2021/02/19

ストア派の倫理学・徳論 ~ ストア派(3)

古代のストア派は、今日とは意味の異なる用語を使っていたために、しばしば誤解される。「ストイック」という言葉は「非感情的」あるいは苦痛に無関心だという意味を持つようになった、というのはストア倫理学では「理性」に従うことによって「情動」から解放されることを説いたからである。ストア派は、感情を消し去ることを追求したのではなかった。むしろ彼らは、明確な判断と内的な静寂をもたらしてくれるような断固たるアスケーシスによって、感情を変質させようとしたのである。論理、内省、専心が、そういった自己修養の方法とされた。

 

キュニコス学派の影響を受けているストア倫理学の基本は、善は魂自体の内部に存するということであった。知恵と自制心。ストア倫理学は、規律を強調する。

 

「理性の導くところに従え」

そのため、ある者は情動から逃れようと努力し、古代における「情動」の意味は「苦悶」あるいは「苦痛」、すなわち、外的な出来事に「受動的に」反応することだと心に留めた現代の用法とは、幾分か異なる。「情動」つまり本能的な反応(例えば肉体的な危険に晒された時に顔が青ざめ、身震いすること)と通常訳される「パトス」と、ストア派の知者(ソポス)の表徴である「エウパトス」とが区別された。情動が間違った判断から生まれるのと同様、正しい判断から生まれてくる感じが「エウパテイア」である。

 

その思想は、アパテイア(希: πάθεια、心の平安)によって苦痛から解放されるというもので、ここでは心の平安は古代的な意味で理解される。客観的であり、人生の病める時も健やかなる時も、平静と明確な判断とを保つ事。

 

ストア派では「理性」は論理を用いることだけではなく、自然-ロゴス、普遍的理性、万物に内在するもの、の過程を理解することをも意味した。彼らの考えるところによれば、理性と徳による生とは、万人の本質的な価値と普遍的な理性を認識し、世界の神的秩序と一致して生きることである。ストア哲学の四枢要徳は

 

「知恵」(ソピア)

「勇気」(アンドレイア)

「正義」(ディカイオシュネー)

「節制」(ソープロシュネー)

 

であるが、これはプラトンの教えに由来する分類である。

 

ソクラテスに従って、ストア派では、自然の中の理性に人間が無知であることから、不幸や悪は生じるとされた。誰か不親切な人がいるなら、それはその人が親切さへと導く普遍的な理性に気付いていないからである。そこで、悪や不幸を解決するにはストア哲学、自分自身の判断や行動を観察し、どこで自然の普遍的理性に背くかを決定することを実践すべきだとされた。

 

自己の命をあっさりと扱うが、人間それぞれの究極的、最終的な自由意志を全面的に尊重しているが、決して他者に対しての殺人は肯定しない。ただし、当時の他の哲学と同様に、敵に対して勇猛に戦うことは善とされた。(当時の世相を反映し解釈すれば至って当然)このような考え方は「魂は神から借りているだけ」という言葉に端的に表されている。(人は最終的に、神からの分け御霊であるということを主張)

 

高潔な生活を送れないような状況下で賢者が自殺することを許すことが、ストア派では認められた。悪政の下で生きることは、ストア主義者としてマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスのいう自己一貫性(コンスタンティア)に悖り、名誉ある倫理的選択を行う自由を傷つけるとプルタルコスは考えた。深刻な苦痛や病を受けた時には自殺は正当化されうるが、さもなければ大抵の場合自殺は社会的義務の放棄とみなされた。

 

「善悪無記」の理論

ここでいう「無記」とは道徳律の適用外にあるもの、すなわち倫理的目的を促進も妨害もしないものをいう。道徳律によって、要請されも禁じられもしない行動、言い換えれば道徳性を持たない行動が道徳的に無記であると言われる。無記(希: διάφορα、アディアポラ)の理論はストア派において、その対立物たる善と悪(καθήκοντα カテーコンタとμαρτήματα ハマルテーマタ、それぞれ「手近な行動」つまり自然と一致した行動、と失敗)の必然的結果として生まれた。この二分法の結果として、多くの物事が善にも悪にも振り分けられず無記とみなされた。

 

結果的に「無記」の中に、さらに三つの下位分類が発達した。

自然に一致した生を支援するので好まれるべきもの

自然に一致した生を妨害するので避けられるべきもの

そして狭い意味で無記なもの

 

「アディアポラ」の理論は、キュニコス学派および懐疑主義とも共通であった。カントによれば、無記なるものの概念は倫理の範囲外である。無記なるものの理論は、ルネサンス期にフィリップ・メランヒトンによって復活させられた。

 

アディアポラの観点からすれば、究極的には世俗的善悪も人間の判断が生み出した幻想に過ぎない。アディアポラの思想に立てば、命は善ではなく「望ましいもの(プロエーグメノン)」でしかないため、状況如何(四肢の切断や非常な老齢、不当な命令に従わなければならない等)によっては、先述のように自殺も肯定した。

 

運命の肯定と自由意志の肯定

これにより、人は運命を受け入れる「覚悟」が必要であることを悟る。しかし、不完全な運命を補正する自由意志により、運命さえも自己の意識によって良き方向へと革新できると主張する。

 

魂の鍛練

ストア派にとって、哲学とは単に信念や倫理的主張を集めたものではなく、持続的な実践・鍛錬(つまり「アスケーシス」、禁欲主義を参照)を伴う「生き方」である。ストア派の哲学的・霊魂的な実践には論理学、ソクラテス的対話や自己対話、死の瞑想、今この瞬間に対して注意し続ける訓練(ある種の東洋の瞑想と同様である)、毎日その日起こった問題と、その可能な解決法について内省すること、ヒュポムネマタ、等々がある。ストア派にとって哲学とは、常に実践と反省を行う動的な過程なのである。

 

著書『自省録』において、マルクス・アウレリウスは、そういった実践のいくつかを規定した。例えば、第II巻第1章にはこうある:

 

早朝に自分に向って言う。私は今日恩知らずで、凶暴で、危険で、妬み深く、無慈悲な人々と会うことになっている。こういった品性は皆、彼らが真の善悪に無知であることから生じるのだ。

何者も私を禍に巻き込むことはないから、彼らのうちの誰かが私を傷つけることはないし、私が親類縁者に腹を立てたり嫌ったりすることもない。というのは、私たちは協働するために生まれてきたからである。

 

アウレリウスに先行して、エピクテトスが『語録』において三つの主題(トポス)、つまり判断、欲望、志向を区別している。フランスの哲学者ピエール・アドによれば、エピクテトスは、この三つの主題をそれぞれ論理学、自然学、倫理学とみなした。『自省録』において「各格率は、これら非常に特徴的な三つのトポスのうちの一つ、あるいは二つ、あるいは三つ全てを発展させる」ものであるとアドは書いている。

 

Seamus Mac Suibhneによって、魂の鍛錬の実践は反省的行動の実践に影響を及ぼすものとされている。ストア派の魂の鍛錬と、近代の認知行動療法とが相似していることがロバートソンの『認知行動療法の哲学』において、長々と詳述されている。また、こうした実践重視の姿勢はソクラテスの「ただ生きるのではなく、より善く生きる」に繋がる考え方だと思われる。

 

感情からの解放(理性主義)

あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、最善の状態として希求する。アパテイア(πάθεια/apatheia、語源的にはパトスpathosに否定の接頭辞「a」が付く)と呼ばれるこの境地は、賢者の到達すべき目標であるとともに、ストア学派における最高の幸福であった。当然、死に際しての恐怖や不安も、克服の対象と考える。その理想として、よくソクラテスの最期が挙げられる。怒らず、悲しまず、ただ当然のこととして現実を受け入れ行動することを理想とする。

出典 Wikipedia

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