2026/04/19

ノルマンディー公国(3)

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封建制

 9世紀から約200年間続いたノルマン人の略奪や移動、フランク王国の分裂で西ヨーロッパは大混乱になった。

 

 西や東のフランク国王は、侵入するノルマン人を撃退するだけの力がないので、侵入をうけた各地の人々は自力で地域を防衛するしかなかったのです。そのため、地域防衛の中心となった地方の領主が諸侯として自立していった。カロリング朝断絶後フランス王位についたカペー家も、そうして力をつけてきた諸侯でした。

 

 武力を持った領主は、お互い同士でも戦います。基本的にヨーロッパ中世というのは無政府状態。王も皇帝も名ばかりだから、領地が欲しければ力ずくで奪ったって構わない。誰も文句を言えない。ノルマン人が、各地を占領して建国するのと同じです。領地の奪い合いで、常に戦争状態だと考えてください。

 

 各地の領主が領地争いを繰り広げるうちに、弱い領主は自分の領地を守るために強い領主の家臣になるという形で、領主のあいだで主従関係の系列ができてきます。君主になった大領主は、家臣になった小領主の領地を守ってやるかわりに、臣下になった小領主は君主に忠誠を誓って、戦争になったときは軍役奉仕をする。

 

 領主間の主従関係のピラミッドができあがって、その頂点にあるのが国王です。その下の領主が諸侯。自分に臣従する領主をもたない最低ランクの領主が騎士とよばれる。

 

 日本の戦国時代の大名や、その家臣の関係と似ていなくもない。ただ、大きな違いはヨーロッパの諸侯は、複数の君主に仕えてもいいのです。たとえば、諸侯Zが諸侯Aに臣従を誓っているけれど、それだけでは不安なら諸侯Bの家臣になっても構わない。AもBもZを裏切り者とは考えない。その辺はドライな契約関係です。

 

 こういう場合にAとBが戦争したら、両方に仕えているZはどうするか。Zが年間10日間軍役奉仕するという契約を結んでいるなら、まずはAの指揮下でBと10日間戦って、決着がついてもつかなくても、今度はBのもとへいってAと10日間戦います。そのあとは、戦争が終わっていなくても契約の軍役はすんだので、さっさと自分の領地に帰ってあとは関係なしです。そういう契約なので、AもBもそれ以上は期待しないし要求できない。契約以上の義理人情の忠誠心はありません。

 

 君主が臣下に対する保護も、契約の範囲でしかないのは同じです。こういうのを双務的契約関係という。

 

 諸侯のもとには農民たちも集まってくる。略奪から守ってもらうためだね。諸侯は農民を庇護するかわりに農民は諸侯に隷属するようになる。これが農奴のはじまりです。諸侯は農奴から年貢をとるだけでなく、かれらに対する裁判権など、いろいろな特権を農奴に対してもっていました。

 

 たとえば結婚税。結婚する農奴の新郎から領主が受け取っていた。なぜ、こんな税金があるかというと、もともと領主は初夜権というのをもっていて、農奴同士が結婚するとき新婚初夜の新婦を自分の館に連れ込んで、それから新郎に渡したんだ。新郎としては、こんなのはたまりません。初夜権をお金で買い取った。これが結婚税のはじまりといいます。死んだときには葬式税をとられたり、領主の館に労働奉仕をしにいったり、農奴は領主に経済的にも人格的にも隷属していたのです。

 というわけで、農奴は不自由身分で移動の自由も職業選択の自由もありませんでした。

 

 諸侯が持つ領地が荘園です。農奴たちは、ここで働いた。

 

 諸侯間の主従関係、諸侯と農奴と荘園の関係、これらをひっくるめて西欧中世の封建制度といいます。

 

教皇権の隆盛

 封建制度ができあがるのと同じように、ローマ教会の教会組織が整備されます。聖職位階制といって、ピラッミッド型に聖職者の上下関係が作られた。トップは、もちろんローマ教皇です。そのもとに大司教、司教、司祭という僧侶がいる。司祭が一般の信者と接触する村や町の神父さんです。

 

 このピラミッド型の教会組織とは別に修道院というのがある。これは教皇に直属している。

 修道院というのは、俗世間を捨てて禁欲生活を送る修道士たちの共同生活の場です。シリアやエジプトではじまったものですが、ヨーロッパで最初に作られたのがベネディクトゥス(480~543?)が建てたモンテ=カッシーノ修道院。ここでは、ただ禁欲生活するだけではなくて労働も重視した。「祈り、働け」というのがここのモットーで、このあとヨーロッパにできる修道院の伝統になる。

 

 修道士は、当時はインテリです。かれらが集まって共同生活しながら、自給自足で農作業する。自然に修道院は新しい農法の実験場にもなって、新しい農法がここから開発されて、農民の暮らしを向上させていきました。

 また、修道院は教皇を頂点とする聖職位階制からはずれた存在なので、官僚的になりがちな教会組織に新しい活力をあたえることもありました。

 

 10世紀から11世紀ころまでに教会の世俗化がすすみます。

 たとえば妻帯したり、荘園を所有したりと、聖職者や教会が俗世間の領主とかわらなくなってくる。

 

 これに対して、教会の改革運動をはじめたのがクリュニュー修道会です。これは、「服従・清貧・貞潔」という戒律を厳しく守る、まじめな修道会でした。ここが、教会組織の堕落を批判するのです。そして、やがてはクリュニュー修道会出身の僧侶がローマ教皇になるようなった。

 

 ローマ教皇グレゴリウス7世(位1073~85)がそうです。かれは、教会改革を始めた。

 まずは、聖職売買の禁止。聖職を貴族たちが金で売ったり買ったりすることが当時はあった。荘園をたくさんもっている教会の聖職にありつければ、いい暮らしができますからね。貴族の次男坊以下にとってはおいしい生活手段なのです。これを禁止した。

 

 さらに、聖職者の妻帯を禁止。

 そして、神聖ローマ皇帝による聖職者の任命権を否定した。ドイツ国内にも教会はたくさんあります。そして、ドイツ国内の教会の聖職者はドイツ皇帝、つまり神聖ローマ皇帝ですが、が任命するという慣習があった。

 これに対してグレゴリウス7世は、ドイツ国内の教会であろうともローマ教会傘下の教会であるならば、その任命権はローマ教皇にあるのだと主張したわけです。両者ともに譲らず、ここに皇帝対教皇の争いが始まる。

 これを、聖職叙任権闘争といいます。

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