2021/03/24

卑弥呼の墓 ~ 卑弥呼(3)

卑弥呼の墓がどこにあるのかについては、様々な説がある。

 

規模と形状

卑弥呼は、径百余歩の墓に葬られたとする。一歩の単位については、周代では約1.35メートル、秦・漢代では約1.38メートル、魏代では約1.44メートルと言われ(長里)、墓の径は約144メートルとなる。一方、倭人伝の旅程記事などから、倭韓地方では長里とは別の単位(短里)を使用していると考えられ、短里説の支持者は一歩を0.3メートル、墓の径は30メートル前後とする。尚、短里説「周髀算経・一寸千里法の一里(=約77m)」の支持者の中には、一歩については、「周尺」を基準とした尺貫法の一歩(約1.2m)を採用している者もいる(かつて帯方郡のあった朝鮮では、周の伝統が受け継がれていたと考える)。

 

」という表現から一応円墳とされるが、弥生時代の築造から楕円墳や方墳である可能性もある。なお、卑弥呼がヤマト王権の女王であるとする近畿説によって、前方後円墳をその冢と見る説もあるが、「径」の表記から異論が多い。

 

造成時期

卑弥呼の死んだ時期は西暦248年であり、一般に弥生時代の終末期、あるいは弥生時代から古墳時代への移行期とされる。近畿ヤマト王権の年代では、崇神天皇治世の少し前と考えられる。

 

埋葬の特徴

魏志では、殉葬者は「奴婢百餘人」と記述されており、卑弥呼の墓は古墳に埴輪が導入される以前だった考えられる。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。ただし森将軍塚古墳など墳丘に埴輪棺を埋葬した例が有り、殉葬の可能性も指摘されている。また主体部については「有棺無槨」とされており、槨の無い石棺・木棺または甕棺墓と考えられる。

 

主な比定古墳

邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では、徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓)や九州最大・最古級の石塚山古墳、福岡県久留米市の祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。

 

箸墓古墳

邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説があるが、箸墓古墳の後円部は約150メートルの巨大な前方後円墳であり、魏志倭人伝による規模と形状が異なる。築造年代は3世紀第3四半期頃であるとの説があるが、卑弥呼の死去が3世紀中期なので時期的に矛盾する。

 

ホケノ山古墳

また箸墓古墳と同代、もしくは先行して造営されたとされるホケノ山古墳は、有槨の木棺であることが倭人伝の記述と矛盾し、また発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため、年代特定を疑問視する意見もある。

 

石塚山古墳

九州にある石塚山古墳については、築造時期が3世紀中頃(古墳時代開始時期)〜4世紀初頭と一致するが、前方後円墳で長は120メートル〜130メートル前後と規模と形状が魏志倭人伝の記載と異なる(但し、周尺で換算した場合は百余歩は、120メートル前後となる)。ヤマト皇権の象徴である前方後円墳(国内でも最古級)で九州にある一方、吉備地方に起源をもつ特殊土器類(特殊器台・特殊壺)や埴輪は確認されていないという特徴を持つ。九州にありながら、130メートル超の出現期古墳は珍しい。墳頂周囲には、中型の丹塗りの複合口縁壺形土器、甕形土器などが祭祀用として樹立していたと推定されている。高坏型・甕形土器は極めて在地的と評価されている。周濠は確認されていない。竪穴式石室であり、副葬品(玉、鏡、剣など)がある。出土鏡はすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられており、他には素環頭大刀、銅鏃、細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片、鉄鏃なども出土している。

 

平原遺跡

平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。1号墓からは直径46.5センチメートル、円周が46.5×3.14 = 146.01センチメートル「大型内行花文鏡」が出土しているが、原田大六はヤマト王権の三種の神器の一つ「八咫鏡」と同じ大きさ・形状であることから、その起源であると主張している。咫(あた)は円周の単位で、約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていたので、八咫鏡は直径2尺(46センチメートル前後)の円鏡ということになる。『御鎮座伝記』では「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されており、大型内行花文鏡と一致する。ただし墳墓の規模は魏志倭人伝の記載より小さく、また周囲には多人数の殉葬の墳墓が見つかっていない。

 

祇園山古墳

祇園山古墳は築造時期が3世紀中期と考えられ、一辺が23メートル-24メートル、基台を含めれば更に大きな方墳で形状や規模が一致し、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に数十名分の集団墓があること(宝賀寿男は、これを殉葬墓と推定している)、周囲の甕棺から後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、などが魏志倭人伝の記載と良く一致する。しかし、石室の副葬品が盗掘のため殆どが失われており、わずかに高良大社に出土品と伝えられる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)があるのみである。

 

御所市玉手山説

卑弥呼を宇那比姫命とする説で、六代孝安天皇は宇那比姫命の義理の弟である。したがって『魏志倭人伝』が「男弟有て佐(たすけ)て国を治」とする男弟を孝安天皇とする。

 

孝安天皇の宮は、室秋津嶋宮(むろのあきつしまみや)とされる。伝承地は奈良県御所市室(ごせしむろ)で、ここが卑弥呼の王宮であるとする。この秋津嶋宮伝承地の北東約1㎞に、玉手山という山がある。ここは孝安天皇が葬られたとする山でもある。そこにお椀を伏せたような尾根があり、中心には墳丘が存在する。尾根は自然の尾根であるが、尾根全体を墓域とすれば、まさに径百余歩の円墳である。これを卑弥呼の墓とする説。

出典 Wikipedia

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