2021/05/13

東晋

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晋の皇族、司馬睿は江南に逃れ、浪邪王氏の協力の元、317年、呉の首都であった建康で元帝として皇帝の位につき、東晋を建国した。司馬睿は華北回復のために江南の豪族と上手く付き合う方針を固め、また豪族も司馬睿を迎え入れた。

 

この政権は亡命政権であったため、「王と馬とが天下をともにす」と評価されるほどに皇帝権力が弱く、政情が落ち着くと司馬睿は側近達の力を強めることによって豪族を抑えようとしたが、彼を補佐した王敦(おうとん)に反乱を起こされてしまい、詫びを入れてしまうほどだった。

 

2代の明帝は名君で王敦の乱を鎮圧することができたが、27歳の若さで病死。それ以後は皇帝は半ばお飾りと化し、重臣達が政権を運営していくこととなる。

 

一方、華北の地は八王の乱、永嘉の乱と続く戦乱によって、すっかり荒れ果てていた。ただでさえ洪水、日照り、イナゴの発生などにより苦しんだ農民達は当初、塢壁と呼ばれる土塁で自衛をしていたが、やがて異民族の侵入を受けるようになり、食べ物を求めて江南へと移住した。彼らは大河長江の恩恵を受けて、豊かな暮らしを営むことができた。

 

東晋の時代、朝廷の貴族によって様々な文化が花開いた。353年、会稽の名勝の蘭亭で、東晋の地方官の王羲之が謝安、許詢、孫綽(そんしゃく)らを招いて宴を催した。この時に行われた曲水の宴は、日本でも奈良・平安時代の貴族も真似たとされる。

 

曲水の宴とは、川に杯を流し、目の前を通過する前に詩を作り、詠み終わったら酒を頂くという趣向である。王羲之は、書聖とも呼ばれるほどの筆の名人であり、この宴で書いたものが、かの有名な蘭亭序である。

 

東晋の軍はいくつかの戦争を経て、首都近郊に駐屯して北の守りを固める北府軍と、荊州に駐屯として西の守りを担う西府軍に集約されることとなる。この二つの巨大で同格の軍隊が、微妙な均衡を保つことによって東晋は支えられていたが、桓温が台頭して西府軍を掌握すると、東晋は簒奪の危機に晒されることとなる。

 

桓温は蜀で政権を築いていた成漢を滅ぼし、一時は洛陽も占領するなど実績を上げた。北府軍が北伐に失敗したこともあって、桓温の名声は巨大になっていく。最終的には簒奪一歩手前までいったが、宰相の機転によって失敗、その直後に病死したので危機は去ったかのように見えたが、もう一つの危機が迫っていた。

 

五胡が、それぞれの王朝で争っていた華北では、前秦が370年に前燕、376年には前涼と拓跋氏による代国を滅ぼして華北を統一した。やがて、前秦は東晋に90万の軍勢を率いて攻めて来たので、東晋の宰相、謝安は謝石、謝玄に8万の兵を与えて淝水でこれを迎え撃った。しかし、前秦の軍は様々な民族の混成軍であったため、まとまりが悪く、先陣が敗北すると残りの軍勢も潰走してしまい、東晋は大勝利をおさめる。これが淝水の戦いである。

 

この後、前秦の各部族は独立し、再び華北は分裂状態に陥った。そのため東晋は安寧を手に入れることができたが、気が緩んだのか一気に堕落してしまう。

 

謝安の死、孝武帝が冗談を間に受けた妃の布団蒸しによって殺害され、一切の意志表示ができななかったといわれる重度の知的障害児の安帝が即位すると、東晋は社会不安に襲われることとなる。その不安につけこむ形で、五斗米道の孫恩が反乱を起こす。鎮圧はされたものの、好機とみた桓温の息子で西府軍首領の桓玄が挙兵、北府軍の劉牢之を味方につけることによって易々と首都に入場した桓玄は、政敵や劉牢之を粛清、やがて安帝を廃して自ら皇位についた。

 

が、あまりにも性急だったため、北府軍の生き残りである劉裕が挙兵すると、打ち破られて廃死。劉裕が安帝を復位させることよって404年に再興されるが、実権は劉裕に握られていた。

 

劉裕は孫恩の残党である廬循の一党を覆滅、南燕や後秦といった国々を滅ぼすことによって名声を高め、実績を積むと安帝を殺害して、恭帝を擁立、420年にその恭帝から劉裕は帝位を禅譲され、宋(南朝)を建国。ここに東晋は滅んだ。

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