2024/09/14

壬申の乱(1)

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年624 - 723日に起こった古代日本最大の内乱である。

 

天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。

 

名称の由来は、天武天皇元年(672年)が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。

 

乱の経過

660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子に立てていたが、天智天皇101017日(6711123日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出て、吉野宮(現在の奈良県吉野町)に下った。そして天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れたとされる。

 

123日(67217日)、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。大友皇子が後継者としてその跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は天武天皇元年624日(724日)に吉野を出立した。まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野や、その他の豪族の信を得ることに成功した。続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある)。

 

この時、大海人皇子は近江朝廷における左右大臣と御史大夫による合議のことを述べているが、大海人皇子は近江朝廷が既に破綻していたことを把握していたと考えられる。さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は72日(731日)に軍勢を二手にわけて、大和と近江の二方面に送り出した。

 

近江朝廷の大友皇子側は、天武元年(672年)626日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる。群臣の中の4人の重臣(中臣金以外か)は、諸国に使節を派遣して農民兵を徴発するという、当時の地方支配体制の成熟度からは非現実的な方策を採択したことになる。

 

結局、東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断ったのだが、大友皇子はあらかじめ使者の佐伯男に、断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。

 

それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。72日(731日)には、近江朝廷の主力軍が不破に向けて進軍したことが見える。しかし、内紛を起こし、総帥的立場にあった山部王が蘇我果安と巨勢比等に殺され、果安も後に自殺した。また、蘇我氏同族の来目塩籠は「河内国司守」として近江朝廷軍を率いていたものの、不破の大海人皇子軍に投降しようとして殺されている。

 

大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。吹負は、このあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍はたびたび敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、吹負の窮境を救った。

 

近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。大海人皇子方と近江方を区別するため「金」という合言葉を用いた。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、77日(88日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して箸墓の戦いでの勝利を経て進撃を続けた。

 

722日(820日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌723日(821日)に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。美濃での戦いの前に、高市郡に進軍の際、「高市社の事代主と身狭社に居る生霊神」が神懸り「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と言い、そうすれば大海人皇子を護ると神託をなした。翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。

 

近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。

 

また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

 

乱の原因

壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。

 

皇位継承紛争

天智天皇は天智天皇として即位する前、中大兄皇子であったときに中臣鎌足らと謀り、乙巳の変といわれるクーデターを起こし、母である皇極天皇からの譲位を辞して軽皇子を推薦するが、その軽皇子が孝徳天皇として即位しその皇太子となるも、天皇よりも実権を握り続け、孝徳天皇を難波宮に残したまま皇族や臣下の者を引き連れ倭京に戻り、孝徳天皇は失意のまま崩御、その皇子である有間皇子も謀反の罪で処刑する。

 

以上のように、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまった。また天智天皇として即位したあとも、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指すなど、かなり強引な手法で改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子の不満を高めていった。

 

当時の皇位継承では、母親の血統や后妃の位も重視されており、長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。これらを背景として、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から乱の発生へつながっていったとみられる。

2024/09/12

シャンカラ

初代シャンカラ(梵: आदि शङ्कर, Ādi Śakara700年頃 - 750年頃)は、マラヤーリ人の8世紀に活躍した中世インドの思想家。不二一元論(アドヴァイタ)を提唱した。

 

概略

「神の御足の教師」として知られた彼は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化した最初の哲学者であった。彼の教えは、原因を必要とせず存立するところのブラフマン(梵)と、アートマン(我)は同一であるという主張に基づいている。スマートラの伝統において、インド神話ではシャンカラはシヴァ神の異名である。

 

シャンカラは、講話と他の哲学者との議論を通して自身の教えを伝達するため、インド各地を旅行した。彼は、ポスト仏教としてのヒンドゥー教とアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の布教の歴史の発展において、重要な役割を担う4つの僧院を設立した。

 

今日においても全てが現存しているというサンスクリットで書かれた彼の著書は、アドヴァイタ(非二元性)の教義を確立することに関するものである。しかし、300点を超える著作がシャンカラ著に帰せられているものの大部分は偽作と考えられている。主な著作は、ヴェーダーンタ派の根本聖典に対する現存最古の注釈『ブラフマ・スートラ注解』である。

 

このほかシャンカラの真作と考えられる作品には『ブリハッド・アーラニヤカ』など、古ウパニシャッドに対する注解がある。シャンカラは教えを説く際に、ウパニシャッドや他のヒンドゥー教の聖典の広範囲から引用をおこなった。独立した著作物で彼の真作と思われるものとして『ウパデーシャ・サーハスリー』がある。これは、サーンキヤ学派や仏教に近い立場からの批判に対する反駁を、その内容としている。

 

シャンカラはヴェーダーンタの代表的な哲学者であるが、その思想は仏教との親近性が高いといわれる。歴史的にみれば、彼は仏教哲学をヴェーダーンタ哲学に吸収する役割を担ったともいえる。[要検証ノート]

 

シャンカラは、その解説書の中で仏教の多くの教義を批判している。しかし、彼の最も直接的な仏教批判は『ブラフマ・スートラ』2.2.32の注釈に見られる。

 

要するに、バイナシ派(仏教徒)の教義は、その信憑性を検討するたびに、砂上の楼閣のように崩れ落ち、それゆえ信憑性がない。釈迦は、無常、刹那、空という互いに矛盾する三つの教義を説いた。釈迦は民衆を憎んでいるか、民衆を惑わすために矛盾した教義を説いて、混乱した言葉を発しているのである。釈迦の教義は解脱を望む者にとっては尊敬に値しない。

シャンカラはヒンドゥー教では「アートマン(魂、自我)が存在する」と主張し、仏教は「魂も自我もない」と述べている。

 

何人かの学者は、シャンカラの歴史的名声と文化的影響は数世紀後、特にイスラム教徒の侵略と、その結果としてのインドの荒廃の時代に高まったと指摘している。シャンカラの伝記の多くは14世紀以降に執筆・出版されており、広く引用されているヴィディヤーナの『シャンカラ・ビジャヤ』などがある。

 

生涯

伝説では、インド半島南部のケーララ州カーラディ(英語版)の地でナムブーディリというバラモン階級の子として生まれたといわれている。伝説では「シヴァ神の化身」として描かれている。幼少時に父を亡くし、5歳の時にヴェーダ聖典学習の入門式を受け、7歳の時に師の元で学習を終えた。この時点で、すでに一切知者の状態に達していたといわれる。結婚することなく出家し、ゴーヴィンダに師事した。そののち、上述のように、全インドを遊行のために旅しており、そのなかでパドマパーダ、ハスターマラカ、トータカーチャーリヤ、ヴァールティカカーラという4人の弟子を得た。

 

シャンカラは正統的なバラモン教の歴史のなかで、初めて僧院を建立した人物である。シャンカラは、東西南北に4つの僧院を創設し、4人の高弟をそれぞれに配置した。ヴェーダーンタ派の僧院は現在インドの各地にあるが、総本山はカルナータカ州のシュリンゲーリ・シャラーダ・ピーサム[要曖昧さ回避]にあり、そのほか東部のプリー、西部のドヴァーラカー、ヒマラヤ山脈地方のバドリーナート、タミル・ナードゥ州のカーンチに主要な僧院が建てられている。

 

4つの僧院の法主の座は、現在は「シャンカラ・アーチャーリヤの座」と呼ばれ、ヴェーダーンタを体得した人でないとその座につけないので、空座になることも多い。シャンカラ・アーチャーリヤ(アーチャーリヤは「先生」の意)は直訳すると「シャンカラ(の)先生」となり、初代のシャンカラを表すときにはアーディ(「初代」の意)をつけて区別する。シャンカラ・アーチャーリヤはウパニシャッド聖典の真理を体得した聖者として、シャンカラの化身として尊敬と信仰を集め、現在のインドでも大きな社会的影響力がある。

 

シャンカラは、伝説ではヒマラヤ地方のケーダールナータの地で入滅したといわれている。

 

思想

ヴェーダーンタ哲学の不二一元論の立場を確立したインド最大の哲学者シャンカラは、原因を必要とせず存立するところのブラフマンと、個人の本体であるアートマンは本来同一であると主張した。上述のように、仏教思想からの影響を強く受け、「仮面の仏教徒」と称されることがある。

 

シャンカラが目ざしたものは輪廻からの解脱であり、その手段は、バラモン教の経典『ヴェーダ』の注釈書(奥義書)である『ウパニシャッド』の説く宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個体の本質であるアートマン(我)とは本来は同一であるという知識である。現実の日常経験がこの真理と矛盾しているのは、この知識を会得しない無知(無明)によるとし、肉体をも含めた一切の現象世界は無明によってブラフマンに付託されたものにすぎないものであって、本来実在しないと説いて幻影主義的な一元論(不二一元論)を唱えた。不二一元論は現代にいたるも、インド思想界の主流をなす教説として知られている。

2024/09/07

【体操女子】宮田選手を応援

女子体操の宮田選手が、オリンピックの前に「飲酒喫煙をしていたことが発覚した」ということが、まるで罪人であるかのような論調は実にケシカラン話である。

 

宮田は何も悪くない。

悪いのは他人の才能に嫉妬するマスゴミなどハイエナどもだ。

 

さらに言えば、このタイミングでの告発というのは内部リークに違いない。実力では到底勝負できない才能あるものに対する恨みややっかみを持ったうす穢い連中が、才能ある者の足を引っ張ろうと常に虎視眈々と狙っている醜悪が残念な日本の構図であり、こいつらは恥も外聞もなくまことに薄汚い手段に訴えてくる輩なのである。

 

そもそも、なぜオリンピック代表選手が酒やタバコをやってはいけないのか?

 

なんでもJOCのルールブックだかに書いてあるらしいのだが、いうまでもなく日本は法治国家なのだから法律が最高法規である。今の法律では18歳以上は成人と認められ、成人の飲酒喫煙は憲法で認められた日本国民の権利なのである。

 

JOCの規定だか規約だか知らんが、一部の関係者が勝手に作ったものが憲法より優先される道理はなく、こんなものは法律の前では紙屑のようなものだ。

そうでなければ、日本が法治国家ではなくなる。

 

であるから宮田は

 

「成人の私が飲酒喫煙して何が問題なのか?」

 

と敢然と突っぱねて堂々オリンピックに出場すべきだった。

が、おそらくは関係者どもに因果を含められ、泣く泣く「辞退を強要された」のが真相であろうと推測する。

 

なんとも可哀そうな話ではないか。

19歳の娘を、こうまで寄ってたかってイジメて一体何が楽しいのか?

 

そもそもアスリートなのだから、いかに酒やタバコをガンガンやろうが結果が出せればなにも問題ないのであって、むしろ酒タバコがいかに実害がないかの証明にもなるから、酒・タバコ嗜好家の活躍は日頃から根拠なき批判を受け続けている好事家にとっても最高の結末ともなるのである。

 

その宮田が国体で優勝した。

 

本来なら五輪で日本代表のエースを張っていたはずの逸材なのだから、レベルが段違いに格下の国体などは宮田なら勝って当たり前というべきだが、あの騒動醒めやらぬ中でも優勝して見せるメンタルは立派だ。

だからこそ、この強靭なメンタルをオリンピックで発揮していたら、と猶更惜しまれるのである。

 

幸い19歳とまだ若いだけに、次の五輪もまだ十分にチャンスはあるだろう。今後は細心の注意を払って(といっても「聖人君子」になどになる必要などは毛頭なく、狡猾な輩に上げ足を取られないようばれないようにやればよいだけw)、次の五輪で目の覚めるような演技を披露して、世間の阿呆どもを懺悔させるような大活躍を陰ながら期待する。

白村江の戦い(3)

戦後の朝鮮半島と倭国

白村江の戦いは、中原の再統一により東ユーラシア全域に勢力が跨る世界帝国である唐が現出し、それに伴って北東アジアの勢力図が大きく塗り変えられる過程を決定的にした戦役と言える。以下、朝鮮半島および倭国における戦後の状況について解説する。

 

朝鮮半島

高句麗の滅亡

白村江の戦いと並行し、朝鮮半島北部では唐が666年から高句麗へ侵攻(唐の高句麗出兵)しており、3度の攻勢によって668年に滅ぼし安東都護府を置いた。白村江の戦いで国を失った百済の豊璋王は、高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。高句麗の滅亡により、東アジアで唐に敵対するのは倭国のみとなった。

 

渤海の建国

698年、靺鞨の粟末部は高句麗遺民などと共に満州南部で渤海国を建国した。建国当初は唐と対立していたものの、後に唐から冊封を受け臣従するに至った。また日本は新羅との関係が悪化する中で、渤海からの朝貢を受ける形で遣渤海使をおこなうなど、渤海とは新潟や北陸などの日本海側沿岸での交流を深めていった。

 

新羅による半島統一

戦後、唐は百済・高句麗の故地に羈縻州を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示した。新羅は旧高句麗の遺臣らを使って、669年に唐に対して蜂起させた。670年、唐が西域で吐蕃と戦っている隙に、新羅は友好国である唐の熊津都督府を襲撃し、唐の官吏と兵士を多数捕虜にした。他方で唐へ使節を送って降伏を願い出るなど、硬軟両用で唐と対峙した。

何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年に撤収し、新羅によって半島統一(現在の朝鮮半島の大部分)がなされた。

 

倭国

総説

唐との友好関係樹立が模索されるとともに急速に国家体制が整備・改革され、天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急いで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。

 

白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えられている。

 

戦後交渉および唐との友好関係の樹立

665年、唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。

 

667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府の1つ)の役人に命じて、日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきた。

 

天智天皇は唐との関係の正常化を図り、669年に河内鯨らを正式な遣唐使として派遣した。670年頃には唐が倭国を討伐するとの風聞が広まっていたため、遣唐使の目的の一つには風聞を確かめる為、唐の国内情勢を探ろうとする意図があったと考えられている。後述するように天武期・持統期に一時的に中断したものの、遣唐使は長らく継続され唐からの使者も訪れ、その後の日本の外交は唐との友好関係を基調とした。

 

捕虜の帰還

『日本書紀』によれば、白村江の戦いの後の67111月に、「唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋(比珍島)に泊りて相謂りて曰わく、「今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ」」とあり、合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。この中には、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の4人が含まれており、捕虜返還を前提とした上での唐への軍事協力が目的であったとされる。

 

684年(天武13年)、猪使連子首(いつかいのむらじこびと)・筑紫三宅連得許(つくしのみやけのむらじとくこ)が、遣唐留学生であった土師宿禰甥(はじのすくねおい)・白猪史宝然(しらいのふびとほね)らとともに、新羅経由で帰国したのが、記録に現れる最初の白村江の戦いにおける捕虜帰還である。

 

690年(持統4年)、持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して「百済救援の役であなたは唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元実児(ゆげのむらじもとさねこ)の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時あなたは、富杼らに『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、あなたはひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。わたしは、あなたが朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ」と詔して表彰し、大伴部博麻の一族に土地などの褒美を与えた。幕末の尊王攘夷思想が勃興する中、文久年間、この大伴部博麻を顕彰する碑が地元(福岡県八女市)に建てられ、現存している。

 

707年、讃岐国の錦部刀良(にしこりのとら)、陸奥国の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後国の許勢部形見(こせべのかたみ)らも帰還した。このほかにも、696年に報賞を受けた物部薬(もののべのくすり)、壬生諸石(みぶのもろし)の例が知られている。

 

防衛体制の整備

白村江における倭国軍の実態は国造軍による連合軍であったが、過去にも何度も朝鮮半島への出兵も経験していることから、必ずしも動員や兵站の面で過小評価は出来ないが、指揮系統の未確立・慣れない組織戦などで唐・新羅連合軍に圧倒された。倉本一宏は仮説としながらも「とんでもない可能性」として、天智天皇は旧態依然の豪族の排除と軍制の解体を目論んで、勝てないのを承知の上で開戦に踏み切ったとする可能性もあるとする。

 

白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や、瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京(大津宮)へ移し、ここに防衛体制は完成した。

 

中央集権体制への移行と国号の変更

671年に天智天皇が急死すると、その後、天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立し、翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。これに勝利した大海人皇子は、天武天皇(生年不詳〜686年)として即位した。

 

皇位に就いた天武天皇は、専制的な統治体制を備えた新たな国家の建設に努めた。遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになった。また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。これは強力な武力を持つ唐に対して、共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。しかし、天武天皇没(686年)後は両国の関係が次第に悪化した。

 

天武天皇の死後も、その専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了した。「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人を派遣して唐との国交を回復している。

 

百済遺民の四散

天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室集斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。

 

百済王の一族、豊璋王の弟の善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。

 

史料によれば、朝鮮半島に残った百済人は新羅及び渤海や靺鞨へ四散し、百済の氏族は消滅したとされる。

2024/09/05

役小角(役行者)(3)

修験道の開祖とされる在家僧侶であり最初の山伏。

ゆえに役優婆塞(剃髪せず、世俗と縁を切っていない仏教信者)とも称される。

 

実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きく、その記録書のほとんどが当時世間で流れていた話(説話)を取りまとめたものが多く、荒唐無稽なものが多いため、詳しい来歴については不明である。

 

ただ、現在でも天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など、多くの修験道の霊場に役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があり、修験道のみならず日本各地の仏教寺院をはじめとして信仰の対象とされ、近畿地方を中心とした各地で彼の足跡を見ることができる。

 

経歴

舒明天皇6(634)に大和国葛城上郡に、三輪氏の系列を組む神官の家に生まれる。

 

中世において、彼の伝承を含んだ非常に詳細な伝記である『役行者本記正系紐』によれば、両親は大和国と出雲国の双方の賀茂氏で、父は高賀茂十十寸麿、母は高賀茂白専女であり、更に遡ると大国主神の息子である事代主神に巡りつき、須佐之男命の系統である。

 

幼くしてその天才ぶりを発揮して山岳修行をはじめ、17歳にして飛鳥元興寺の高僧から『孔雀明王経』を教授され、紀伊山地・熊野にて30年にも及ぶ山岳修行に突入する。

 

その中で金峯山にて蔵王権現を感得し、日本古来の山岳信仰と仏教とを織り交ぜた修験道の基礎を築きあげ、近畿を中心として日本各地を行脚し修行の日々を送ったという。

 

その後、様々な呪法を身につけて人々を助けるも、弟子の韓国連広足の裏切りによって謀反人に仕立て上げられ、文武天皇3(699)に伊豆への流刑に処される。

 

二年後の701年に大赦によって流刑から解放され、その年の6月にこの世を去った。

 

彼の修行場の多くは修験道の聖地をされ、今なお日本に山岳信仰と日本宗教に強い影響を残している。

 

伝説

空海僧正、安倍晴明に並んで多くの伝説を持つ日本の宗教家の一人(晴明は正確には役人だが)であり、悪霊を払い、また使役したという伝説においては先の二人の大先輩に当たる。

 

特に前鬼・後鬼(もしくは赤目・黄口)の夫婦の鬼を従えたことは有名であり、役小角像の多くにこの夫婦鬼の像が付属している。

 

そのほかにも「日本の神々と語り、彼らの助力を得たり使役したりしていた」・「中臣鎌足の病を癒した」、「流刑中も空を飛んで富士山で修行していた」・「死んだのではなく、仙人となって母親とともに唐へと飛んで行った」など、彼にまつわる伝説は非常に多い。

2024/09/01

マヤ神話(2)

英雄譚

もう一つ『ポポル・ヴフ』で語られているのが、双子のフンアフプーとイシュバランケーを主人公にした英雄譚である。

 

フンアフプー(HunahpuHunahpú)は、マヤ神話に登場する神。フン・アプ、フンアプ、フナフプ、フナプと書かれることもある。彼の名前は「猟師」を意味する。

 

イシュバランケー(IxbaranqueXbalanque)は、マヤ神話に登場する神。シュバランケと書かれることもある。彼の名前は「小さなジャグヮール(ジャガー)」を意味する。

 

2人は双子の兄弟で、フン・フンアフプーとイシュキックの息子。『ポポル・ヴフ』で、2人の出自と功績が語られる。彼らは半神の首長たちをやっつけていく。最終的に、父親の仇を討って冥界を平定し、それぞれ太陽と月になって天に昇った。

 

出自

父フン・フンアフプーは、弟のヴクブ・フンアフプーとともに、冥界・シバルバー(Xibalba)の冥神フン・カメーとヴクブ・カメーの罠にはまって殺害された。フン・フンアフプーの首は木に吊され、ちょうどやって来たイシュキックは、フン・フンアフプーの吐いた唾を手に受けると、やがて赤ん坊を身ごもった。

 

これこそがフンアフプーとイシュバランケーであった。

 

地下界から地上に上がったイシュキックは、フン・フンアフプーの母(祖母)を訪ねて、嫁として認めてもらい、山の中でフンアフプーとイシュバランケーを出産した。2人があまりに泣くので、祖母は外に出せと言った。フン・フンアフプーと亡き妻イシュバキヤロとの間の息子、フンバッツとフンチョウエンは赤ん坊を憎み、殺したいと思って蟻の巣や刺の上に置いた。そのため、2人は野原で育てられることになった。

 

2人は成長すると、吹筒で猟をして鳥を獲ったが、異母兄に鳥を取られて、食事ももらえなかった。2人は兄たちの仕打ちに怒り、兄たちを人猿に変えて森へ追った。

 

巨人の親子の征伐

ヴクブ・カキシュ

巨人のヴクブ・カキシュの傲慢ぶりを見たフンアフプーとイシュバランケーは、彼の退治を決意した。ヴクブ・カキシュはナンセの木の実を食べているため、2人は木の根元で待ち伏せし、フンアフプーが吹筒を打ち、ヴクブ・カキシュの顎の骨に当てた。そして木から落ちてきたヴクブ・カキシュを捕らえようとしたら、逆にフンアフプーの腕が折られて奪われてしまった。

 

2人は老女のサキ・ニマ・チイス、老人のサキ・ニム・アクを訪ねて、自分たちと一緒にヴクブ・カキシュの家に行ってほしいと頼んだ。老女と老人は、奥歯が痛んで苦しんでいるヴクブ・カキシュを治療すると嘘を言い、ヴクブ・カキシュの歯も目も抜き取って殺した。その間に、フンアフプーは自分の腕を取り戻した。

 

シパクナー

ヴクブ・カキシュ長男のシパクナーが、400人の若者を殺してしまったので、フンアフプーとイシュバランケーは彼の退治を決意した。エク羊歯などの材料で、彼の好物の蟹の偽物を作り、大きな蟹がいると嘘を言い、シパクナーを谷の底へ連れて行った。シパクナーは蟹を追いかけるうちに2人の罠にはまり、山崩れの下敷きになって石になって死んだ。

 

カブラカン

ヴクブ・カキシュの次男のカブラカンが山を覆したり割ったりするのを見た神のカクルハー・フラカン、チピ・カクルハー、ラサ・カクルハーは、彼のやっていることが悪いことだから滅ぼせと、フンアフプーとイシュバランケーに命じたため、2人は彼の退治を決意した。2人は、太陽の出る方角にとても高い山を見たと嘘を言い、カブラカンと一緒に歩きだした。途中で鳥を獲り、ティサテ(石膏)を塗って白い土で包むと、いい匂いがするように焼いてからカブラカンに食べさせた。土のせいでカブラカンは手足から力が抜けてしまい、大きな山に着いても覆すことができなかった。2人はカブラカンの手足を縛って土に埋めて殺した。

 

冥府シバルバー攻め

フンアフプーとイシュバランケーは、ネズミから、父フン・フンアフプーが使っていた球戯の道具(首環、手袋、球)が天井から吊されていることを教えられた。この道具のせいで息子が死んだため、祖母が隠していたのだった。そこで2人は祖母と母に用事を頼んで外出させ、その間に道具を見つけて手に入れた。そして父たちが遊んだ球戯場へ行って球戯を楽しんだ。するとシバルバーのフン・カメーとヴクブ・カメーがこの音を聞きつけ、2人を呼ぶ使いを送った。祖母から使いの伝言を聞いた2人は、家の中にトウモロコシを植えた。このトウモロコシが枯れれば2人は死んだということになり、芽が出れば生きているということになるのだと2人は言い、シバルバーへ向かった。

 

シバルバーの冥神たちは2人の父フン・フンアフプーと叔父ヴクブ・フンアフプーにしたような企みを次々に仕掛けてきたが、2人はその企みを見破った。毎晩泊められる闇の館、剣の館、寒冷の館、ジャガーの館、焔の館、どれも2人は切り抜けていった。日中はシバルバーの者たちと球戯をした。蝙蝠の館では、カマソッツの武器を避けるために2人は吹筒に入って寝ていたが、夜が明けたか確かめようとしたフンアフプーが吹筒から頭を出すと、カマソッツがすかさず頭を切り落としてしまった。頭はシバルバーの者たちに奪われた。

 

イシュバランケーは、動物を呼び集めた。その中で亀が、フンアフプーの胴体に近づくと、くっついて頭になった。多くの予言者やフラカンが、この蝙蝠の館の上に集まり、みなでフンアフプーの顔を作っていった。イシュバランケーはうさぎに協力を命じ、復活したフンアフプーと一緒に球戯場へ行った。そこにフンアフプーの頭があった。うさぎがシバルバーの者たちを球戯場の外へおびき出した間に、フンアフプーは自分の頭を取り戻した。

 

フンアフプーとイシュバランケーは自分たちが焼き殺されることを知り、予言者のシュルーとパカムを呼んで協力を命じた。やがてシバルバーの者たちが焚いた焚火のそばに連れてこられた2人は、自ら火に飛び込んで死んだ。シバルバーの者たちは大喜びし、シュルーとパカムを呼んで死体の扱いを相談した。そして言われたとおりに2人の骨を挽いて川に捨てた。前もって打ち合わせていたとおりに、2人は川の中から現れた。

 

フンアフプーとイシュバランケーは、みずぼらしいなりの老人に化け、シバルバーの者たちの前で踊った。次に手品をしたが、家を燃やしても元に戻したり、互いに斬り合って片方が死ぬともう片方が生き返らせたりした。フン・カメーとヴクブ・カメーがこの謎の2人の話を聞き、自分たちの元へ呼び、2人の踊りや手品を楽しんだ。またイシュバランケーがフンアフプーを殺して生き返らせて喜ぶのを見て一緒に喜んだ。とうとうフン・カメーとヴクブ・カメーは、自分たちを殺して復活させろと言った。フンアフプーとイシュバランケーはフン・カメーとヴクブ・カメーを殺し、生き返らせなかった。シバルバーの者たちはみな、フンアフプーとイシュバランケーに降参した。

 

フンアフプーとイシュバランケーは、父と叔父の仇をとるべく皆殺しにすると宣言し、シバルバーの滅亡が始まった。2人は父と叔父の体を見つけたが生き返らせることはできず、球戯場に置き、褒め称えた。そして太陽と月になって天に昇っていった。先に死んだ400人の若者も星になって2人に付き従った。

 

後日談

フンアフプーとイシュバランケーが祖母の家に植えていったトウモロコシは、2人が火に飛び込んで死んだときに枯れてしまったが、復活と共に再び芽を出していた。祖母はトウモロコシにニカフ(家の中心)と名前をつけて崇めた。