2021/03/31

荀子

荀子(じゅんし、紀元前313? - 紀元前238年以降)は、中国の戦国時代末の思想家・儒学者。諱は況。尊称して荀卿とも呼ばれる。漢代には孫卿とも呼ばれた。

 

生涯学習

勧学篇は、「学は以て已(や)む可からず」の語から始まる。人間は終生学び続けることによって、自らを改善しなければならないと説く。

青は之を藍より取りて、藍よりも青し」は勧学篇の言葉であり、「青は藍より出て藍より青し」の成語で有名である。

 

学ぶことは自分勝手な学問ではものにならず、信頼できる師の下で体系的に学び、かつ正しい礼を学んで身に付けた君子を目指さなければならない。荀子にとっての君子は、礼法を知って社会をこれに基づいて指導する者である。

 

統治技術としての礼

勧学篇で君子が学ぶべき対象は、「」であることが説かれる。修身篇では、君子は「礼」に従って行動するべきことが強調される。

 

礼は法の大分、類の綱紀なり」(勧学篇)「礼なる者は、治弁の極なり、強国の本なり、威行の道なり、功名の総(そう)なり」(議兵篇)と説明されるように、荀子はいにしえの時代から受け継がれた「礼」の中に、国家を統治するための公正な法の精神があると考える。

 

国家の法や制度は、「礼」の中にある精神に基づいて制定される。王制篇では王者は「人」=輔佐する人材、「制」=礼制、「論(倫)」=身分秩序と昇進制度、「法」=法律を制定するべきことが説かれる。君子は礼を身に付け、法に従って統治し、法が定めない案件については「類」=礼法の原理に基づいた判断を適用して行政を執る。

 

「その法有る者は法を以て行い、法無き者は類を以て挙するは聴の尽なり」(王制篇)

 

このように荀子は、君主が頂点にあり、君子が礼法を知った官吏として従い、人民が法に基づいて支配される、つまり法治国家の姿を描写して、その統治原理として「」を置くのである。孔子や孟子も「礼」を個人の倫理のみならず国家の統治原理として捉える側面を一応持っていたが、荀子はそれを前面に出して「礼」を完全に国家を統治するための技術として捉え、君子が「礼」を学ぶ理由は明確に国家の統治者となるためである。

 

荀子の描いた国家体制は、まず彼の弟子である李斯が秦帝国の皇帝を頂点とする官僚制度として実現し、続く漢帝国以降の中国歴代王朝では官僚が儒学を学んで修身する統治者倫理が加わって、後世の歴代王朝の国家体制として実現することとなった。

 

実力主義・成果主義

王制篇や富国篇等では、治政にあたって実力主義や成果主義の有効性を説いている。王制篇では、王公・士大夫の子孫といえども礼儀に励むことができなければ庶民に落し、庶民の子孫といえども文芸学問を積んで身の行いを正して礼儀に励むならば卿・士大夫にまで昇進させるべきことを説く。

 

王覇論

王制篇で、天下を統一する王者がいない条件下では、覇者が勝利することを示す。覇者は領地を併合することなく、諸侯を友邦として丁重に扱い、弱国を助けて強暴の国を禁圧し、滅んだ国は復興させて絶えた家は継がせる。このような正義の外交によって覇者は諸侯を友として、単に力あるだけの強者に勝利すると説く。

 

それでも、荀子はそのような現実的な覇者よりも、絶対正義を示して天下全てを味方につけて戦わず勝利するユートピア的な王者を優位に置き、覇者ではなく王者を理想とする。王者の王道政治を理想とするのは、孟子と同じく儒家の基本思想である。

 

性悪説・社会起源論

荀子は人間の性を「」、すなわち利己的存在と認め、君子は本性を「偽」すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、統治者となるべきことを勧めた。この性悪説の立場から、孟子の性善説を荀子は批判した。

 

富国篇で、荀子は人間の「性」(本性)は限度のない欲望だという前提から、各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する、と考えた。それゆえに人間は、あえて君主の権力に服従してその規範(=「礼」)に従うことによって生命を安全として窮乏から脱出した、と説いた。このような思想は、社会契約説の一種であるとも評価される。

 

荀子は規範(=「礼」)の起源を社会の安全と経済的繁栄のために制定されたところに見出し、高貴な者と一般人民との身分的・経済的差別は、人間の欲望実現の力に差別を設け欲望が衝突することを防止して、欲しい物資と嫌がる労役が身分に応じて各人に相応に配分されるために必要な制度である、と正当化する。そのために非楽(音楽の排斥)・節葬(葬儀の簡略化)・節用(生活の倹約)を主張して、君主は自ら働くことを主張する墨家を、倹約を強制することは人間の本性に反し、なおかつ上下の身分差別をなくすことは欲望の衝突を招き、結果社会に混乱をもたらすだけであると批判した。

 

荀子の実力主義による昇進降格と身分による経済格差の正当化は、メリトクラシーとして表裏一体である。

 

天人の分

天論篇では、「」を自然現象であるとして、従来の天人相関思想(「天」が人間の行為に感応して禍福を降すという思想)を否定した。

 

「流星も日食も、珍しいだけの自然現象であり、為政者の行動とは無関係だし、吉兆や凶兆などではない。これらを訝るのはよろしいが、畏れるのはよくない」

 

「天とは自然現象である。これを崇めて供物を捧げるよりは、研究してこれを利用するほうが良い」

 

また祈祷等の超常的効果も否定している。


「雨乞いの儀式をしたら雨が降った。これは別に何ということもない。雨乞いをせずに雨が降るのと同じである」。

 

「為政者は、占いの儀式をして重要な決定をする。これは別に占いを信じているからではない。無知な民を信じさせるために占いを利用しているだけのことである」。

 

日本・江戸時代

江戸時代、荀子に一定の評価を与えたのは荻生徂徠で、徂徠は「荀子は子・孟(子思と孟子)の忠臣なり」と言い、彼の言うところによれば荀子は子思や孟子の理論的過ちを正した忠臣といえる存在であり、荀子の方が孔子が伝えようとした先王の道(子思・孟子の言う儒家者流の倫理ではなく、先王が制定した礼楽刑政の統治制度)をよく叙述していた。徂徠は『読荀子』で『荀子』の初期注釈を行った。

 

江戸後期の『荀子』研究成果では、久保愛(久保筑水、宝暦9年-天保6年、1759-1835)が、師の片山世璠(片山兼山。享保15年-天明2年、1730-1782)を継ぎ『荀子増注』を著した。その他、冢田大峯・猪飼敬所・萩原大麓・古屋昔陽らの研究がある。

 

江戸時代を通じ日本儒学の主流は朱子学、あるいはそれに対抗した陽明学であり、いずれも孔子・孟子は評価したが、荀子への評価は高いとはいえなかった。久保愛も『荀子増注序』において、この書を天下で知る者は少ない、と嘆いている。

出典 Wikipedia

2021/03/24

卑弥呼の墓 ~ 卑弥呼(3)

卑弥呼の墓がどこにあるのかについては、様々な説がある。

 

規模と形状

卑弥呼は、径百余歩の墓に葬られたとする。一歩の単位については、周代では約1.35メートル、秦・漢代では約1.38メートル、魏代では約1.44メートルと言われ(長里)、墓の径は約144メートルとなる。一方、倭人伝の旅程記事などから、倭韓地方では長里とは別の単位(短里)を使用していると考えられ、短里説の支持者は一歩を0.3メートル、墓の径は30メートル前後とする。尚、短里説「周髀算経・一寸千里法の一里(=約77m)」の支持者の中には、一歩については、「周尺」を基準とした尺貫法の一歩(約1.2m)を採用している者もいる(かつて帯方郡のあった朝鮮では、周の伝統が受け継がれていたと考える)。

 

」という表現から一応円墳とされるが、弥生時代の築造から楕円墳や方墳である可能性もある。なお、卑弥呼がヤマト王権の女王であるとする近畿説によって、前方後円墳をその冢と見る説もあるが、「径」の表記から異論が多い。

 

造成時期

卑弥呼の死んだ時期は西暦248年であり、一般に弥生時代の終末期、あるいは弥生時代から古墳時代への移行期とされる。近畿ヤマト王権の年代では、崇神天皇治世の少し前と考えられる。

 

埋葬の特徴

魏志では、殉葬者は「奴婢百餘人」と記述されており、卑弥呼の墓は古墳に埴輪が導入される以前だった考えられる。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。ただし森将軍塚古墳など墳丘に埴輪棺を埋葬した例が有り、殉葬の可能性も指摘されている。また主体部については「有棺無槨」とされており、槨の無い石棺・木棺または甕棺墓と考えられる。

 

主な比定古墳

邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では、徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓)や九州最大・最古級の石塚山古墳、福岡県久留米市の祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。

 

箸墓古墳

邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説があるが、箸墓古墳の後円部は約150メートルの巨大な前方後円墳であり、魏志倭人伝による規模と形状が異なる。築造年代は3世紀第3四半期頃であるとの説があるが、卑弥呼の死去が3世紀中期なので時期的に矛盾する。

 

ホケノ山古墳

また箸墓古墳と同代、もしくは先行して造営されたとされるホケノ山古墳は、有槨の木棺であることが倭人伝の記述と矛盾し、また発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため、年代特定を疑問視する意見もある。

 

石塚山古墳

九州にある石塚山古墳については、築造時期が3世紀中頃(古墳時代開始時期)〜4世紀初頭と一致するが、前方後円墳で長は120メートル〜130メートル前後と規模と形状が魏志倭人伝の記載と異なる(但し、周尺で換算した場合は百余歩は、120メートル前後となる)。ヤマト皇権の象徴である前方後円墳(国内でも最古級)で九州にある一方、吉備地方に起源をもつ特殊土器類(特殊器台・特殊壺)や埴輪は確認されていないという特徴を持つ。九州にありながら、130メートル超の出現期古墳は珍しい。墳頂周囲には、中型の丹塗りの複合口縁壺形土器、甕形土器などが祭祀用として樹立していたと推定されている。高坏型・甕形土器は極めて在地的と評価されている。周濠は確認されていない。竪穴式石室であり、副葬品(玉、鏡、剣など)がある。出土鏡はすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられており、他には素環頭大刀、銅鏃、細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片、鉄鏃なども出土している。

 

平原遺跡

平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。1号墓からは直径46.5センチメートル、円周が46.5×3.14 = 146.01センチメートル「大型内行花文鏡」が出土しているが、原田大六はヤマト王権の三種の神器の一つ「八咫鏡」と同じ大きさ・形状であることから、その起源であると主張している。咫(あた)は円周の単位で、約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていたので、八咫鏡は直径2尺(46センチメートル前後)の円鏡ということになる。『御鎮座伝記』では「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されており、大型内行花文鏡と一致する。ただし墳墓の規模は魏志倭人伝の記載より小さく、また周囲には多人数の殉葬の墳墓が見つかっていない。

 

祇園山古墳

祇園山古墳は築造時期が3世紀中期と考えられ、一辺が23メートル-24メートル、基台を含めれば更に大きな方墳で形状や規模が一致し、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に数十名分の集団墓があること(宝賀寿男は、これを殉葬墓と推定している)、周囲の甕棺から後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、などが魏志倭人伝の記載と良く一致する。しかし、石室の副葬品が盗掘のため殆どが失われており、わずかに高良大社に出土品と伝えられる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)があるのみである。

 

御所市玉手山説

卑弥呼を宇那比姫命とする説で、六代孝安天皇は宇那比姫命の義理の弟である。したがって『魏志倭人伝』が「男弟有て佐(たすけ)て国を治」とする男弟を孝安天皇とする。

 

孝安天皇の宮は、室秋津嶋宮(むろのあきつしまみや)とされる。伝承地は奈良県御所市室(ごせしむろ)で、ここが卑弥呼の王宮であるとする。この秋津嶋宮伝承地の北東約1㎞に、玉手山という山がある。ここは孝安天皇が葬られたとする山でもある。そこにお椀を伏せたような尾根があり、中心には墳丘が存在する。尾根は自然の尾根であるが、尾根全体を墓域とすれば、まさに径百余歩の円墳である。これを卑弥呼の墓とする説。

出典 Wikipedia

2021/03/22

インド仏教の発展

出典https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

1.   部派仏教とアビダルマ哲学の成立

 

ブッダの入滅後100年ころ、教団は律の解釈をめぐって、保守派の上座部と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)に分裂した。その後、さらに分裂を重ね、成立した部派の数は18あるいは20と伝えられる。

 

各部派は、自派の教理にもとづいて聖典を編纂し直し、独自の解釈を立てて論書を生み出した。それらはアビダルマといわれる。そして、これを集めたものが論蔵(アビダルマ蔵)で、ここに経蔵・律蔵とあわせて三蔵が成立した。

 

多くの部派のアビダルマは失われた。現在完全に伝わっているのは、南方上座部のパーリ語のアビダルマと、漢訳された説一切有部のもののみである。論書のうち、古いものは紀元前 2世紀の成立とみなされる。

 

アビダルマとは、「ブッダの教え(ダルマ)に対する(アビ)考究」である。アビダルマの論師たちは、ブッダによって教え説かれたダルマを吟味弁別することが煩悩を鎮める唯一の方法であると考えた。

 

彼らは、教理の体系化を進めて、須弥山説といわれる巨大な宇宙観を含む壮大な教理体系を築き上げた。時期を同じくする頃、婆羅門思想ではサーンキヤやヴァイシェーシカの宇宙観が成立している。当時のインドの思想界には、宇宙の成立ちに対する強い関心があった。アビダルマ哲学の成立も、この傾向と密接にかかわる。

 

2. 説一切有部

 諸部派のうち、特に有力であったのは説一切有部である。

 

この部派は、カニシカ王(c.132-152年在位)の庇護を受けて栄え、多くのアビダルマ文献が生み出された。その代表は『阿毘達磨大毘婆沙論』(あびだつまだいびばしゃろん)で、多岐にわたる内容を包含しており、さながら古代インドの大百科全書である。

 

アビダルマ文献のうち最も有名なものは、ヴァスバンドゥ(世親、45世紀頃)の『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)である。これは、大部な『婆舎論』の内容を時には批判を交えて巧みに要約したもので、仏教教理の基礎をなすものとみなされ、中国、日本において尊重された。


3. 説一切有部の教理

「説一切有部」とは、この世界を成り立たせている一切のダルマが過去・現在・未来の三世にわたって実在するとするところからついた学派名である。諸行無常と矛盾するようであるが、彼らはむしろ実在するダルマがなければ、諸行無常は成り立たないと考えた。

 

諸々のダルマは、集まって現象してくる。それは現在の一瞬間にのみ存在し、消滅する(刹那滅)。しかし、それぞれのダルマそのものは、未来から現在をへて過去に至って常に存在し続ける(三世実有・法体恒有)と考えるのである。

 

ところで、ダルマとは何か。ダルマ(法)は、多義的な語であるが、仏教ではまず「ブッダの教え」(仏法)を意味する。アビダルマ論師たちは「ブッダの教え」の体系化を目指したが、主たる関心は世界の全体的な理解にあった。彼らにとって、世界の成立ちは「ブッダの教え」、すなわちダルマによって説明され理解される。したがって、ダルマは「世界を説明する原理」である。言い換えれば、世界はダルマから成り立っているものとして理解される。ここから、ダルマは「世界を成り立たせる原理」とみなされる。

 

 原始仏典には、世界の成立ちを説明する教えとして五蘊・十二処・十八界というダルマの枠組があった。

 

十二処」とは六つの認識器官「眼・耳・鼻・舌・皮膚・心(眼耳鼻舌身意)」と、それらに対応する六つの対象「色形・音声・匂い・味・感触・考えられるもの(色聲香味触法)」によって世界の成立ちを説明するものである。

 

十八界」は、これに六つの認識「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」を加えたものである。

 

説一切有部は、この十二処・十八界説を基本として理論的な整合性を追求し、体系を再構成した。そして完成されたのが「五位七十五法」という七十五のダルマを五類に分ける体系である。これによって物質的、精神的な世界のすべてが説明された。

 

五類とは、「物質(色)・心(心)・心作用(心所)・物質でも心でもない関係、属性、能力など(心不相応行)・空間や涅槃など形成されることなく存在するもの(無為)」である。

 

 第五の「無為(むい)」に対し、前の四つのダルマは「有為(うい)」で形成されるものである。物質には十一、心は一、心作用には四十六、物質でも心でもないものには十四、形成されないものには三のダルマが立てられる。物質は原子論によって説明される。

2021/03/20

ソドムとゴモラ(ヘブライ神話11)

ソドム(ヘブライ語:סדום、英語:Sodom)とゴモラעמורהGomorrah)は、旧約聖書の『創世記』19章に登場する都市。天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされ、後代の預言者たちが言及している部分では、例外なくヤハウェの裁きによる滅びの象徴として用いられている。また、悪徳や頽廃の代名詞としても知られる。

 

ソドムの罪(ホモ・セクシャルときにソドミー)については、古来、『創世記』19章前半、特に198節のロトの提案内容から推察して、甚だしい性の乱れが最大の原因であったとする見解が一般的である[要出典]。他に『エゼキエル書』[3]1649-50節において、次のように書かれる。

「お前の妹ソドムの罪は、これである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである 」。

 

さらに1653節から55節では、いずれソドムとその娘たちを復帰させることを、神が示唆している。

 

「わたしは、捕らわれた彼女たちを帰らせる。すなわち、捕らわれたソドムとその娘たち、捕らわれたサマリアとその娘たち、および彼女たちと共に捕らわれたお前たちを帰らせる。 お前は、自分の不名誉を負わねばならない。また、お前が彼女たちを慰める結果となったすべての行いのゆえに、不名誉を負わねばならない。 お前の妹であるソドムと、その娘たちは元の姿に帰り、サマリアとその娘たちも元の姿に帰り、また、お前と娘たちも元の姿に帰るであろう」。

 

一方、旧約時代からの伝承を受け継いで編纂された新約聖書においても、「ユダの手紙」において

「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく淫らな行いに耽り、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています 」との記載があり、ソドムやゴモラが「不自然な肉の欲」によって罰されたことを古代のユダヤ地方が伝承していたことが確認できる。

 

クルアーンにも町の名前は出てこないものの、ほぼ同じ物語が述べられており、預言者ルート(ロト)に従わなかったために、彼に従ったわずかな仲間を除き滅ぼされた。その際、神に滅ぼされた他の民(ノアの洪水で滅んだ民や、アード族やサムード族とは異なり、ルートの民(すなわちソドムの住民)は、偶像や他の神を崇拝する罪ではなく、男色などの風俗の乱れの罪により滅ぼされた[要出典]。なお創世記19章と士師記19章には、多くの共通点のあることが指摘されている。

 

地理

シディムの谷

ソドムとゴモラの廃墟は、死海南部の湖底に沈んだと伝えられる。これは、「シディムの谷(ヘブライ語: עמק השדים 英語: Vale of Siddim)」と、シディムの谷の至る所にある「アスファルト」の穴に関する『創世記』の描写と、死海南部の状況が似通っていることなどから一般にもそう信じられているが、その一方で、死海南岸付近に点在する遺跡と結びつけようとする研究者も存在する。

 

バブ・エ・ドゥラーとヌメイラ

ソドムを死海南東部に位置する前期青銅器時代(紀元前3150-2200年)の都市遺跡バブ・エ・ドゥラー(Bab edh-Dhra)、ゴモラをこの遺跡に隣接する同時代の都市遺跡ヌメイラ(Numeira)と考える研究者もいる。いずれも現代のヨルダン・ハシミテ王国、カラク県に位置する。

なお、この都市遺跡の近隣には、天から降る硫黄と火からロトが逃げ込んだとされるロトの洞窟の遺跡(アラビア語: دير عين 'أباطة UNGEGN: Deir 'Ain 'Abata デイル・アイン・アバタ)がある。ビザンティン(東ローマ)時代に、ロトの洞窟の伝説地の上に教会が建てられたが、この教会の遺跡が現在残されている。教会の左手には、ロトが逃げ込んだとされる洞窟が実在する。

 

モアブとアンモン

創世記によると、この洞窟でロトと二人の娘の間に生まれた男の子二人が、それぞれモアブとアンモンの民族の祖先となったとされるが、ロトの洞窟を含む前述の遺跡すべてが、かつてモアブと呼ばれた地、現代のカラク県(ヨルダン王国)にあることは、ソドムとゴモラ、ロト、そしてモアブの伝承を考える上で興味深い。上記の考古遺跡から出土した考古資料は、現在ヨルダンのカラク考古博物館(カラク城内)やアンマン国立考古博物館で見ることができる。

 

セドム

イスラエル南部の干拓地に、セドムと表記される都市がある。

 

ソドムのための執り成し

創世記18章後半部(16節から33節)で、ロトのおじであるアブラハムが、ソドムとゴモラに関して事前にヤハウェと問答している。ヤハウェは、ソドムとゴモラの罪が重いという機運が高まっているとして、それを確かめるために降(くだ)ることをアブラハムに告げた。アブラハムは、それに応じて正しい者が50人いるかもしれないのに滅ぼすとは全くありえない、と進み出て言った。それに対しヤハウェは、正しい者が50人いたら赦(ゆる)すと言った。

そこでアブラハムは「塵芥(ちりあくた)に過ぎない私ですが」と切り出し、正しい者が45人しかいないかもしれない、もしかしたら40人しかいない、30人、20人と、正しい者が少なくても赦すようにヤハウェと交渉をした。最終的に、「正しい者が10人いたら」というヤハウェの言質を取り付けたが、19章でヤハウェは結局、ソドムとゴモラを滅ぼした。

 

創世記19章前半部「ソドムの滅亡」主な内容

ヤハウェの使い(天使)二人がソドムにあるロトの家へ訪れ、ロトは使いたちをもてなした。やがてソドムの男たちがロトの家を囲み、「なぶりものにしてやるから」と言って使いたちを出すよう騒いだ。ロトは二人の使いたちを守るべく、代わりに自分の二人の処女の娘達を差し出そうとした。使いたちは、ヤハウェの使いとして町を滅ぼしに来たことをロトに明かし、狼狽するロトに妻と娘とともに逃げるよう促し、町外れへ連れ出した。

ロトがツォアル(ヘブライ語: צוער 英語: Zoara)という町に避難すると、ヤハウェはソドムとゴモラを滅ぼした。ロトの妻(ヘブライ語: אשת לוט)は禁を犯して後ろを振り向き、塩の柱(ヘブライ語: נציב מלח ネツィヴ・メラー)に変えられた。ヤハウェはアブラハムに配慮して、ロトを救い出した。

 

科学的な調査

ニネベの遺跡で見つかったシュメール人の古代の天文学者が粘土板に残した円形の星座板には、ふたご座・木星などの惑星と、アピンと名づけられた正体不明の矢印が書きこまれており、この天体配置があった日の明け方の530分ころに、4分半かけてアピンは地上に落下したという記述が残されている。

 

アランボンド教授の解析により、この天文事象は、惑星の配置が粘土板の星座盤の位置と一致したことから、紀元前3123629日であったと特定され、アピンの記述は典型的なアテン群小惑星の落下の記録であると結論付けた。衝突予想地点にはクレーターはなく、この小惑星はアルプス上空で空中爆発したであろうと推定されている。

 

アランボンド教授はこの日、直径1.25キロほどの小惑星がアルプス上空のコフェルス(エッツタールの一部(de)で空中爆発し、破片が軌道を逆戻りする形で地中海一帯に帯状にばら撒かれたであろうと説明し、これはソドムとゴモラの事象のことであろうという説を述べている。さらに南アルプスの氷床コアの調査によって、紀元前3100年ころに急激な気温の低下があったという傍証的データが示されている。

 

またケレンサ・グリッグソンによると、死海に沿った平原の5か所の灰白色の町のすぐそばのエリアにおいて、ゴルフボールサイズの硫黄の玉が発見されている。これまでの20年間多くの標本が採取され、世界中の研究所に送られている。ニュージーランドのグレイスフィールドでのスペクトラケム解析において解析されたある試料は、硫黄含有量が98.4%であることが明らかになった。この純度の硫黄含有量は、この平原の5つの町以外には世界中のどこにも見られないと報告されている。創世記19:24には、

「主は硫黄と火とを主の所、すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて」

と書かれており、この硫黄の試料の量と純度の観測に基づき、その場所がソドムとゴモラであると結論付けている科学者もいる。

出典Wikipedia

2021/03/15

卑弥呼(2)

呼び名

『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝では「卑彌呼」、『三国史記』新羅本紀では「卑彌乎」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。

 

一説には、中華思想により、他国の地名、人名には蔑字を使っている為に、この様な表記となっている。

 

また、他の一説には古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として、先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。

 

現代日本語では、一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明である。

 

ひみこ(日巫女、日御子) - 日巫女」は太陽に仕える巫女の意。「日御子」は太陽神の御子の意。

ひめこ(日女子、姫子) - 駒澤大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。

ひめこ(比咩子、比売子) - 古事記における音読み表現。

ひめみこ(日女御子、姫御子)

ひみか・ひむか(日向) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。

ひみか・ひむか(日向) - 原田大六、古田武彦が唱えた、糸島の平原遺跡と福岡の奴の国を結ぶ日向峠に由来するとの説。

ひみか(日甕) - 古田武彦が唱えた、筑後風土記に登場する女性・甕依姫に該当するという説。聖なる甕という意。

ぴやこ、みやこ(宮居) - 1937年に藤井尚治が「国史異論奇説新学説考」の中で唱えた説。中国の学者が、「宮居」を人名と誤解したとし、卑弥弓呼は「ミヤツコ(宮仕)」に、卑狗が「ミコ(皇子)」になるとする。

ひむか・ぴむか - 長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語 ―弥生語復元―』学生社 2010年。3世紀の洛陽音の復元による。

など諸説あるが、その多くが太陽信仰との関連した名前であるとする。

 

一方、中国語発音を考慮する(呼にコという発音はない)と、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。

 

現代中国語でのピンインでの表記

卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1

(俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1

掖邪狗:Yè xié gǒu / Ye4 xie2 gou3

帥升:Shuài shēng / Shuai4 sheng1

難升米:Nán shēng mǐ / Nan2 sheng1 mi3

伊聲耆:Yī shēng qí / Yi1 sheng1 qi2[14]

現時点で卑弥呼の発音に関して日本側の古事記表記の比咩后(Bǐ miē hòu)、比売后〈Bǐ mài hòu〉以外には類似する名称は存在しない。 ただし、弥生時代の日本語の発音、および当時の中国語の音写の法則については、説が確立していないとする説も存在する。

 

卑弥呼の死

魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し、以下の様に記述されている。

 

倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人

「倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは、平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して、狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹掾史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ)に授け、檄文を作って諭した。卑弥呼が死んだので、大いに冢を作った、径は100余歩である、殉葬された奴婢は100余人である。」

 

この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが、狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から246年ごろに起きた可能性が高い。

 

「以死」について

「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告諭之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り、檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている卑弥弓呼との不和、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。そのため、狗奴国の男子王の卑弥弓呼に卑弥呼は殺されたと考える説もある。

 

卑弥呼の死と皆既日食について

天文学者の斎藤国治は、24895日朝(日本時間。世界時では94日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。さらに、橘高章と安本美典は、247324日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で魔力が衰えたと卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。

 

しかし、現在の正確な計算によると、皆既日食は日本付近において247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。

出典 Wikipedia