2026/03/26

ファーティマ朝(1)

ファーティマ朝(アラビア語: الخلافة الفاطمية Al-Khilafah al-Fāimīyah)は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝である(909 - 1171年)。

 

その君主は、イスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で、預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。

 

ファーティマ朝は、北アフリカのイフリーキヤ(現在のチュニジア)で興り、のちにカイロに移ってエジプトを中心に支配を行った。イスマーイール派の信仰を王朝の原理として打ち出し、カリフを称するなどアッバース朝に強い対抗意識をもった。同じ時期には、イベリア半島のアンダルスでスンナ派の後ウマイヤ朝がカリフを称したので、イスラム世界には3人のカリフが鼎立した。そこから、日本ではかつては3人のカリフのうち地理的に中間に位置するファーティマ朝を「中カリフ国」と通称していた。 

 

歴史

建国

ファーティマ朝の淵源は、8世紀後半にイマーム派(シーア派の多数派)の第6代イマーム、ジャアファル・サーディクが亡くなった時、その長子イスマーイールのイマーム位継承を支持したグループが形成したイスマーイール派にある。イスマーイールの死後は、この派からはイマームがいなくなり教勢が衰えたが、9世紀後半になってイスマーイールの子ムハンマドは現世から姿を隠している隠れイマームであり、やがて救世主(マフディー)として再臨し、隠された真実を顕現するとする教理を主張するようになり、盛んに教宣活動を行った。

 

ファーティマ朝の始祖ウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)は、イスマーイールの子孫を称するイスマーイール派教宣運動の指導者で、899年には[要出典]従来の教理を改めて自らがイマームにしてマフディーであると宣言、活動を先鋭化していた。ウバイドゥッラーの指示に従い、イスマーイール派に対する迫害の厳しい本拠地シリアから離れた北アフリカで活動していた教宣員のアブー=アブドゥッラー(アルハサン・ブン・ザカリヤーとも呼ばれる)は、現地のベルベル人の支持を集めて軍事力を組織化することに成功し、909年にイフリーキヤを中心に北アフリカ中部を支配するアグラブ朝を滅ぼした。彼らはウバイドゥッラーをシリアから北アフリカに迎えカリフに推戴し、チュニジアの地でファーティマ朝が建国された。

 

ウバイドゥッラーは、王朝建設の功労者アブー=アブドゥッラーを粛清してカリフによる独裁権力を確立、チュニスの南に新都マフディーヤ(「マフディーの都」の意)を建設して、シーア派国家のファーティマ朝の支配を固めた。

 

ファーティマ朝の拡大

ウバイドゥッラーによる北アフリカへの進出は、そもそも西方で王朝の基盤を建設して東方バグダードにあるアッバース朝を滅ぼすための第一歩と位置付けられていたので、ファーティマ朝は王朝の初期から東方への進出をはかり、たびたびエジプトに遠征軍が派遣された。この一連の遠征軍派遣はアレクサンドリアを一旦は占領するものの、いずれもアッバース朝の軍により退けられ成功を収められなかった。このため、内政の強化とマグリブ方面への進出へと方針転換されたものの、モロッコでは後ウマイヤ朝の介入により、はかばかしい成果をあげられなかった。

 

一方で、北アフリカにおける勢力拡大も進められ、シチリア島まで勢力下におき、そこに海軍基地を設けた。また、チュニジアではスンナ派が住民の多数を占めたので、ファーティマ朝によるイスマーイール派至上主義に対する反感が強まり、軍事費の増大を賄うためにイスラーム法によらない増税が行なわれ、民心がますます離反した。アブー・アルカースィムの代に、ハワーリジュ派を中心とする組織的抵抗も起こったが、ファーティマ朝の勝利に終わって王朝の基盤は強化された。

 

エジプト支配

9696月、第4代カリフのムイッズは、エジプトを支配するイフシード朝の内部崩壊に乗じ、シチリア出身の将軍ジャウハル率いる遠征軍をアレクサンドリアに派遣した。ジャウハルは、ほとんど抵抗を受けることなくエジプトを支配下に収め、カリフのエジプト移転にあわせてエジプトの首府フスタートの北隣に新都カーヒラ(「勝利の都」)を建設した。カイロは、アラビア語のアル=カーヒラ (ar:القاهرة) が西欧の諸言語で訛った呼び名である。

 

エジプトにおけるファーティマ朝はイフシード朝の版図を踏襲し、エルサレムを含む南シリア地方まで支配を広げた。さらにマッカ(メッカ)を含むアラビア半島西部のヒジャーズ地方をも保護下においた。ムイッズと、その子アズィーズの治世が、ファーティマ朝の最盛期となった。

2026/03/25

一遍(2)

思想と評価

一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導いた。その教理は他力による「十一不二」に代表され、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時衆である。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と説いた。

 

阿弥陀仏以外の地蔵菩薩や薬師如来などを信ずることは雑修とする立場であったが、「聖絵」によれば一遍は14の神社に参詣して結縁した。

 

一遍の神祇観は

「専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」

との言に代表され、神明すなわち日本の神をあがめ、神の本地である仏の徳を拝することは専修念仏の妨げとはならないというものであり、熊野権現の神託や鹿児島神宮(大隅正八幡宮)での神詠も受け入れた。

 

浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。念仏を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であり、一遍が関わる人のみならず、ひとりでも多くの人が往生できるように(一切衆生決定往生)との願いを込めた安心の六八の弘誓(ぐぜい)「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算した。

 

「六十万人」とは一遍作の頌

「六字名号一遍法 十界依正一遍躰 万行離念一遍証 人中上上妙好華」

の最初の文字を集めたものであり、一切衆生の名であり、まず60万人の衆生に賦算し、しかる後にさらなる60万人に賦算を繰り返すということであり、一遍製作の算を受け取り勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという。大橋俊雄は、この算を一遍が極楽往生を保証する浄土行きの電車の切符と例えた。

 

寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、「我が化導は一期ばかりぞ」との信条を貫き、入寂の13日前の正応2810日の朝に、所持していた書籍のうち少数を書写山の僧に託して奉納した後、手許に残した自著および所持書籍すべてを「阿弥陀経」を読み上げながら自ら焼却し、「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言して教学体系を残さなかったという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。

 

和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述は、後世のものと考えられる。「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教者の系統に属することが指摘できる。

 

一遍の踊念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近い。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、男女の踊り手(一遍の同行者は20から40人おり、ほぼ半数は尼僧だった)が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だった。その過激な狂乱状態は、保守的な人々からは反発を受けた。例えば六条有房の『野守鏡』では、法悦状態で服を脱ぎ罵詈雑言を叫ぶ踊念仏の見苦しさに対する強烈な批判が述べられている。

 

有名な法語、和歌

旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき(時宗宗歌となっている)

身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ

生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり

夫れ、念佛の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿彌陀佛と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の樣々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に對したる假初の要文なり。されば念佛の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念佛すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善惡の境界、皆淨土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念佛し給ふべし。念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。彌陀の本願には缺けたる事もなく、餘れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。南無阿彌陀佛。

世の人おもへらく、自力他力を分別してわが体をもたせて、われ他力にすがり往生すべしと、云々。この義しからず。自力他力は初門のことなり。自他の位を打ち捨てて唯一念仏になるを他力とはいふなり。

 

時宗教団の成立

門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟ともいう聖戒や、2歳年上の他阿(真教)らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死後、自然解散した時宗を他阿が再編成したのが起源である。

 

ゆかりの文化財

その生涯は国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)があますところなく伝える。『遊行上人縁起絵』(宗俊撰述、別名:一遍上人絵詞伝、一遍上人縁起絵)は、他阿が描かせたものである。『一遍上人語録』は、江戸期に編纂された。当麻無量光寺(神奈川県相模原市)、東山長楽寺(京都市東山区)に木造立像がある(宝厳寺も木造一遍上人立像(重要文化財)を所蔵していたが、2013810日の本堂火災で焼失)。

 

廟所は真光寺にあり、律宗の影響が指摘される巨大な五輪塔である。阪神・淡路大震災により倒壊し、中から骨灰が現れたことで、実際の埋納が確認された。無量光寺にもそれを分骨したと伝えられる墓塔があるが、信者により削り取られ、原形を留めない。

 

一遍の笈(おい)は3個が現存するとされ、群馬県安中市の聞名寺が所蔵する1つが群馬県指定重要文化財となっている。

 

また手許の経典の一部は、死の13日前に書写山の僧に預けた。一説には、それが近世に書写山側から遊行上人に託され、現在清浄光寺に眠るともいわれるが、真偽のほどは明らかとなっていない。

 

なお、長野県佐久市の「跡部の踊り念仏」は、一遍上人ゆかりの古い姿を伝えているとして、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また佐久市にある時宗の金台寺所蔵の「紙本著色一遍上人絵伝 巻二」と「紙本墨書他阿上人自筆仮名消息」は国の重要文化財。同寺の鎌倉時代の梵鐘は、一遍上人ゆかりの品とされ佐久市有形文化財。

 

諱について

一遍の諱は時氏と主に言われているが、時氏の兄・通秀や、通秀か時氏の系譜的位置で通尚とも言われている[要出典]

2026/03/23

五代十国時代(7)

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科挙

 宋代の科挙を簡単に見ておきます。

 科挙は誰でも受験することができます。年齢、出身地関係なし。女性はダメですけれどね。

 試験は三年に一回。

 三段階の試験があります。最初が郷試、これは地方試験。合格したら都で二次試験を受けることができる。これを会試という。

 会試を通った受験者が最後に受けるのが殿試。これは宋代からはじまった。皇帝自身による面接試験です。宮殿でおこなうから殿試だ。

 

 官僚になれば、一族みんなが潤うような財産と権力とが手に入る。一番で合格すれば、将来の大臣は約束されたようなもの。

 

 一旗揚げようという血気盛んな者達は、腕力にものをいわせるんではなくて机に向かって勉強するようになる。政府に不満を持つ者も、反政府運動をするよりも受験勉強に精を出して官僚になってしまったほうが話が早い。

 

 そういう意味でも、政府は積極的に科挙を宣伝します。これは科挙を受けるように勧める歌です。

 

 「金持ちになるに良田を買う要はない。

  本のなかから自然に千石の米がでてくる。

  安楽な住居に高殿をたてる要はない。

  本のなかから自然に黄金の家がとび出す。

  外出するにお伴がないと歎(なげ)くな。

  本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ。

  妻を娶(めと)るに良縁がないと歎くな。

  本のなかから玉のような美人が出てくるぞ。

  男児たるものひとかどの人物になりたくば、

  経書をば辛苦して窓口に向かって読め。」

         宮崎市定「科挙」中公新書より

 

 窓口に向かってというのは、昔だから照明は暗い。日が暮れかけても窓からは光が射し込むから、暗くなっても勉強しろということですね。

 

 この歌は、太宗趙匤義がつくって意図的に流行させたといわれる。人民を取り込むのに必死だったわけです。太宗は科挙の合格者を一挙に増やした皇帝でもありました。

 

 子供に勉強させるだけの余裕のある家は、必死に受験勉強させます。少し利発な子供だったら親戚みんなでお金を出し合って、いい先生のところに入門させて科挙の準備をさせる。子供は一族の期待を一心に担って勉強するのだから、プレッシャーも大きい。現在の受験勉強とは比較にならないでしょうね。

 優秀な人だと十代で合格する場合もあるし、五十、六十になってもチャレンジしつづける人もいました。

 

 合格率はどれくらいかというと、これは17世紀はじめくらい明朝末期の数字ですが、予備試験に合格して受験資格を持つ者が50万、それに対して殿試合格定員が300人程度です。すごい高倍率。

 

 どんな試験をするのか。

 論文で政策論を書かせる、儒学の経典の理解力をみる、そして詩を書かせます。当然、すべて論述です。

 政策論は官僚に必要と思いますが、儒学の理解や詩は官僚として必要なことでしょうか。 儒学の理解度をみるということは、その人の徳を測ることと同じなんです。詩を書かせるのは、文化人としての教養をみることです。

 つまり、科挙の試験というのは、官僚として実務に有能な者なら誰でもいいわけではなくて、貴族的な人間を試験でさがすという意味合いが強いように思われます。今の大学入試のような単なる能力テストではない。人格を測るようなところがある。

 だから、字がきれいなことも当然要求される。今みたいに鉛筆、消しゴムではない。墨をすって筆で書くんですよ。しかも、清書用紙を墨で汚したりしたらまず不合格だ。緊張します。

 

 しかも、試験は三日間ぶっ通しでおこなわれる。試験会場は鶏小屋みたいになっていて、受験生ひとりひとりに独房が割り当てられる。そこで缶詰状態で受験します。鍋釜、食材、寝具も持ち込んで、自炊しながら答案を書くのです。

 なかには緊張にたえきれずに、発狂する受験者もいたようです。

 

 合格するためにカンニングをする者もでるんだ。ただ、論述試験だからカンニングペーパーはあまり役には立たない。論語とか詩経とか暗記しているのが大前提で、答案を書くときにそれらをいかに上手に引用して文章を格調あるものにするのかというところが勝負所です。

 だから、合格するために不正行為をするのに一番手っ取り早いのが、採点する担当者を買収することです。高い点数をつけてもらう。

 政府としてはそんなことが横行しては、科挙の権威が台無しになるので、懸命に不正防止策をする。

 まず、答案の受験生の名前を糊付けして隠してしまう。賄賂を受け取っている採点官が、だれの答案かわからないように。

 

 みなさん、高校受験の時、答案用紙に名前を書いたかどうか覚えていますか。書かなかったでしょ。受験番号だけだったね。教師のなかには受験生のことを知っている人もいる。ついつい、甘くなったりするかもしれない。そんなの困りますからね。名前を書いてはいけないことになっている。

 

 ついでに言うと、わたしたち教員が試験が終わったらすぐに採点をするんですが、採点するときには、受験番号も見えないようにくくってあるんですよ。当然ながら全教員が一室に集まって一斉に採点する。必ず複数で答案をみる。また、答案をその部屋から持ち出すことはできません。間違っても教師が不正しないように、ですね。

 

 高校入試ですらこうですから、国家の指導層を選ぶ科挙では、さらに不正対策がとられている。

 受験者の名前を隠すだけでは足りません。受験者の筆跡で誰かわかる場合がある。何しろ筆で答案書くんですから、個性がハッキリでがちです。筆跡をわからなくするために、受験者の提出した答案を別の役人たちが書き写すの。書き写して筆跡がわからなくなったものを採点官がみる。

 ここまでやると、不正はできないと思うでしょう。ところが、まだある。

 

 どんな手段があるかというと、受験者が採点官に事前に答案の特徴を教えておくのです。といっても、どんな問題がでるかわからないので、「私の答案は二枚目の五行目の三文字目に「仁」という字を書きます。」というふうに教える。

 これは、もう防ぎようがない。しかし、あらかじめ決めた場所に特定の文字をいれて、しかも筋の通った論文にしなければならないわけで、これをやるには相当の実力がいりますよね。

 

 そんなこんなの不正をたくらむ輩はいたかもしれませんが、科挙はおおむね公正におこなわれていきます。モンゴルが中国を支配した一時期をのぞいて、王朝が変わってもずっとつづけられ、20世紀1904年まで科挙はおこなわれたんです。

 

 宋の時代には、科挙官僚を出した家は「官戸」とよばれ特権を得ました。徭役を免除など簡単にいったら減税ですね。この特権はその家から官僚がいなくなれば、なくなってしまうものです。そういう意味で、家系そのものが高貴とされる貴族とは全然違うものです。

 

 宋はこの科挙に象徴されるように、文治主義の政治体制をつくりあげていきました。

2026/03/22

一遍(1)

一遍(いっぺん、英語: IPPEN)は、鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。全国各地で賦算(ふさん)と呼ばれる「念仏札」を渡し、踊りながら南無阿弥陀仏(念仏)と唱える「踊り念仏」を行った。

徹底的に自身の所有物を捨てたことで「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれた。

 

一遍は、承久3年(1221年)の承久の乱により没落した伊予国(愛媛県松山市)の豪族の河野家の次男として、延応元年(1239年)に生まれる。宝治2年(1248年)に10歳より仏門に入り、建長3年(1251年)からは太宰府の聖達上人の元で、浄土教を学んだ。

弘長2年(1262年)に父の訃報を受けると、一度故郷に帰り、半僧半俗の生活を続けていたが、文永8年(1271年)に33歳で再出家し、文永11年(1274年)より全ての財産を捨て一族とも別れ 16年間の遊行の旅に出る。

 

熊野本宮大社に着いた時、夢の中に白髪の山伏の姿をした熊野権現(阿弥陀如来)が現れ、

「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されているので、あなたは信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配らなければなりません。」

とのお告げを受けて歓喜し、この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加し、諸国遊行を続けた。

 

弘安2年(1279年)からは、信濃国佐久郡(長野県佐久市)で一遍が尊敬してやまない平安時代の僧侶空也が始めた、輪になって念仏をとなえながら踊る「踊り念仏」を始めた。

 

一遍は、学問や理論ではなく、「念仏をとなえて極楽浄土へ往生する」という仏教的実践、つまり余計な考えは捨て、南無阿弥陀仏と声を出してとなえることを人々に勧めた。

 

「一切衆生の往生は、阿弥陀仏によってすでに決定されており、仏教を信じれば、極楽浄土へ行ける喜びが踊りや歓喜となって現れるだろう」

という考え方で、日蓮宗が唱える「南無妙法蓮華経」でも「南無阿弥陀仏」と同じ功徳があるとも言っており、非常に柔軟性に富んだ考えだった。

 

一遍は、著書を残すこともなく、信徒を組織化して教団を作ることもしなかったが、弟子の他阿弥陀仏が時宗の教団化を行うことで再興した。一遍は念仏札を25万人以上に配ったと言われている。

 

「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表す[信頼性要検証]

「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。諡号は「円照大師」(明治19年(1886年)8月、近代における私諡号[要出典])、「証誠大師」(昭和15年(1940年)323日宣下)。俗名は河野時氏[要出典]とも、通秀[信頼性要検証]とも、通尚ともいうが、定かでない。

 

略歴

延応元年(1239年)、伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、河野通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。

 

有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について敗れ、祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれたころにはかつての勢いを失っていた。

 

10歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。 建長3年(1251年)、13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。聖達は、随縁に浄土教の基礎的学問を学ばせるため、肥前国清水にいた華台のもとへ最初の1年間派遣し、華台は法名を智真と改めさせた。

 

「法事讃」(巻下)に「極楽無為涅槃界は、随縁の雑善をもってはおそらく生じ難し」とあり、念仏以外の善は雑善(少善根)であり、往生できない根源の雑善である随縁を名とするのは好ましくないとの判断であった。建長4年(1252年)から弘長3年(1263年)まで、聖達のもとで修学。

 

弘長3年(1263年)、25歳の時に父の死(524日)をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)に32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行。窪寺では十一不二の偈を感得する。

 

文永11年(1274年)28日に遊行を開始し、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され大いに悩むが、参籠した熊野本宮で阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。

 

建治2年(1276年)には九州各地を念仏勧進し、鹿児島神宮で神詠「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶに生まれこそすれ(常に南無阿弥陀仏と念仏すれば、弥陀と一体になり浄土に生まれることができる)」を拝し、建治3年(1277年)に豊後国大野荘で他阿に会うなどして入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになる。

 

さらに各地を行脚し、弘安2年(1279年)には伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。弘安3年(1280年)に陸奥国稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。

 

弘安5年(1282年)には、鎌倉入りを図るも拒絶される。弘安7年(1284年)に上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なう。弘安9年(1286年)、四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や當麻寺、石清水八幡宮を参詣する。弘安10年(1287年)は圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣する。

 

文永11年(1274年)以来14年の遊行を経て、正応元年(1288年)には瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻り、菅生の岩屋へ巡礼、繁多寺に3日間参籠して浄土三部経を奉納、1216日一遍一行は3艘の船に分乗して、今治の別宮大山祇神社付近から大三島へ渡海、河野氏の氏神である大山祇神社に3日間参籠後、今治に戻る。

 

正応2年(1289年)1月下旬に大山祇神社の供僧長観(124日)、地頭代の平忠康(27日)など複数の大山祇神社関係者に一遍を招待すべしとの夢告があり、25日大山祇神社の社人が招請のため二十余艘の船団で別宮へ渡海、招かれた一遍一行は26日再度大山祇神社参詣、29日大山祇神社の桜会(さくらえ)に参列して魚鳥の生贄を止めるよう懇請。

 

その後で善通寺、曼荼羅寺を巡礼、61日阿波の大鳥の里の川辺で発病、7月初めに淡路に渡り大和大国魂神社、次いで志筑神社に詣でて結縁した後、718日明石に渡り、死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51歳(満50歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で旧暦823日午前7時ごろ 没し、15年半の遊行を終えた。死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられる。

2026/03/19

【WBC2026】ベネズエラがアメリカを破り初優勝(日本は準々決勝敗退)

■準々決勝

〇ドミニカ共和国 10―0 韓国●

1次リーグは「やっとこさ2勝2敗」ながら「タナボタ」で準々決勝に進出した韓国と、優勝候補の一角に挙げられるドミニカ共和国との対戦は「順当に」ドミニカが圧勝。そもそも韓国の実力は3A以下だろうし、準々決勝の顔ぶれの中で圧倒的に格落ちだから、メジャーリーガーが揃うドミニカの相手ではなかった。

 

〇アメリカ 5-3 カナダ●

こちらもバリバリのメジャーリーガーを揃えたアメリカだが、カナダ相手に予想以上の苦戦をした。1次リーグ最終戦でもイタリアに打ち負けるなど、アメリカの調子がイマイチの感は否めない。

 

〇イタリア 8-6 プエルトリコ●

イタリアが激しい打撃戦を制し、ヨーロッパ勢として唯一かつ初の準決勝進出を決めた。

 

〇ベネズエラ 8-5 日本●

連覇を狙う日本はベネズエラのパワーに屈した。

 

1回表、ベネズエラに先頭打者本塁打が飛び出すも、その裏すかさず大谷が先頭打者本塁打の返礼で同点に追いつく。1点リードされた3回裏には、代打森下の3ランなどで4点を奪い、5-2とリードした。

 

これで日本ペースになるかと思われたが、中盤からはメジャーリーガーを揃えたベネズエラがじわじわと底力を発揮し、日本の繰り出す自慢の投手陣を打ち砕く。一方、日本打線は中盤以降は凡打の山を築き、これといった見せ場も作れずにあっけなく敗退。

二連覇を目指した日本だったが、前回大会では胴上げ投手となった大谷が最後の打者となるという、これ以上ない皮肉な結末となった。

 

■準決勝

○アメリカ 2-1 ドミニカ共和国●

ここまで5試合で51得点と猛威を振るったドミニカ打線も、アメリカの前に1点しか取れず惜敗。アメリカは2大会ぶりの優勝に王手をかけた。

 

〇ベネズエラ 4-2 イタリア●

ベネズエラが逆転の勝利。イタリアは予選でアメリカに勝つ大金星を挙げ、ヨーロッパ勢で唯一準決勝に進出したものの決勝進出はならず。

 

■決勝

〇ベネズエラ 3-2 アメリカ●

準々決勝で日本を破ったベネズエラがアメリカに勝って初優勝。

 

準決勝、決勝の3試合は、どれもが接戦となった。

 

ドミニカは、1次リーグでベネズエラに勝った。そのドミニカにアメリカは準決勝で勝ったが、決勝でベネズエラに負けた。さらにイタリアも1次リーグでアメリカに勝った。

こうしてみると4強に進んだ各チームは、それぞれがもう一度戦ったら、どっちが勝ってもおかしくないくらい実力が拮抗しているのではないか。

 

翻って日本代表はといえば、6大会目にして初めて準決勝進出を逃した。

確かにこれまでの大会とは違い、以前はメジャーリーガーを出し惜しみしていた各国が一流のメジャーリーガーを揃え、ようやく「本気に」なってきた。それだけに、そう簡単には勝てなくなっているのは事実で、メジャーリーガーの少ない日本の準々決勝敗退は決して「番狂わせ」ではなく、実力通りとは言えなくもない。

 

それよりも、ワタクシの疑問は

「なぜ代表監督が、監督経験のない井端なのか?」

である。

 

別に個人攻撃をするつもりはまったくない。ただ、代表監督をだれが決めているのかは知らぬが、どう考えても「わざわざ監督経験のない人物を監督に抜擢した」料簡は、まったく理解不能である。

 

確かにベネズエラは強かったとはいえ、日本にも勝つチャンスが十分にあった。あるいは短期決戦の戦い方を知悉した指揮官なら、違った結果になっていたかもしれない。

 

思えば今大会は、1次リーグから苦戦続きだった。

初戦の台湾戦だけは大勝したものの、続く韓国、オーストラリア、チェコと思わぬ苦戦の連続で、特に「最弱」と思われたチェコ戦も結果は9-0だが、7回までは0-0だった。いかにメンバーを落とした戦いだったとはいえ、アマチュア相手にここまでの苦戦は想定外と言える。

 

試合を重ねるごとに投手陣がほぼ総崩れとなったのは、単純にメジャーリーガーを抑えるだけの力がなかったのだろうが、打つ方では近藤、岡本、牧ら結果が出ていない選手に拘り続けるなど疑問を感じる采配が多かった。

 

短期決戦の戦い方は難しいといわれる。長いシーズンなら最終的には実力がモノをいうだろうが、短期決戦は違う。ましてやWBCの決勝トーナメントとなると、負ければ終わりというシビアな戦いだ。そんなことはド素人でも百も承知のことなのに、なぜ国際舞台での短期決戦はおろか、監督経験すら皆無の人物を敢えて抜擢したのか理解に苦しむのである。