2024/06/14

イスラム教(13)

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イスラームの政治性・社会性

イスラームは、ムハンマドによる創建当初から宗教共同体=政治的共同体であったことから、宗教指導者や政治指導者は宗教的理念に基づいた公正な政治を行うべき責任を有している、という理念を持っている。また創建当時、預言者ムハンマド自身や聖地メッカの人々は、多くがアラビア半島内外への商交易によって生活を立てていたことから経済活動を重視しており、富者はアッラーの恩恵によって経済的に豊かになれているため、貧者に喜捨や施しをすることで社会還元すべきとする、経済活動についても固有の理念を持つ。

 

加えて貧者や孤児、寡婦などの社会的弱者は、近親者や縁故者なども含めて社会全体から保護・支援すべきであるとしているため、社会運営についても聖典クルアーンや、預言者ムハンマドの言行に基づいた理念や規定が設けられている。

これらイスラームは、単に信仰生活のみならず政治理念から経済活動、社会生活全般に渡る理念など、幅広い分野についても宗教的な理念や規定、許容範囲などが考察されて来た歴史がある。

 

ハラール(許可)とハラーム(禁止)

イスラームでは、宗教的に許可推奨されるもの・行為(ハラール)と、禁止されるもの・行為(ハラーム)の区別がある。クルアーンとハーディスで言及されていないものについては、イスラム法学者や知識人の見解やイスラム教徒側の許容や合意によって左右される。

なお、イスラム法学者によっては文面上ハラームなもの、例えば売春ギャンブルなどについても、見かけ上ハラールな行為を組み合わせて適法と解釈する行為を広く認めており、これを「ヒヤル」という。

 

事細かな戒律があるため、外部からは大変と思われがちだが、アラーはできるだけ多くの人間を天国に導こうとするため、その戒律には様々な救済措置などが設けられており、悪行よりも善行をうんと評価するシステムからさほど熱心ではなくとも、一生を普通に暮らせば(特に豚肉や酒が流通していないイスラム教が支配的な地域)、よほどの悪人ではない限り天国にいける可能性がある、というのが多くのイスラム教徒と法学者の見解である。

 

LGBTQについて

イスラム教では、基本的に異性愛のみを認め(ハラール)、同性愛は否定(ハラーム)されているが、過去には多くのイスラム王朝で権力者が男色を好み、少年愛の文化が花開いていた。だが現代では、インドネシアやトルコなど宗教分離が進んだ国家、ヨルダンやパレスチナなど比較的リベラルなイスラム国家では同性愛も許容されるものの、厳格なイスラム社会においては同性愛への風当たりは非常に厳しく、むち打ち刑や死刑となる場合もある。

 

イスラム教徒にも同性婚を認め、イスラム教式の宗教的な同性結婚式を行うモスクや宗教者が存在している(ゲイのイスラム教指導者の物語「イスラム教は対話にオープンになった - 10年前とは違って」死の脅し受けてもなお――ゲイのイスラム教指導者)。

 

トランスジェンダーについては自身の体に性的違和をおぼえ、性別移行手術を望む人々については、保守的な宗教権威においても認める立場がある。

スンニ派では「アッラーが地上に病をくだされた場合、必ずその癒しをくだされた」(ブハーリーのハディース集より)といった伝承が参照され、スンニ派最高学府アズハル大学がこれを認め、シーア派を国教とするイランでもイスラム諸国で最初に性別変更を認めている(イスラーム圏の性同一性障害、そして性別越境者 japanese only)。パキスタンでは国民IDカードにおいて「第三の性」として対応する方針をとるようになった(性は私事か、公事か―「トランスジェンダーであるだけで殺される国」からの脱皮を目指すパキスタン)。

 

しかしながら、イスラム教の国々でも迫害を受けるトランスジェンダー当事者がいるのも事実である(インドネシア:トランスジェンダーを警察が「再教育」)。

トルコや他の地域のトランスジェンダーたちは、預言者ムハンマドを背に乗せ天界に運んだと伝わる人面の天馬アル=ブラークを、自分達のアイデンティティを指し示す存在とみなしている(Why Turkey's activists and LGBTQ, Kurdish communities are rallying around the mythical figure of Şahmeran)。


ユダヤ教・キリスト教とのつながりと相違

聖書の扱い

イスラームは、先行するユダヤ教キリスト教と同じ唯一なる神を信仰していると自認しているが、3者間の差異は預言者に下された「啓典」の歪曲によって成ったとしている。ユダヤ教徒・キリスト教徒に伝わる現行の聖書は捏造・改竄がなされたもの、とみなされる。クルアーンによって誤りが訂正された、という信仰である。

 

六信にある「啓典」(モーセ五書、詩篇、福音書)とは、厳密には預言者に降された「改竄前のオリジナル」であり、クルアーンと食い違う箇所、また無神論者やニューエイジャーからも指摘される(「改竄後」である)聖書の内部矛盾も、容赦なく批判され、聖書が真理、神の言葉そのものであることは否定される。

 

イスラム教においては、聖書が改竄されて欠陥や矛盾を含んでしまった以上、地上において純粋まじりっけなしの神の言葉は、預言者ムハンマドに降された最後の啓示であるクルアーンの他に存在しないのである。


キリスト教徒に、ユダヤ教徒は自分達と同じ神を信じているとみなすが、イスラム教徒はそうでない、という人がいるのはこのためである。

 

アブラハムの扱い

古代のアブラハム(イブラーヒーム)をこれら3宗教の遠祖と仰いでおり、基づいてアラブの始祖をアブラハムの息子イシュマエル(イスマーイール)とし、メッカのカアバ神殿はアブラハムとイシュマエルが建設したというイスラーム以前の古いアラブの伝承に基づいて、イスラームの信仰の根本はアブラハムの宗教に立ち返ったものであるとみなしている。

 

イスラム教においては、(イエスやモーセもだが)アブラハムはユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなくムスリムである。

 

イエスの扱い

アッラーは、クルアーンによれば「生みも生まれもしない」唯一固有の存在としているため、イエス・キリスト(マスィーフ・イーサー)をマリア(マルヤム)の子にして救世主とは認めるものの、「神の子」であることは否定していることも特徴である(実はキリスト教においても、イエス・キリストはマリアから生まれる前、永遠の昔から存在したとされ、ある時点において発生・出現した(生まれた)、という見解はとらない)。


クルアーンでは、神を「父」と呼ぶ旧約聖書からの慣習も否定されているが、これに則るならイエスは神をアッバ(父)とは呼んでいないことになる。

 

またイエスは十字架にかかっていない。かかっているように見えたのは誤認であり、実際は神により天に引き上げられた、とされる。

ハディース(ムハンマドの言行録)によると終末の時代が来るとき、イエスは十字架を破壊する、という。

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