2024/06/09

ウマイヤ朝(1)

ウマイヤ朝(アラビア語: الدولة الأمويةal-Dawla al-Umawiyya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。

 

イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。

 

非ムスリムだけでなく、非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。

 

カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえに、シーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。 

 

歴史

イスラム世界の領土拡大

ü  ムハンマド下における領土拡大, 622–632

ü  正統カリフ時代における領土拡大, 632–661

ü  ウマイヤ朝時代における領土拡大, 661–750

 

預言者ムハンマドの時代は、アラビア半島のみがイスラーム勢力の範囲内であったが、正統カリフ時代にはシリア・エジプト・ペルシャが、ウマイヤ朝時代には東はトランスオクシアナ、西はモロッコ・イベリア半島が勢力下に入った。

 

ムアーウィヤによる創始

656年、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によって、マディーナの私邸で殺害された。ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、第一次内乱が起こった。

 

両者の抗争は65612月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、アリーが勝利を収めた。その後クーファに居を定めたアリーは、ムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえに、ウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。

 

このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、660年、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。ムアーウィヤとアリーは、ともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンは、ムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した。ムアーウィヤは、ダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。

 

第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。ムアーウィヤは、ビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。また、東方ではカスピ海南岸を征服した。しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。ウマイヤ朝の重要な制度は、ほとんど彼によってその基礎が築かれた。

 

ムアーウィヤの後継者としては、アリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブは、ムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。ムアーウィヤは、他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。

第二次内乱

ムアーウィヤの死後、ヤズィード1世がカリフ位を継承した。これは多くの批判を生み、アリーの次男であるフサインはヤズィード1世に対して蜂起をしようとした。6801010日、クーファに向かっていた70人余りのフサイン軍は、ユーフラテス川西岸のカルバラーで4,000人のウマイヤ朝軍と戦い、フサインは殺害された。この事件はカルバラーの悲劇と呼ばれ、シーア派誕生の契機となった。

 

ヤズィード1世は、カリフ位を継いだ3年後、683年に死去した。シリア駐屯軍は、彼の息子であるムアーウィヤ2世をカリフとしたものの、彼は10代後半という若さだったうえに、即位後わずか20日ほどで死去した。これを好機として捉えたイブン・アッズバイルはカリフを宣言し、ヒジャーズ地方やイラク、エジプトなどウマイヤ家の支配に不満を抱く各地のムスリムからの忠誠の誓いを受け、カリフと認められた。これによって10年に渡る第二次内乱が始まった。

 

第二次内乱中の685年には、シーア派のムフタール・アッ=サカフィーが、アリーの息子でありフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマームであり、マフディーであるとして担ぎ上げたうえで自らをその第一の僕とし、クーファにシーア派政権を樹立した。これによって第二次内乱は三つ巴の戦いとなった。ムフタール軍は、一時は南イラク一帯にまで勢力を広げたものの、2年後の687年にはイブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブがムフタールを殺害し、クーファを制圧したことで鎮圧された。

 

ウマイヤ朝陣営では、ムアーウィヤ2世がカリフ即位後わずか20日ほどで死去し、マルワーン1世がカリフ位を継いだ。これによって、ムアーウィヤから続くスフヤーン家のカリフは途絶え、今後はマルワーン家がカリフを継ぐようになった。そのマルワーン1世もカリフ就任後およそ2年で死去したため、ウマイヤ朝陣営は反撃の態勢が整わなかった。

 

すでにイブン・アッ=ズバイルは、ウマイヤ朝のおよそ半分を支配下に置いていた。しかし、第5代カリフに就任したアブドゥルマリクは、ビザンツ帝国に金を払って矛先を避けさせることで政権を安定させ、戦闘能力の高い軍隊を組織してイブン・アッ=ズバイルへの反撃を開始した。自ら軍勢を率いてイラクへ向かったアブドゥルマリクは、691年にムスアブを破ってクーファに入った。また、692年にはハッジャージュ・ブン・ユースフを討伐軍の司令官に任命した。ハッジャージュは7か月にわたるメッカ包囲戦を行い、イブン・アッ=ズバイルは戦死した。これによって10年に渡る第二次内乱はウマイヤ朝の勝利で終息した。

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