2021/05/02

晋王朝

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晋王朝とは、中国にあった王朝である。

1.        春秋時代の晋(前11世紀〜前376年)

2.     司馬炎が建てた王朝。時代によって西晋(265年〜316年)と東晋(317年〜419年)に分かれる。本稿で解説

3.        晋(883年〜923年)。沙陀族の建てた政権、五代のひとつ、前晋とも呼ばれる。後唐(923年〜936年)の旧称。

4.        後晋。五代のひとつ(936年〜946年)

本記事では2の晋を解説する。

 

概要

始祖は司馬炎(晋の武帝)265年に司馬炎が魏皇帝から位を禅譲され、316年に匈奴と羯によって一度滅ぼされ、以後は司馬睿が江南で東晋を起こす。

三国時代を終わらせた王朝ではあるが、三國志演義の知名度の割には、あんまり知名度は高くないかもしれない。最近の三国志ゲームだと、勢力の一つとして出て来ている。

 

建国と統一

三国時代の末期、魏の実権は司馬懿とその子の司馬師と司馬昭、孫の司馬炎ら司馬家三代に握られていた。249年、司馬懿はクーデーターを起して政治を完全掌握し、子の司馬師の時代には皇帝の首をすげ替えて、司馬昭は皇帝を殺して晋王を名乗った。更に司馬懿の孫の司馬炎は265年に、とうとう禅譲を受けて皇帝につき(武帝)、ここに魏が滅んで晋国が建国された。

 

晋の武帝は皇帝に即位した翌月、司馬氏の一族から27人を汝南、趙、成都、河間、楚などの国々の王に就かせ、皇室の藩屏(守護)としした。これは、司馬一族の天下を確固たるものにする目的があったが、後に王朝権力の分散を招き、かえって晋の力を弱める結果になった。これは劉邦が建国した前漢でも、同じ現象が見られる。

 

武帝は、魏で始まった官吏登用システム九品中正(九品官人法)を継承した。九品中正とは、地方で評判のいい人物を選び、一品から九品までの九段階で序列をつけて中央政府に推薦するシステムである。しかし、これは長く続けると推薦される一族が段々と固定化され、その権力は地方貴族を生み出していった。

 

地方では貧富の差が広がり、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という言葉も生まれた。そのため南北朝時代は貴族政治の時代と呼ばれ、貴族の勢いは大唐が滅びるまで続くことになる。

 

また280年には、武帝は国の財政を豊かにするために今までの屯田制を改め、占田法と課田法を取り入れた。これは、土地の広さに制限を加えて田祖や兵役を課した占田、国の土地を貸し与えて税収の確保を図る課田を実施し、全ての土地は公のものであることを確認することが目的であったのだが、実際には大土地所有者を押さえることが出来ず、土地を失って流民となる農民が続出していた。

 

280年、晋の武帝は諸王に命じて20万の大軍を派遣して呉の都、建業を落として呉を滅亡させ、後漢滅亡以60年ぶりに中国を統一させた。

 

混乱と西晋の滅亡

しかし天下を統一した武帝はその後、政治を怠って酒浸りの生活を送り、一方で疑心暗鬼の病に陥り、人気のあった斉王で弟の司馬攸(しばゆう)に無理難題を押しつけ、また汝南の司馬亮にも謀反の疑いを持つなど、宮廷は混乱した。

 

当時、武帝に仕えていた竹林の七賢人の一人である王戎は酒浸りの放楽生活を送り、それをとがめられると「皇帝と同じことをして何が悪い」と言い返したと言われる。この時代、王戎の他にも現実の政治から離れ、文学や芸術を語り合う清談が流行していた。

 

290年、武帝は体を壊して亡くなり、恵帝が後を継いだ。当時、日照りによる凶作で飢饉が発生したにもかかわらず恵帝は賈皇后の言いなりになり、毎日遊び呆けていた。恵帝の妻、賈皇后の一族は武帝の妻の楊皇太后の一族と対立し、全国の八王の力を借りた賈氏一族は楊氏一族を滅ぼすも、実権は汝南王の司馬亮に握られた。

こうして290年から始まった朝廷の内乱は各地の八王を巻き込んで、以後16年に渡って続いて行く。これが八王の乱である。

 

291年には楚王、司馬瑋(しばい)が司馬亮を殺し権力を握ったと思えば、300年には趙王倫が賈氏一族を滅ぼし、更に翌年には斉王、司馬冏(しばけい)が趙王倫を殺し、更に更に翌年には司馬冏も長沙王、司馬乂(しばがい)に敗北する。

 

休む間もなく同年、司馬乂は成都王、司馬顒に討たれ、一方で303年河間王、司馬顒(しばぎょう)が長安で実権を握ったが306年に東海王、司馬越に敗北する。

結局、八王の乱は東海王の司馬越が勝利して、懐帝を即位させて乱は終わった。

 

しかし、八王の乱で各王が北方民族の力を借りたことがきっかけで、北方民族の中原への南下を許してしまった。その中でも、最も力があったのは南匈奴の劉淵であった。

304年、劉淵は漢王を称して、308年には山西省に漢(後の前趙)を建国した。

 

311年に東海王が亡くなると、匈奴と羯の連合軍は晋の都の洛陽を攻め(永嘉の乱)、懐帝は殺され、316年には劉淵の息子、劉聡は長安に攻め入って愍帝(びんてい)を捕らえ、ここに晋は滅んだ。

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