2018/11/06

変法 ~ 商鞅(1)

商鞅(しょうおう、紀元前390 - 紀元前338年)は、中国戦国時代の秦国の政治家・将軍・法家・兵家。

姓は姫、氏は公孫。名は鞅。また、衛の公族系のために衛鞅(えいおう)ともいう。なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられたため商君鞅という意味の尊称である。法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、性急な改革から自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも秦軍に攻められ戦死した。

仕官まで
彼は衛の公族出身で、魏の恵王(在位:紀元前370年〜紀元前335年)の宰相公叔痤の食客となり、中庶子に任ぜられる。

公叔痤は死去する際に、恵王に後継の宰相として公孫鞅を推挙した。しかし恵王はこれを受け入れず、公叔痤はこれを見て

「公孫鞅を用いることをお聞き入れくださらないならば、私はお前を殺すように進言した。お前は、すぐに逃げた方がよい」

と述べたが、公孫鞅は

「私を用いよというあなたの言葉を王が採用出来ないならば、王が私を殺せというあなたの言葉を採用するはずがありません」

と述べて、かえって逃亡しなかった。公孫鞅の考えどおり、恵王は公叔痤が耄碌してこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。

公孫鞅は魏を出て秦に入国し、宦官の景監を頼って秦の若き君主孝公に面会する事が出来た。公孫鞅は自分の弁舌が発揮するのはここぞとばかり、孝公に向かって熱弁した。最初に会った時は、まず最高の為政者である帝の道を説いた。しかし、孝公は退屈そうにして、途中で居眠りしてしまった。次に会った時は、一つ程度を下げて王の道を説いた。しかし、この時の孝公の反応は変わらず、三度目に会った時にさらに程度を下げて覇者の道を説いた。そうすると孝公は熱心に聞き入り、無意識の内に公孫鞅ににじり寄るほどに、この話を気に入った。

孝公の信任を受けた公孫鞅は国法を変えようとしたが、孝公は批判を恐れて躊躇した。これに対して、公孫鞅は「疑行は名なく、疑事は功なし」と述べて孝公を励ました。「」は確信を欠いたあやふやな気持ちをいう。なにごとであれ、やるからには自信を持って断行しなくてはいけない。あやふやな気持ちでやったのでは、成功もおぼつかなければ名誉も得られないという意味。この言葉は、後世にて故事成語となった。しかし、なお甘竜(かんりゅう、かんりょう)・杜摯(とし)といった者たちが

「法は慣習となり人民も役人も馴染んでおり、法を変えずとも臣民を従わせるのは徳によってなされるべきです。道具は利が十倍なければ変えぬもの。法ともなれば百倍なければ」

と旧制を変えるべきではないと述べたが、公孫鞅はこれを

「夏、殷、周はいずれも異なる法で王となり、五覇の法も異なります。古来より賢者が法を定め、愚者はただそれに従うものです。国に利無くば、慣習に従う必要はありません。殷の湯王、周の武王は慣習に従わず王者となり、夏の桀王、殷の紂王は変えず滅びました。法とは慣習に従うから良い、反するから悪いとするものではありません」

と論破し、孝公も公孫鞅の言を善しとした。

第一次変法
紀元前356年、孝公は公孫鞅を左庶長に任じ、変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行する。これは「第一次変法」と呼ばれる。主な内容は、以下の通り。

・戸籍を設け、民衆を五戸(伍)、または十戸(什)で一組に分ける。この中で互いに監視、告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて、訴え出ない場合は什伍全てが連座して罰せられる。逆に訴え出た場合は、戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。
・一つの家に、二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。
・戦争での功績には、爵位を以て報いる。私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。
・男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。
・商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。
・遠縁の宗室や貴族といえども、戦功のない者はその爵位を降下する。
・法令を社会規範の要点とする。

まず、民衆に法をしっかりと執行することを信用させるために、三丈もの長さの木を都である雍の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告した。しかし民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。そこで、賞金を五十金にした。すると、ある人物が木を北門に移したので、公孫鞅は布告通りにこの人物に五十金を与えた。こういったことで、まずは変法への信頼を得ることができた。

しかし最初は新法も成果が上がらず、民衆からも不満の声が揚がったが、公孫鞅は意に介さなかった。公孫鞅は、法がきちんと守られていないと考えた。考公13(349)、太子の嬴駟(えいし)(後の恵文王)の傅(後見役)である公子虔(中国語版)が法を破ったので、これを処罰する事を孝公に願い出た。公子虔を鼻削ぎの刑に処し、また教育係の公孫賈を額への黥刑に処し、さらにもう一人の太子侍従の祝懽を死刑に処した。このため、公子虔・公孫賈の両人は恥じて外出しなくなり、公孫鞅を憎悪したという。この後は、全ての人が法を守った。

そうすると法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。初め不満を漏らしていた民衆たちも、手のひらを返したように賞賛の声を揚げたが、公孫鞅は「世を乱す輩」として容赦なく辺境の地へ流した。これにより、法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収める。

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