口語訳:倭建命は「この山の神は、素手で退治してやろう」と言い、山に登って行くと、白い猪がいた。大きさは牛ほどもある。そこで言挙げして
「この白い猪の姿をしているのは、きっと山の神の使いだろう。今殺さなくても、帰り道で殺してやろう」
と言ってさらに登って行った。ところが急に激しい氷雨が降ってきて、倭建命は惑わされ、進めなくなってしまった。<実はこの白猪の姿をしたものは、山の神の使者でなく、その神自身だった。それを言挙げしたため、惑わされることになったのだ。>仕方なく引き返したが、玉倉部の清水があって、そこで一休みしたところ、やや元気を取り戻した。それでその和泉を居寤の清泉と言う。
茲山(このやま)とは伊服伎山を言う。この山は近江の国と美濃の国の境にあり、【西は近江の坂田郡、東は美濃の不破郡、池田郡である。】延喜式神名帳に「近江国坂田郡、伊夫伎(いぶき)神社」、「美濃国不破郡、伊富岐(いぶき)神社」がある。【今、坂田郡にも不破郡にも伊吹(いぶき)村がある。】
三代実録卅三に「詔して、近江国坂田郡、伊吹山護国寺を定額に列する。沙門三修の言うところでは、『・・・この山は七高山の一つです。云々』」、【藤原武智麻呂公の伝というものがあり、「異動によって近江守になった。・・・そこで土地を調べて坂田郡に入った。目を山川に止めて、『私は伊福(いぶき)山の頂に立って全体を眺めたい』と言った。ところが国人は
『この山に入ると疾風・雷雨が起こり、霧に閉ざされ、沢山の蜂に襲われます。昔、倭武の皇子も東方の荒ぶる神たちをことごとく退治した後、ここに到って何の用意もなく登ったところ、途中で山の神に害せられ、その身は白鳥になって空に飛び去ったといいます』
と止めた。
公は・・・五、六人を引き連れて、籠に乗って登ったところ、頂上に近づいた頃、突然あらゆるところから蜂が湧き出て刺そうとした。公は袂を挙げてこれを払いのけ、伴の者達の言うままに引き返した。従者たちは『きっと公の徳に神が感じて、大きな被害もなく済んだのでしょう』と言った。それから終日何事もなかったかのように遊び、周辺を歩き回って眺めたが、風雨もなく、天気は晴れ渡っていた。これは公の勢威によるのである」と言っている。これは僧侶が書いた書物だから、信用できないことが多い。
源平盛衰記で、宝剣の由来を書いたところに
「素戔嗚尊は、すぐに天照大神に奉った。大神はたいへん喜んで
『私が天の岩戸に閉じこもった時、近江国の膽吹(いぶき)の嶽(たけ)に落ちた剣だろう』
と言った。その大蛇というのは、膽吹大明神の法躰(ほったい)である。云々」と言う。
ところで「伊服伎(いぶき)」という名の由来は、山の神が毒気を吹くからだと、谷川氏が言った。そういうことなのだろう。万葉には、この山の歌がない。「六帖などで『さしも草』を詠んでいる伊吹山は下野の国の山である」と顯昭の袖中抄に述べられ、契沖も清少納言の枕草子に
「まことや下野へ下ると云ける人に、『思ひだにかゝらぬ山のさせも草、たれかいふきのさとは告しぞ』」
ともあるから、下野の国だということは決定的だと言っている。】
曾禰好忠の歌に「冬深く野はなりにけり近江なる、伊吹のとやま雪ふりぬらし」とある。【続古今集(647)に入っている。】
口語訳:そこから出発して、當藝野のあたりに到った時
「私の心は、これまでは大空を翔り行くように思っていた。だが今、私の足は前へ進まない。當藝斯(たぎし)のような形になってしまった」
と言った。それでそこを當藝と言う。
そこからやや進んだが、たいへん疲れを覚えたので、杖を突いて少しずつ歩いた。それでそこを杖衝坂と言う。尾津の前の一つ松のところに到った。以前ここで食事したことがあり、そこに刀を忘れたことがある。それが失くならずに、まだ残っていた。
そこで歌って
「尾張に、直に向き合っている尾津の前の一つ松よ。あせを。一つ松が人ならば、刀を佩かせてやるのに、着物を着せてやるのに。一つ松、あせを」
そこからさらに進んで三重村に到った時、また「私の足は三重に曲がって、ひどく疲れた」と言った。それでそこを三重と言う。
0 件のコメント:
コメントを投稿