2018/11/20

縁起(釈迦の思想9)

部派仏教
部派仏教の時代になり、部派ごとにそれぞれのアビダルマ(論書)が書かれるようになるに伴い、釈迦が説いたとされる「十二支縁起」に対して、様々な解釈が考えられ、付与されていくようになった。それらは概ね、衆生(有情、生物)の業(カルマ)を因とする「惑縁(煩悩)・業因→苦果」すなわち惑業苦(わくごうく)の因果関係と絡めて説かれるので、総じて業感縁起(ごうかんえんぎ)と呼ばれる。

有力部派であった説一切有部においては「十二支縁起」に対して、『識身足論』で「同時的な系列」と見なす解釈と共に「時間的継起関係」と見なす解釈も表れ始め、『発智論』では十二支を「過去・現在・未来」に分割して割り振ることで輪廻のありようを示そうとするといった(後述する「三世両重(の)因果」の原型となる)解釈も示されるようになるなど、徐々に様々な解釈が醸成されていった。

そして、『婆沙論』(及び『倶舎論』『順正理論』等)では、

刹那縁起(せつなえんぎ)--- 刹那(瞬間)に十二支全てが備わる
連縛縁起(れんばくえんぎ)--- 十二支が順に連続して、無媒介に因果を成していく
分位縁起(ぶんいえんぎ)--- 五蘊のその時々の位相が、十二支として表される
遠続縁起(えんばくえんぎ)--- 遠い時間を隔てての因果の成立

といった4種の解釈が示されるようになったが、結局3つ目の分位縁起(ぶんいえんぎ)が他の解釈を駆逐するに至った。

説一切有部では、この分位縁起に立脚しつつ、十二支を過去・現在・未来の3つ(正確には、過去因・現在果・現在因・未来果の4)に割り振って対応させ、過去→現在(過去因→現在果)と現在→未来(現在因→未来果)という2つの因果が、過去・現在・未来の3世に渡って対応的に2重(両重)になって存在しているとする、輪廻のありようを説く胎生学的な「三世両重(の)因果」が唱えられた。

(なお、この説一切有部の三世両重(の)因果と類似した考え方は、現存する唯一の部派仏教である南伝の上座部仏教、すなわちスリランカ仏教大寺派においても、同様に共有・継承されていることが知られている。)

これはつまり「前世の無明・行によって今生の自分の身体・感覚・認識(すなわち総体としての存在)が生じ、今生の愛着・執着によって再び来世へと生まれ変わっていく」という輪廻の連鎖を表現している。こうした輪廻を絡めた解釈・説明は、各種の経典で言及されている四向四果の説明(すなわち、一度だけ欲界に生まれ変わる一来果、二度と欲界に生まれ変わらない不還果、涅槃への到達を待つだけの阿羅漢果といった修行位階の説明)や、『ジャータカ』のような釈迦の輪廻譚など、釈迦の初期仏教以来、仏教教団が教義説明の前提としてきた輪廻観とも相性がいいものだった。

また、説一切有部では、こうした衆生(有情、生物)のありように限定された業感縁起だけではなく『品類足論』に始まる「一切有為」(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)のありようを表すもの、すなわち「一切有為法」としての縁起の考え方も存在し、一定の力を持っていた(参考:五位七十五法)。

一般的に因縁生起(いんねんしょうき)の有為法として説明される縁起説も、その一形態である。これは、ある結果が生じる時には、直接の原因(近因)だけではなく、直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な間接的な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。

なお、その時の原因に関しては、数々の原因の中でも直接的に作用していると考えられる原因のみを「」と考え、それ以外の原因は「」と考えるのが一般的である。

大乗仏教
大乗仏教においても、部派仏教で唱えられた様々な縁起説が批判的に継承されながら、様々な縁起説が成立した。

ナーガールジュナ(龍樹)は『般若経』に影響を受けつつ、『中論』等で、説一切有部などの法有(五位七十五法)説に批判を加える形で、有為(現象、被造物)も無為(非被造物、常住実体)もひっくるめた、徹底した相依性(そうえしょう、相互依存性)としての縁起、いわゆる相依性縁起(そうえしょうえんぎ)を説き、中観派、及び大乗仏教全般に多大な影響を与えた。(特に、『華厳経』で説かれ、中国の華厳宗で発達した「一即一切、一切即一」の相即相入を唱える法界縁起(ほっかいえんぎ)との近似性・連関性は、度々指摘される。)

大乗仏教では、概ねこうした有為(現象、被造物)も無為(非被造物、常住実体)もひっくるめた、壮大かつ徹底的な縁起観を念頭に置いた縁起説が醸成されていくことになるが、こうした縁起観やそれによって得られる無分別の境地、そして、それと対照を成す分別等に関しては、いずれもそうした認識の出発点としての心・識なるものが、隣り合わせの一体的な問題・関心事としてついてまわることになるので、(上記の部派仏教(説一切有部)的な「業感縁起」等とは、また違った形で)そうした心・識的なものや、衆生のありようとの関連で、縁起説が唱えられる面がある。(大乗仏教中期から特に顕著になってくる、仏性・如来蔵の思想や唯識なども、こうした縁起観と関連している。)

主なものとしては、

唯心縁起(ゆいしんえんぎ)--- 『華厳経』十地品で説かれる、三界(欲界・色界・無色界)の縁起を一心(唯心)の顕現として唱える説(三界一心、三界唯心)。
頼耶縁起(らやえんぎ)--- 『解深密経』で説かれる、阿頼耶識(あらやしき)からの縁起を唱える説。
真如縁起(しんにょえんぎ)
「如来蔵縁起」(にょらいぞうえんぎ)---一切有為(現象(被造物)全般、万物、森羅万象)は、真如(仏性・如来蔵)からの縁によって生起するという説。馬鳴の名に擬して書かれた著名な中国撰述論書である『大乗起信論』に説かれていることでも知られる。

などがある。

また、 真言宗・修験道などでは、インドの六大説に則り、万物の本体であり、大日如来の象徴でもある、地・水・火・風・空・識の「六大」によって縁起を説く六大縁起(ろくだいえんぎ)などもある。

機縁説起
縁起は機縁説起として、衆生の機縁に応じて説を起こすと解釈されることもある。
たとえば華厳教学で縁起因分という。これは、悟りは言語や思惟を超えて不可説のものであるが、衆生の機縁に応じるため、この説けない悟りを説き起こすことをさす。

0 件のコメント:

コメントを投稿