2024/06/17

ウマイヤ朝(2)

絶頂期

第二次内乱後のアブドゥルマリクの12年の治世は、平和と繁栄に恵まれた。彼は租税を司る役所であるディーワーン・アル=ハラージュの公用語をアラビア語とし、クルアーンの章句を記したイスラーム初の貨幣を発行、地方と都市とを結ぶ駅伝制を整備するなど後世の歴史家によって「組織と調整」と呼ばれる中央集権化を進めた。

 

694年、アブドゥルマリクは、アッ=ズバイル討伐で功績を上げたハッジャージュをイラク総督に任命した。ハッジャージュは、特にシーア派に対して苛酷な統治を行い、多くの死者を出した一方で、イラクの治安を回復させた。

 

アブドゥルマリクは、カリフ位を息子のワリード1世に継がせた。征服戦争は、彼の治世に大きく進展した。ウマイヤ朝軍は北アフリカでの征服活動を続けたのち、ジブラルタルからヨーロッパに渡って西ゴート王国軍を破り、アンダルスの全域を征服した。その後、ヨーロッパ征服は、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまで続いた。また、中央アジアにおいてもトルコ系騎馬民族を破って、ブハラやサマルカンドといったソグド人の都市国家、ホラズム王国などを征服した。これによって、中央アジアにイスラームが広がることとなった。中央アジアを征服する過程では、マワーリーだけでなく非ムスリムの兵も軍に加えられ、これによって軍の非アラブ化が進んだ。

 

ウマル2世の治世

この時代になると、イスラームに改宗してマワーリーとなる原住民が急増し、ミスルに移住して軍への入隊を希望する者が増えた。また、アラブのなかでも従軍を忌避して、原住民に同化するものが増えた。

 

これを受けてウマル2世は、アラブ国家からイスラーム国家への転換を図り、兵の採用や徴税などにおいて、全てのムスリムを平等とした。これによってアラブは原住民と同様に、のちにハラージュと呼ばれる土地税を払うことになった。彼は今までのカリフで、初めてズィンミーにイスラームへの改宗を奨励した。ズィンミーは喜んで改宗し、これによってウマイヤ朝はジズヤからの税収を大幅に減らした。

 

また、ウマル2世はコンスタンティノープルの攻略を目論んだが失敗し、人的資源と装備を大量に失った。彼はアラブの間に厭戦機運が蔓延していることから、征服戦争を中止した。

 

ウマル2世に続いたカリフの治世では不満が頻出し、反乱が頻発することとなった。ヤズィード2世の即位後、すぐにヤズィード・ブン・ムハッラブによる反乱が発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ウマイヤ朝の分極化は次第にテンポを速めた。

 

最後の輝き

10代カリフとなったヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの治世は、ウマイヤ朝が最後の輝きを見せた時代であった。彼は経済基盤を健全化し、それを実現するために専制的な支配を強めた。しかしながら、ヒシャームはマワーリー問題を解決することは出来ず、また、後述する南北アラブの対立が表面化した。

 

また、ヒシャームの治世では、中央アジアにおいてトルコ人の独立運動が活発になった。その中のひとつである蘇禄が率いた突騎施には、イラン東部のホラーサーン地方のアラブ軍も加わった。

 

第三次内乱

744年、ワリード2世の統治に不満を抱いたシリア軍が、ヤズィード3世のもとに集って反乱を起こし、ワリード2世を殺害した。ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去し、彼の兄弟であるイブラーヒームが第13代カリフとなった。その直後、ジャズィーラとアルメニアの総督だったマルワーン2世が、ワリード2世の復讐を掲げて軍を起こした。彼の軍はシリア軍を破り、イブラーヒームはダマスクスから逃亡した。これによってマルワーン2世が第14代カリフに就任した。

 

アッバース革命

680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた。

 

カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシムがイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたと主張するグループが登場した。

 

アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(7188月から7197月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した。747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムが、ホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した。アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイーは、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、7499月、クーファに到達した。

 

74911月、クーファで、アブー・アル=アッバースは忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した。7501月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モースル近郊の大ザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い)。士気が衰えていたウマイヤ軍はアッバース軍に敗れ、マルワーン2世は手勢を率いて逃亡した。7508月、彼は上エジプトのファイユームで殺害された。これによってウマイヤ朝は滅亡した。

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