2024/05/29

イスラム教(11)

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クルアーン(コーラン)

クルアーン(al-Qur'ān コーラン)は、イスラームの聖典である。アッラーからの啓示に基づく書物であり、アラビア文字で書かれたアラビア語の啓典である。アラビア語で「読まれるもの」「朗誦されるもの」を意味しており、アッラーから天使ジブリール(ガブリエル)によって啓示されたとき、ムハンマドは文字が読めなかったため、ジブリールから口頭で啓示を受け取り、ムハンマドはこれを弟子達に暗唱させた。(弟子達は暗唱したほか適宜、それらを羊皮紙や板などに書き留めていたという)。神が直接アラビア語で語った言葉が人類(初期の直接の対象はアラブ人)に下されたと信じられており、イスラームにおけるアラビア語の尊重の根拠となっている。

 

ムハンマドの時代、アラブ人は盛んに詩歌を朗誦し、その出来不出来を競い合っていた。コーランはアッラーがムハンマドに示した唯一の奇蹟とされており、これに勝る韻文・散文は存在しないとされる。コーランを超える詩歌を作り出せないことを以って、奇蹟の証拠とされている。コーランは、サジュウ体と呼ばれる韻文的な要素の濃い散文で書かれており、114の章からなる。おおよそ長い分量の順から並べられており、最長である第2章の雌牛章が286節、最短の第103章の夕刻章および第108章の豊潤章が3節である。第1章にあたる開扉章は7節からなる比較的暗唱し易いもので、アッラーへの讃辞によってはじまっており、信仰告白が含まれていることから特に重要視されて来た。そのため「賞讃章」「啓典の母」「コーランの母」などの雅称がある。「啓典の母」とはクルアーンをはじめ、預言者達に降されたとされる啓典の、天上に存在するとされる原典の名称でもある。

 

神から天使を経て預言者ムハンマド、信徒たちに伝授されたことの一貫性や、口頭で読み上げられる際の韻律を含めて『コーラン』という一個の書物であるため、イスラームの神学的にみて、他の言語に翻訳されたものは『コーラン』そのものとはみなされていない。ただ、初期からコーランの文句をアラビア語に詳しくない信者のために他言語に逐語的に訳して説明することは行われていたので、これらの翻訳も大きく言えば「コーランの注釈書」のひとつに分類される。(アラビア語話者でも、初期イスラーム時代以降ではコーランの章句について不明な点や啓示された経緯、解釈が難しい部分もあったため、古くからコーラン注釈書が作られた。ペルシア語やトルコ語、あるいは中国語など、前近代にはあらゆる地域で様々な言語のコーラン注釈書が作られている)


正式名称はクルアーンであり、コーランは欧米経由の名称なので、中東ではコーランと呼んでも通じないことが多い。

 

預言者ムハンマド

イスラームの開祖ムハンマドは6世紀後半、570年頃にアラビア半島西部ヒジャーズ地方の都市メッカで生まれた人物で、当時メッカの主導者層であったクライシュ族の名門ハーシム家の出身であった。6世紀、メッカをはじめとするアラビア半島西部の諸地域は遊牧生活を営むアラブ人の世界であり、多くは多神教と偶像崇拝を行っていた。特定の地域には神の像やそれを安置する祠があり、たいていはそれらを管理する部族がついていた。メッカのカアバ神殿は、360体といわれる神の像が納められており、クライシュ族がカアバ神殿の管理を行っていた。これらの神の像や聖地への巡礼が盛んであり、メッカはアラビア半島でも有数の巡礼地であった。(ムハンマドの啓示以前、アッラーはこれらの多数の神のひとつとして信仰されていた)

 

610年頃に、ムハンマドは唯一神アッラーから天使ジブリールを介して啓示を受け、多神教と偶像崇拝を排除して、イスラームに帰依すべきだと説いた。当時のアラブ社会では部族間抗争や嬰児殺害、貧者や孤児、寡婦の問題など、富者による経済的社会的弱者の抑圧や社会的矛盾が蔓延していた時期で、ムハンマドは神の啓示に基づいてこれらを非難し、イスラームによる社会改革の必要性を訴えた。親族や交友関係から徐々に信者や支持層を形成したが、多神教・偶像崇拝の撤廃は巡礼都市メッカの存立基盤を脅かすものであったため、メッカの指導層と対立し、厳しい迫害のため信者達とメッカを離脱せねばならなくなった。カアバ神殿は、アラブの伝承のとおりアッラーの命令によって建設されたもので、神への礼拝のために巡礼すべき場所だが、アッラーは唯一絶対の神であって、偶像が多数置かれた現在の状況は正すべきだ、と主張したためであった。

 

ちょうど近隣の都市メディナでは、都市内部や周辺地域との対立を抱えており、ムハンマドは調停能力を買われてメディナに招かれた。メッカからメディナに移住することでメディナに共同体を形成し、西暦622年に行われたこの移住(ヒジュラ)をイスラーム共同体の誕生として、後にこれを暦の最初とされた。これをヒジュラ暦という。

 

その後、メディナで勢力を盛り返したイスラーム側は、ついにメッカ側と戦争になりこれに勝利し、628年にムハンマドはメッカを無血開城させた。カアバ神殿の360体といわれる神像はことごとく破壊され、現在もカアバ神殿の内部は何も信仰の対象となるべきような器物は置かれていない。(唯一、天から落ちて来たという黒い石のみがムハンマドによって聖別され、建物の外の東の角にはめ込まれている)。632年に最後のメッカ巡礼をすませると、モスク(礼拝所)を兼ねていたメディナの自宅で亡くなった。

 

死後のイスラーム共同体の指導者は誰にするか、ムハンマドの側近や友人など有力な信者たちによって協議され、最初期の信者のひとりでムハンマドからの信頼も篤かったアブー・バクルが後継者として選ばれた。このイスラーム共同体を束ねるムハンマドの後継者を「ムハンマドの代理人(ハリーファ)」という意味で、ハリーファ(カリフ)と呼ばれる。


ムハンマドは、啓示以前からメッカ社会では誠実さを評価されていたと言われており、コーランでも「普通の人間」であることが強調されている。生老病死する存在であって、「神」でもなければ「神の子」でもないことが説明されていた。ただ神から直接啓示を受ける事ができる点で、その当時の全ての人間よりも優位な立場にあるとされ、それゆえ全てのイスラム教徒の模範とされた。また、「預言者の封印」とも呼ばれており、ムハンマド以後、預言者は召命されず最後の預言者とされた。ムハンマドは、晩年に有力な信者や同盟している部族などから嫁がされた10人ほどの正妻がいたが、このうち生前に子孫が得られたのは、ムハンマドの従兄弟のアリーと娘のファーティマの家族だけであった。アリーはアブー・バクルが亡くなったのち、4代目のカリフとなった。アリーとその血統のみが正統なカリフであるとみなす人々をシーア派と呼んでいる。


ムハンマドが存命中に対処した行いや生活様式が信仰上での規範とされ、ムハンマドに遡る逸話や情報などの伝承をハディースと呼ぶ。クルアーンも含めてハディースは、イスラーム法学における最も基本的な法源となっている。

 

ムハンマドについての歴史的な記憶は、ハディース集だけでなく伝記としても纏められている。その最古の例がイブン・イスハークがまとめ、イブン・ヒシャームが再編集した『預言者ムハンマド伝』(日本語訳は岩波書店から出ている。全4冊)であり、現代でも広く読まれている。

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