人物・逸話
出生
田村麻呂生誕の地については、現在まであきらかにされていない。
高橋崇は、大伴宿奈麻呂が田村の里に住んだことから、娘が田村大嬢と呼ばれたことを例に挙げ、もし田村麻呂も地名に由来する命名であれば「平城京田村里」(奈良市尼辻町付近)が有力な候補地であろうと推測している。俗説として、陸奥国田村庄で誕生したという坂上田村麻呂奥州誕生説や、蝦夷出身であったとする坂上田村麻呂夷人説がある。
1910年代には、カナダの人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレンなどが田村麻呂が黒人であるという記述を行い、カナダやアメリカの黒人コミュニティの間の一部では現在も広まっている(坂上田村麻呂黒人説)。
人物
古代の人物のため史料は無いに等しいが『田邑麻呂傳記』や「田村麻呂薨伝」(『日本後紀』)に僅かながらも残されている。
「大将軍は身の丈5尺8寸(約176cm)、胸の厚さ1尺2寸(約36cm)。向かいに立つと仰け反って視え、背後からみると屈んでいるように視える」と堂々たる容姿であった。
容貌は
「目は鷹の蒼い眸のように鋭く、鬢は黄金の糸を紡いだように光っている。重い時は201斤(約120kg)、軽いときには64斤(約38kg)のように行動は機敏であり、立ち振舞いは理にかなう。怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」という。
器量についても
「真心は面に顕われ、桃花は春ならずして常に紅い。生まれながらに勁節(強い意思)を持ち、松の色は冬を送りてただ翠なり」と誠実さや高潔な品性を称えられ、「策は本陣でめぐらせ、勝ちを決するのは千里の外であった。華夏に学門を学び、張将軍(張良)のように武略があり、蕭相国(蕭何)のように奇謀があった」と田村麻呂の武芸にも賛辞が贈られている。
信仰
田村麻呂は「清水の舞台」で有名な京都府京都市東山区にある清水寺を建立した事でも有名である。建立の由来を述べる縁起類にも異本が多くあり、内容は必ずしも同一ではない。建立の時期について宝亀11年(780年)とするもの、延暦17年(798年)とするものに大別される。
清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも、清水寺草創伝承が載せられている。
清水寺は、子嶋寺二世延鎮と田村麻呂により、子嶋寺の支坊として開かれた。
延暦24年(805年)には太政官符により田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇宸筆の勅許を得て寺印一面を賜って公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。
また、北観音寺に対して子嶋寺は「南観音寺」とも呼ばれた。
征夷大将軍
延暦16年、延暦23年と生涯で2度の征夷大将軍に任命されている。2度目は還任するものの、藤原緒嗣の議により「軍事と造作」が停止されたため出征していないにもかかわらず、その後も本来は臨時の官職である征夷大将軍であり続けたと思われる。高橋崇は、征夷使・大伴弟麻呂の肩書として、文献にあらわれた順に征夷大使・征東大使・征夷大将軍・征夷将軍など一定しておらず、対して田村麻呂は征夷大将軍で一貫して記されていることから「田村麻呂に征夷大将軍の初例を求めても誤りとはいえないであろう」としている。
『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、「大将軍」を望んだ源頼朝に対して、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。
平安京の守護神
田村麻呂の埋葬法は、死後も平安京と天皇を守護してくれるようにとの嵯峨天皇の願いが込められた措置であったとみられる。
嵯峨天皇作とされる『田邑傳記』には、田村麻呂の墓は「その後、もし国家に非常時有れば、則ち件の塚墓は苑も鼓を打つが如く、或いは雷電の如し。爾来、将軍の号を蒙りて凶徒に向う時は先ずこの墓に詣で、誓い祈る」とあり、国家非常のさいには田村麻呂の霊が警告を発し、国家に反逆する者を討つべく派遣される者は田村麻呂の加護を祈ったという。また田村麻呂の死を惜しんだ嵯峨天皇は、田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び、その刀を朝廷守護の宝剣として御府に納め、坂家宝剣は歴代天皇に相伝された。
このように王城の基礎を築いた田村麻呂を「王城鎮護」や「平安京の守護神」とする思いが、京都を中心にして早くから芽生えていた。
『平家物語』には、将軍塚(青蓮院門跡飛び地境内)は延暦13年2月に平安遷都のおり、末代まで王城を守護せよとの祈りをこめて、東山の頂きに8尺の武装した土偶を埋めた塚であり、王城に変事があれば動揺するとある。田村麻呂の墓にまつわる伝説と共通する点があるため同一視されることがあるが、本来は別なものである。
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