2024/05/21

大化の改新(3)

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大化の改新とは、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が645年の乙巳の変をきっかけに始めた、古代日本の政治改革である。

 

二人は遣唐使から伝わった唐の律令政治を取り入れ、以後武士の台頭が起こるまで日本の基本方針となった。たまに蘇我入鹿暗殺事件のことを大化の改新と思っている人もいるが、これは正確ではない。

 

概要

七世紀の日本(倭国)は、有力豪族による合議制で政治を行っていたために豪族同士の諍いが絶えなかった。628年に時の女帝、推古天皇が崩御すると激しい後継者争いが起きた。当時権勢を誇っていた蘇我蝦夷は田村皇子を、境部摩理勢(さかいべのまりせ)は、厩戸皇子(聖徳太子)の子である山背大兄王(母は蝦夷の妹である刀自古郎女(とじこのいらつめ))を推挙して対立した。結局、蘇我入鹿が摩理勢の館を攻滅ぼしたことにより、629年田村皇子が即位する。これが舒明天皇である。この舒明天皇には、四歳になる息子がいた。これが後の大化の改新の中心人物になる中大兄皇子であった。

 

対抗勢力を倒した蘇我氏の力はますます強大になり、都を見下ろす甘樫丘に屋敷を建て、その屋敷を上の御門と言わせたり、自分の子供達を皇子と呼ばせるなど、その勢力は天皇系をも凌ぐようになっていった。641年には舒明天皇が崩御し、后であった宝皇女が皇極天皇として即位した。しかし、この即位も蘇我氏の意によるものであった。

 

蘇我入鹿は、已然として人望を集めていた山背大兄王を643年に攻撃し、山背大兄王は斑鳩寺で自害して果てる。この頃から中大兄皇子は中臣鎌足と相談して、蘇我氏排除の必要性を感じ始める。二人は南淵請安の学問所で、唐や朝鮮半島の情勢について知り、政治改革が日本に不可欠であると学んでいた。そのためには蘇我氏は、どうしても邪魔な存在であったのである。

 

まず中大兄皇子は蘇我氏の分裂を図り、一族の実力者である蘇我石川麻呂と、武勇で名高い佐伯子麻呂や葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)を仲間に引き入れた。五人に増えたグループは、南淵請安宅でクーデター計画を練った。そして645612日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で事件は起こる。このとき、天皇の前で石川麻呂が三韓進調(高句麗、百済、新羅が天皇に貢ぎ物をする儀式)の上表文を読んでいた。これに参加していた蘇我入鹿を数名が襲撃したのである。

 

入鹿は屋敷に入る前に護衛と刀を預けており、無防備であったためあえなく討ち取られる。これを知った蘇我蝦夷も、自宅に火を付けて自害した。この事件を乙巳の変(いつしのへん)と呼ぶ。稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く大豪族、蘇我氏の最期であった。このとき、中大兄皇子二十歳、中臣鎌足三十二歳。

 

乙巳の変の後、皇極天皇に代わり弟の孝徳天皇が即位した。新たな政権では阿倍内麻呂が左大臣、蘇我石川麻呂が右大臣となり、中臣鎌足は内臣(うちのおみ)、中大兄皇子は皇太子について政治の実権を握った。中大兄皇子と中臣鎌足が目指すものは唐の国であった。そして日本で初めて、大化という元号が定められた。

 

新政権は、まず美濃国以東に使者を派遣して戸数と人口の調査と武器の接収・点検を行った。これは東国の支配と唐侵攻に備えて、武器の数量を把握するためだったと言われる。その後、新政府は都を飛鳥から難波に遷し、新しい政治方針である、大化の詔を発布した。これは唐の律令制を取り入れ、豪族の力を削ぎ天皇中心の中央集権国家を目指したものであった。その内容は、以下の四か条に集約される。

 

ü  公地公民制:土地と人民をすべて国家の支配下におく。

ü  中央集権体勢:地方の行政単位(国・郡)を定め、軍事や交通の制度を整える。

ü  班田制:戸籍と計帳を作成し、班田収授法を定める。

ü  新税法:統一的な税制を定める。

ü   

しかし実際には豪族の反対にあい、改革は中々進む事はなかった。中でも、乙巳の変で功績のあった蘇我石川麻呂は孝徳天皇を抱え込み、中大兄皇子と中臣鎌足と対立を深めたが、最終的には謀反の疑いをかけられ、一族とともに奈良の山田寺で自害して果てた。また653年、中大兄皇子は難波から飛鳥へ再び遷都を行い、孝徳天皇を置き去りにしてしまった。翌年、孝徳天皇は子である有間皇子に看取られ、この世を去る。孝徳天皇の跡は皇極天皇が再び即位し、斉明天皇となった。658年には、有間皇子が謀反を企てたとして処刑される。まだ19歳の若さであった。こうして結果的に中大兄皇子と中臣鎌足に対抗できる勢力は国内に存在しなくなった。

 

660年、日本と同盟を結んでいた百済から救援の要請を受ける。これに応じて661年中大兄皇子は筑紫国へ出征し、新羅と唐の連合軍との戦いに備える。しかし大陸に渡った百済、日本連合は白村江で大敗北を喫し、百済は滅亡、高句麗も後に滅んだ。中大兄皇子は唐の軍勢はいずれ日本にも迫ると考え、ますます富国強兵にのめり込んでいった。飛鳥に戻った皇子は甲子の宣を発し、国政改革を断行した。その内容は、

 

ü  26階の新官位を制定

ü  大氏、小氏、伴造(とものみやつこ)らの氏上を決定

ü  民部(かきべ)、家部(やかべ)の制定

 

氏上とは、氏の代表者のこと。国防面では九州沿岸・対馬・壱岐に水城、朝鮮式山城を築き、そこに防人や烽火を置いて唐の来襲に備えた。

 

中大兄皇子は667年に都を大津に遷すと、翌年にはとうとう天智天皇として即位する。しかし、その後まもなく中臣鎌足が病に倒れる。669年に鎌足はこの世を去る。享年56歳。天智天皇は、この功績を讃えて最高位である大職冠と藤原の姓を与えた。これが、後に日本を牛耳る藤原氏の興りである。そしてその二年後、天智天皇も崩御。享年46歳。天智天皇死後は後継者争いが発生し、壬申の乱を経て天武天皇が実権を握った。中臣鎌足と中大兄皇子が目指した律令国家の完成は、彼らの死後に完成を見る。

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