2018/11/07

没落 ~ 商鞅(2)

第二次変法
紀元前354年、河西の役
紀元前353年の桂陵の戦いで魏が斉に大敗すると、紀元前352年には変法で蓄えられた力を使い、秦は魏に侵攻し城市を奪った(安邑、固陽の役)。同年、この功績で公孫鞅は大良造に任命された。

紀元前350年、秦は雍から咸陽へ遷都した。
この年に公孫鞅はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。今回の主な内容は、以下の通り。

・父子兄弟が、一つの家に住むことを禁じる。
・全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。
・井田を廃し田地の区画整理を行う。
・度量衡の統一。

秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見ると、これは野蛮な風習とされていた。一番目の法は野蛮な風習を改めると共に、第一次変法で分家を推奨したのと同じく戸数を増やし、旧地に留まりづらくして未開地を開拓するよう促す意味があったと思われる。二度の変法によって、秦はますます強大になった。

紀元前341年の馬陵の戦いで斉の孫臏によって魏の龐涓が敗死すると、紀元前340年には魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した(呉城の役)。また、かつて親友であった魏の総大将である公子卬を欺いて招き、これを捕虜にして魏軍を打ち破り黄河以西の土地を奪った。危険を感じた魏は、首都を安邑(現在の山西省夏県)から東の大梁(現在の開封市)に遷都し、恵王は

「あの時の公叔痤の言葉に従わなかったために、このような事になってしまった・・・」

と大いに悔やんだという。

この功績により、公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる。

没落
比類なき功績で得意の絶頂であった商鞅だが、強引に変法を断行した事により、太子の傅を初めとして商鞅を恨む人間を大量に作っていた。彼らの多くは旧来の貴族であり、変法によって君主の独裁権が確立されると彼らの権限が削られていくので、商鞅を恨んでいた。商鞅の腹心であった趙良は、主人の身を案じて

「あなた様は今すぐ宰相を辞し、他国に赴くことをお勧めします」

と厳重に忠告した。だが商鞅は

「趙良よ、私の身を案じるのは有難いが、私はまだまだやることがたくさんあるのだ」

とこれを退けたという。これを聞いた趙良は、禍を恐れて他国に逃亡したという。

紀元前338年、孝公が死去し太子駟が即位し、恵文王(この時点では恵文君)となった。この時に、かねてより商鞅に恨みを持つ新王の後見役の公子虔・公孫賈ら反商鞅派は讒訴し、商鞅を謀反の罪を着せようとした。恵文王も、太子時代に自分を罰しようとした商鞅に恨みを持っていたので、危機を悟った商鞅は慌てて都から逃亡し、途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず

「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方は、お泊めてしてはいけない法律という事になっております」

とあっさり断られた。

商鞅は

「法を為すの弊、一にここに至るか」(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは…)

と長嘆息し、いったん魏に逃げるが、公子卬を騙した事を忘れていない魏は、軍を発し即座に国内から追放した。仕方なく商鞅は封地の商で兵を集めたが、秦の討伐軍に攻められて戦死した。恵文王の厳命で、その遺骸は黽池(べんち、現在の河南省澠池県)で見せしめとして車裂の刑に処せられ、身体は引き裂かれて曝しものとなった。

影響
秦は、それまでは内陸奥地の起源を持ち、中国中央とはやや異なった風習でもあり、野蛮国と見なされてきた。しかし彼によって、そういった面は改革され、さらに魏に勝ったことで強国として一目置かれることとなった。

また、恵文王以降の秦の歴代君主は、商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した。商鞅より半世紀前、楚の呉起も商鞅のように厳しい法を残したが、そちらは呉起の死後に廃止されている。このため、王と法の元にひとまとまりとなった秦は、門閥の影響が強く纏まっていなかった楚などを着実に破っていく。最終的に秦が戦国時代を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。商鞅の言の通り「旧習に従わず王者となり、変えなかったものは滅んだ」のである。

現代では、政治家および法律学者(法家)としての評価が高いが、戦国時代には稀代の将軍・軍事思想家(兵家)としても敬服されていた。『荀子』「議兵篇」において、荀子は、戦国時代の名将として商鞅(原文では衛鞅)を田単ら他二人と共に上げている(ただし、荀子自身は商鞅等四人を小手先の兵法に通じた者として批判し、春秋時代の覇者や、古代の王者よりは下としている)。商鞅の軍事思想を記録したものとして『漢書』「芸文志」は『公孫鞅』二十七篇を記載しているが、後に散逸した。

なお、伝説的ではあるが、蘇秦はその弁舌を生かす活動を始めた際、まず周を訪れたが相手にされず、次に秦を訪れた。彼は恵王に「軍事教練を強化すれば、帝と称することが出来るようになる」と説いたという。しかし王は、これを拒否した。その理由の一つが商鞅を処刑した後であり、弁舌の士を嫌ったのだという。蘇秦は、その後合従の連盟を作ることに成功し、そのために秦は15年にわたって国外に出られなかった。
出典 Wikipedia

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