くスフヤーン家のカリフは途絶え、今後はマルワーン家がカリフを継ぐようになった。そのマルワーン1世もカリフ就任後およそ2年で死去したため、ウマイヤ朝陣営は反撃の態勢が整わなかった。

 

すでにイブン・アッ=ズバイルは、ウマイヤ朝のおよそ半分を支配下に置いていた。しかし、第5代カリフに就任したアブドゥルマリクは、ビザンツ帝国に金を払って矛先を避けさせることで政権を安定させ、戦闘能力の高い軍隊を組織してイブン・アッ=ズバイルへの反撃を開始した。自ら軍勢を率いてイラクへ向かったアブドゥルマリクは、691年にムスアブを破ってクーファに入った。また、692年にはハッジャージュ・ブン・ユースフを討伐軍の司令官に任命した。ハッジャージュは7か月にわたるメッカ包囲戦を行い、イブン・アッ=ズバイルは戦死した。これによって10年に渡る第二次内乱はウマイヤ朝の勝利で終息した。

2024/06/06

イスラム教(12)

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ハディース

ムハンマドの言葉や行動についての伝承(ハディース)は、やがて集成書としてまとめられた。これらをハディース集といい、複数存在する。ハディースは伝承の経路と典拠(イスナード)についての情報も含んでおり、「誰から聞いたか」「その人はさらに誰から聞いたか」が、ムハンマドの言葉や行動そのものを書いた本文に付随する。

 

伝承ごとの信頼度も重要視されており、信頼性ごとにサヒーフ(真正)、ハサン(良好)、ダイーフ(脆弱)という分類が存在する。


宗派によって用いるハディース集は異なっており、宗教解釈の違いを生んでいる。


スンナ派における代表的な六つのハディース集として、アル=ブハーリー、ムスリム・イブン・ハッジャージュが、それぞれまとめた『真正集』、アブー・ダーウード、アル=ティルミズィー、イブン・マージャ、アル=ナサーイーが、それぞれまとめた『スナン集』がある。

 

シーア派における代表的な四つのハディース集は、アル=クライニーによる『カーフィーの書』イブン・バーバワイヒによる『法学者不在のとき』、アル=トゥースィーによる『律法規定の修正』と『異論伝承に関する考察』がある。

 

この他にも、複数のハディース集が編まれている。

 

スンナ派の六つのハディース集のうち、ムスリムとブハーリーによる『真正集』には日本語訳が存在する。ブハーリーのものは中央公論新社から、ムスリムによるものは日本ムスリム協会から出ている。後者はネットで全文公開されている(リンク)。

 

信仰内容

スンナ派イスラム教徒の場合、信仰の根幹は六信五行としてまとめられる。

六信:

ü 

ü  天使

ü  啓典(クルアーンや聖書のこと)

ü  使徒(ムハンマドが神の使徒であるということ)

ü  来世天国地獄

ü  定命(人間の運命は神によって定められているということ)

を信じること


五行:

ü  信仰告白

ü  礼拝(毎日決まった時間に祈る)

ü  喜捨(財産を他人に配る)

ü  断食(決まった月に日中だけ断食する)

ü  巡礼(メッカへの巡礼)

を行うこと

 

これらを信者の義務とする。シーア派では、五信十行としてまとめられる。

 

主な戒律としては、イスラム教徒による正しい屠殺方法(ハラール)に則って処理されていない肉や豚肉は汚物として食べない、成人女性はを露出しない、禁酒偶像崇拝の禁止などがある。イスラム原理主義国家であるサウジアラビアなどでは、この教義がかなり厳格に守られているが、政教分離が進んだトルコインドネシアではよく言えば柔軟、悪く言えばいい加減で戒律は必ずしも守られていない。

他にもイランは厳格な筈だが、見えないところでは戒律が守られておらず、特に若年層でそれが顕著である。詳細はハラールの記事に記述する。

 

信者数は世界で約16億人、主に北アフリカ西アジア中央アジア南アジア東南アジアなどの広い地域で信仰されている。

アジアでは、中世に中央アジアや東南アジアの一部で仏教等の多神教勢力を滅亡させた。しかし東アジアでは中国までで止まってしまい、日本には近代まで到達しなかった。

 

ヨーロッパでは、イベリアシチリアのように一時イスラム教勢力が支配的であった地域もあったものの、後にレコンキスタなどキリスト教勢力による再征服によって、イスラム教徒がほとんど消えた地域が多い。例外的に比較的最近までイスラム教勢力の支配下にあったバルカン半島では、現在でもイスラム教徒が少なからず残っており、現在でもアルバニアのようにイスラム教徒が多数派となっている国も存在する。

 

現代でも、紛争が多い地域の特性か出生率が依然高い地域が多く、今世紀中にはキリスト教信者を上回り、世界最大の宗教になるとされており、欧州のいくつかの国でも(前述のバルカン半島の例を除いても)将来的にはイスラム教が多数派になるという予測さえ存在する。

例えば、イラクは出生率4.37と周辺諸国を上回っている。ただし、いずれも出生率は低下傾向にあり、特にイランなどでは出生率が1.66にまで落ち込んで少子化の兆候が見え始めている。

 

また、移民先のヨーロッパでは「出生率8.1」「フランスは2050年にはイスラム国家に」という根拠不明かつ荒唐無稽な数値がまことしやかに言われているが、もしもあと3,40年のうちにそうなるには、さらに数倍の出生率がなくてはならない。まだ比較的信頼できる数値では多いところで1、少ないところではさほど変わらないなど経済や政情に連動していることがわかる。

教義に求めるところもあるが、「産めよ増やせよ」と明記されてある聖書を重んじるキリスト教やユダヤ教の方が、さらに出生率が高くてしかるべきだろう。


イスラム教徒にとっての『クルアーン』のように、聖書を「神の言葉」と信じるキリスト教徒が激減しているのも、この俗説にもっともらしさを感じさせているのだと思われる。

ヨーロッパでは、キリスト教は衰退と停滞のただ中にあり(カトリックでは「教会の危機」がさけばれている)、上記の「2050年にはイスラム国家に」の俗説で言われているフランスは、その代表例である。

 

文献学の観点から聖書研究が進められた結果、聖書が「神の言葉」とは信じられなくなり、キリスト教はイエスの教えではなく教会組織や、せいぜい弟子達や初代教会の見解(誤解)の混合物とされるようになった。中世以前までの聖書観やキリスト教観を維持する為には、「学問を否定する」という形をとらざるを得なくなる。実行する人々は、苛烈・過激な言行によって、わざわざ「人の言葉」に従う動機を持てないノンポリ層をさらに遠ざける形になるのである。

 

リベラルで現代的な解釈をとるキリスト教会もあるが、欧米では加速度的に進行する世俗化・脱キリスト教の傾向を抑止するに至っていない。

 

一方クルアーンは、ムハンマドの直弟子が書物としての現在の形にしたという背景から、ムハンマドその人に遡られるという点は確実視されている。非イスラム教国の西洋人などの学者によっても、後世の誰かが作成したり内容を追加した、という説が唱えられてもいない。そうした背景から、21世紀でもクルアーンは字義通り「神の言葉」として受け取られ、モスクにはクルアーンが「神の言葉」であると確信する人が集まっている。また、売りに出された教会が買い取られ、モスクに転用される事例も多い。キリスト教の洗礼を受ける人は少なく、イスラム教に入信する人は多い。

 

イスラム教は一日五度の礼拝だけでなく、服装や食事という外から見えやすいところでも信仰をあらわす宗教であり、そこに向けられる熱心さも相まって、「(実際の統計上の数字よりも)イスラム教徒の人口が増える」と思わせている、と考えられる。


上記のように、イスラム世界においても国や地域によって出生率や年齢別の人口比には大きな違いがあるが、共通していることがある。

預言者の教友であり、正統カリフであるウスマーンの主導で現存する『クルアーン』が編纂されたという歴史的事実があり、この根本聖典と、伝承の経路と典拠を確かめられる各ハディースから信仰を解釈できるイスラム教は、どの国と地域のあらゆるイスラム教徒にとっても真理だということである。

 

これは飲酒をするイスラム教徒や、女性だが髪などを隠さないイスラム教徒にとっても大前提である。

彼ら彼女らは保守的な信徒と同じく「神から誤りなく啓示された真理」と認識する宗教をそう解釈しているのであって、イスラム教という宗教そのものを相対化しているわけではない。

 

近世以前のヨーロッパ、また現代ヨーロッパにも一部残る保守派信徒のキリスト教徒と同様な見方を、「神の言葉」を根本とする自身の宗教に対して向けているのである。

同性愛間性交渉を禁じ、刑罰を命じるハディースを否定し、同性婚などを可能にする解釈をとるイスラム教徒もいるが、それにあたっては個別の伝承経路や状況について吟味するという保守派と同じ方法論(詳細は青柳かおる「イスラームの同性愛における新たな潮流」pdf11ページ以下を参照)をとっている。

 

そんなイスラム教を信じる国々にも無神論者や無宗教者はいるが、本当に「いることはいる」レベルのごく僅かな割合、人数である。キリスト教保守派が一大勢力であるアメリカですら、若者の5分の1は無宗教者であることを踏まえると、今もなお絶対的かつ強靱な社会への影響力がうかがわれる。

2024/06/05

カレワラ(フィンランド神話)(6)

34章〜第35章:クッレルヴォの帰還

クッレルヴォは、すぐさまイルマリネンの家から逃走し、荒野を放浪した。ところが、ここで通りかかった人から両親が健在であることを聞かされ、そのもとへと向かった。母親は喜び、家族の消息を説明し、妹が行方不明であると知らせる(第34章)。


彼は両親の元で働いたが、やはりうまくこなせず、舟をこげば櫂受けを壊し、網打ちをすれば網ごと粉砕した。そこで旅には慣れているだろうと、税金を納めに行くことになった。その帰り、彼はとある娘を橇に誘い、一夜を共にした。翌朝、互いの名乗りをしてみると、彼女は行方不明の妹だった。彼女は川に身を投げて自殺した。彼は自殺しようとするが、母が止めた。彼は考え直し、ウンタモ一族を滅ぼす決意をする(第35章)。

 

36章:クッレルヴォの最期

クッレルヴォは出征の準備をする。彼は皆に別れの挨拶をするが、母親以外はさほど悲しまない。彼が出発すると、追いかけて使者がきて、家族全員の死を順に知らせる。彼は突き放して答えるが、母に対してだけは大いに嘆く。彼はウンタモ一族を滅ぼし家を焼き、故郷に帰った。そこには空き家だけがあった。彼は泣いた。それから食料を探しに森に入って、気が付くと、そこは妹が死んだ場所だった。彼は刀で胸を突いて自殺した。それを聞いたワイナミョイネンは後世に向け、子供の育て方を誤らないようにと語った。

 

37章:黄金の花嫁

イルマリネンは、妻の死を大いに悲しみ、3ヶ月間泣き明かした後、金と銀で花嫁を作ることを思いつく。3度目に彼は黄金の花嫁を作り出したが、彼女は動くことも話すこともなく、抱いて寝ると冷たかった。彼はこれをワイナミョイネンに送ることにし、運んで行ったが、ワイナミョイネンはこれを拒否した。

 

38章:イルマリネン2度目の求婚旅行

イルマリネンは再びポホヨラに向かい、娘を求めた。女主人は娘の死を聞いて怒り、二度と娘はやらないと告げた。彼は娘に直接に願ったが拒否され、とうとう娘をさらって家を飛び出した。娘は怒り、悲しみ、許しをこうたが彼は聞かず、ある村に飛び込んだ時、彼は疲れて寝てしまった。目を覚ますと、娘は他の男と楽しんでいた。イルマリネンは怒り悲しみ、娘を鴎に歌い変えた。

 

イルマリネンは自分の国へ帰ると、ワイナミョイネンに出会い、ワイナミョイネンは彼にポホヨラの暮らしはどうだったかを訪ねた。彼は「向こうにはサンポがあるから幸せに暮らしている」と告げた。

 

39章:サンポ奪回へ

ワイナミョイネンは、イルマリネンにサンポ奪回を持ちかける。イルマリネンはワイナミョイネンに刀を作る。自分のためには鎧を作った。彼らは木の船を見つけ、船の願いに沿って、漕ぎ手として若者と乙女、それに老人の集団を出した。若者と乙女は力弱く、老人は少しましだったが船足は遅く、ついにイルマリネンが漕いだ。レンミンカイネンはこの船を見つけ、目的を聞くとこれに参加することを求め、船に乗り込んだ。

 

40章〜第41章:カンテレ

船は巨大なカマスの背に座礁し、レンミンカイネンはこれを倒そうとして海に落ち、イルマリネンは切りつけたが刀を折った。ワイナミョイネンは、刀でカマスを殺した。皆で料理して食った後、ワイナミョイネンは残りの骨からカンテレを作った。弾こうとしたが、だれにも弾けなかった。ワイナミョイネンは、ポホヨラには弾けるものがいるかもしれないと、これをポホヨラに送った。その地では多くの人が弾けたが、その音は喜ばしくなかった。楽器は再び作り手に戻された(第40章)。

 

ワイナミョイネンはカンテレを演奏した。すべての動物がこれを聞きに集まった。妖精たちも聞き惚れた。聞いた人間はすべて涙を流した。ワイナミョイネン自らも涙を流した。その涙は海に沈んで真珠となった(第41章)。

 

42章:サンポ奪回

イルマリネンは先頭の櫂、レンミンカイネンは後尾の櫂に、そしてワイナミョイネンは船尾に座り、船は進んだ。ポホヨラにつき、女主人のもとへ向かい、サンポを分けるように求めた。彼女はこれを拒否。彼は、ならばすべて持ち帰ると言ったので、女主人は立腹し、ポホヨラの全員を呼び出し、彼らは武装して集まった。ワイナミョイネンはカンテレを演奏し、彼らは全員よい気持ちになり、眠り込んだ。ワイナミョイネンはサンポをしまった扉を開き、運び出そうとしたが動かなかったので、牛を連れてきて引かせ、ようやく運び出し、船に乗せた。レンミンカイネンは漕ぎながら歌うと言い出し、再三止めたがついに歌い出した。その声でポホヨラのものたちは目を覚まし、盗まれたことを知って怒った。まずもやを歌い出し、ワイナミョイネンの足止めをした。彼はこれを払うと、さらに進んだ。今度は海からイク・トゥルソが現れたが、ワイナミョイネンにしかられて姿を消した。次は大風が吹き、カンテレは飛ばされた。ワイナミョイネンは悲しんだが、船を強化してさらに進んだ。

 

43章:サンポ戦争

女主人は軍勢を仕立て、戦船を進撃させた。ワイナミョイネンはこれを見つけ、暗礁を歌い出して船を粉々にした。彼らは全員眠り込んだ。武器を爪に変え、板をつなげて翼とし、鷲のような姿で飛び始めた。そして船に近づき、サンポを奪おうとした。レンミンカイネンは切り付けたが効果がない。ワイナミョイネンは舵を海から引きだし、殴りつけた。鳥の姿のものは海に落ちたが、爪が引っ掛かったのでサンポも海に落ち、破片となった。サンポの破片は各地にたどり着き、それぞれの地を富ませた。

 

ロウヒは復讐のために熊を送り、霰を降らせるというが、ワイナミョイネンはそれに対抗できる旨を答え、女主人は泣く泣くあきらめた。ポホヨラにはサンポの破片はほとんど来ず、ラップはパンの無い生活をすることになった。ワイナミョイネンは陸に着くと、サンポの破片を見つけ、それを以て土地が繁栄するように呪文を唱えた。

 

44章:新たなカンテレ

平和になったことからワイナミョイネンはカンテレを弾きたくなり、イルマリネンに鉄の熊手を作らせ、カンテレを探したが見つからない。彼が草原に行くと白樺が泣いていた。理由を聞くと、切られ、削られるのが怖くてならないと言う。そこで彼は皆の喜びになるのだと木を慰め、その木で新しいカンテレを作った。彼はそれを演奏し、皆それを聞いて感動した。

 

45章〜第46章:復讐

カレワが繁栄していることを聞いたロウヒは妬み、疫病を送った。ワイナミョイネンはそれを救いに出掛け、呪文や軟膏でそれを払った(第45章)。

 

カレワが救われたと聞いたロウヒは、今度は熊を送り付けた。ワイナミョイネンはイルマリネンに槍を作らせ、熊を捕らえ、礼を尽くして解体した(第46章)。

 

この章は熊祭の祭礼や歌を物語に取り込むために、ロウヒがそれを送り込んだことにしたものである。