2025/07/29

坂上田村麻呂(4)

大納言として

平城太上天皇の変(薬子の変)

大同441日(809518日)、平城天皇は健康上の理由で皇位を皇太弟・神野親王へと譲位した。皇太子には平城天皇の第三皇子・高岳親王が立てられた。平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子と兄・藤原仲成は譲位に反対するものの、413日(809530日)に神野親王が嵯峨天皇として即位する。

 

譲位後に健康を回復させた平城上皇は、大同411月、仲成に命じて平城京を修理させると、124(810112)には平城京へと移り住んだ。

 

嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、6月には平城天皇の治世で設置された観察使の制度を廃止する。これに怒った平城上皇を薬子と仲成が助長して「二所朝廷」といわれる事態になる。大同596日(810107日)、平城上皇により平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を発せられたことで、平城太上天皇の変(薬子の変)が始まる。平城京遷都の詔勅にひとまず従った嵯峨天皇は、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを平城京造宮使に任命する。

 

しかし910日(8101011日)、嵯峨天皇は平城京遷都の拒否を決断して、固関使を伊勢国・近江国・美濃国の国府と関に派遣、同時に仲成を捕らえて右兵衛府に禁固し、佐渡権守に左遷、薬子は尚侍正三位を剥奪して宮中から追放という詔を発した。『公卿補任』によると、この日に田村麻呂は大納言に昇進しており、子の坂上広野も近江国の関を封鎖するために派遣されている。

 

嵯峨天皇側の動きを知った平城上皇は激怒して911日(8101012日)早朝、挙兵することを決断し、薬子と共に輿に乗って平城京を発し、東国へと向かった。嵯峨天皇は田村麻呂を派遣。美濃道より上皇を迎え撃つにあたり、上皇側と疑われ左衛士府に禁固されていた文室綿麻呂の同行を願い出て、嵯峨天皇は綿麻呂を正四位上参議に任命した上で許可している。平城京から出発した平城上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、田村麻呂が宇治・山崎両橋と淀市の津に兵を配したこの夜、右兵衛府で仲成が射殺された。

 

嵯峨天皇側の迅速な対応により、上皇が912日(8101013日)に大和国添上郡越田村にさしかかったとき、田村麻呂が指揮する兵が上皇の行く手を遮った。進路を遮られたことを知り、平城上皇は平城京へと戻って剃髪して出家し、薬子は毒を仰いで自殺したことにより対立は天皇の勝利に終わった。この事件の時に、空海が鎮護国家と田村麻呂の勝利を祈祷している。

 

晩年

弘仁2117日(811213日)、嵯峨天皇が豊楽院で射礼を観覧した際、行事の終了後に諸親王や群臣に対して弓を射させたが、12歳の葛井親王(平城上皇と嵯峨天皇の異母弟で、桓武天皇と田村麻呂の娘・春子所生の皇子)にも戯れに射させたところ、百発百中であった。行事に居合わせた外祖父の田村麻呂は、驚き騒ぎ喜び勇んで葛井親王を抱いて立ち上がって舞った。田村麻呂は天皇の前に進み出て、かつて自分は10万の兵を率いて東夷を征討した際、朝廷の威光を頼りに向かうところ敵なしであったものの、今思うに計略や兵術について究めていない点が多数あったが、葛井親王は幼いながら武芸がすばらしく私の及ぶところではないと言った。嵯峨天皇は大いに笑って、それは褒め過ぎであると返したという。

 

豊楽院での射礼から3日後の120日(811216日)には、中納言・藤原葛野麻呂や参議・菅野真道らと共に、前年の暮より入京していた渤海国の使者を朝集院に招いて饗応する任に当たっている。田村麻呂生前の公的記録として、これが現存する最後の資料のものとされる。

 

同年523日(811617日)、平安京郊外粟田(現在の京都市左京区)の別宅で病の身を臥せていたが、54歳で生涯を閉じた。

 

嵯峨天皇は田村麻呂の死を悼み「事を視ざること一日」と喪に服し、この日は政務をとらず田村麻呂の業績をたたえる一篇の漢詩を作った。田村麻呂が薨去したその日のうちに遺族に対して嵯峨天皇より、娘・春子が葛井親王の生母であることも考慮された上で絁69疋・調布101段・商布490段・米76斛・役夫200人(左右京各50人、山城国愛宕郡100人)と、御賜品を通例より加増されて賜っている。

 

死後と神格化

弘仁2527日(811621日)に、大舎人頭・藤原縵麻呂と治部少輔・秋篠全継が田村麻呂宅に派遣され、天皇の宣命を代読して大納言・田村麻呂に従二位が贈られた。葬儀が同日に営まれ、山城国宇治郡来栖村水陸田三町を墓地として賜わって、遺体は甲冑・兵仗・釼・鉾・弓箭・糒・塩を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向け窆を立つように埋葬された。もし国家に非常時があれば田村麻呂の塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴る。以後、将軍の職に就いて出征する時は、まず田村麻呂の墓に詣でて誓い、加護を祈るとされた。現在、京都市山科区の西野山古墓が、田村麻呂の墓所として推定されている。

 

弘仁3年(812年)正月、嵯峨天皇の勅令によって、鈴鹿峠の二子の峰に田村麻呂を祀る祭壇が設けられた。弘仁1348日(82252日)には、土山の倭姫命を祀る高座大明神の傍らにも田村麻呂を祀る一社を建て、併せて高座田村大明神(現在の田村神社)と称した。

 

『公卿補任』に「毘沙門天の化身、来りてわが国を護ると云々」と記され、生前から毘沙門天の化身として評価されたことから、伝説上の人物・坂上田村麻呂として語り継がれていく。

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