2026/03/25

一遍(2)

思想と評価

一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導いた。その教理は他力による「十一不二」に代表され、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時衆である。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と説いた。

 

阿弥陀仏以外の地蔵菩薩や薬師如来などを信ずることは雑修とする立場であったが、「聖絵」によれば一遍は14の神社に参詣して結縁した。

 

一遍の神祇観は

「専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」

との言に代表され、神明すなわち日本の神をあがめ、神の本地である仏の徳を拝することは専修念仏の妨げとはならないというものであり、熊野権現の神託や鹿児島神宮(大隅正八幡宮)での神詠も受け入れた。

 

浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。念仏を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であり、一遍が関わる人のみならず、ひとりでも多くの人が往生できるように(一切衆生決定往生)との願いを込めた安心の六八の弘誓(ぐぜい)「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算した。

 

「六十万人」とは一遍作の頌

「六字名号一遍法 十界依正一遍躰 万行離念一遍証 人中上上妙好華」

の最初の文字を集めたものであり、一切衆生の名であり、まず60万人の衆生に賦算し、しかる後にさらなる60万人に賦算を繰り返すということであり、一遍製作の算を受け取り勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという。大橋俊雄は、この算を一遍が極楽往生を保証する浄土行きの電車の切符と例えた。

 

寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、「我が化導は一期ばかりぞ」との信条を貫き、入寂の13日前の正応2810日の朝に、所持していた書籍のうち少数を書写山の僧に託して奉納した後、手許に残した自著および所持書籍すべてを「阿弥陀経」を読み上げながら自ら焼却し、「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言して教学体系を残さなかったという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。

 

和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述は、後世のものと考えられる。「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教者の系統に属することが指摘できる。

 

一遍の踊念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近い。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、男女の踊り手(一遍の同行者は20から40人おり、ほぼ半数は尼僧だった)が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だった。その過激な狂乱状態は、保守的な人々からは反発を受けた。例えば六条有房の『野守鏡』では、法悦状態で服を脱ぎ罵詈雑言を叫ぶ踊念仏の見苦しさに対する強烈な批判が述べられている。

 

有名な法語、和歌

旅ころも 木の根 かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき(時宗宗歌となっている)

身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし 命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ

生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり

夫れ、念佛の行者用心のこと、示すべき由承り候。南無阿彌陀佛と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸々の智者達の樣々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に對したる假初の要文なり。されば念佛の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念佛すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。是れ誠に金言なり。念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善惡の境界、皆淨土なり。外に求むべからず。厭ふべからず。よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念佛し給ふべし。念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。彌陀の本願には缺けたる事もなく、餘れる事もなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。南無阿彌陀佛。

世の人おもへらく、自力他力を分別してわが体をもたせて、われ他力にすがり往生すべしと、云々。この義しからず。自力他力は初門のことなり。自他の位を打ち捨てて唯一念仏になるを他力とはいふなり。

 

時宗教団の成立

門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟ともいう聖戒や、2歳年上の他阿(真教)らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死後、自然解散した時宗を他阿が再編成したのが起源である。

 

ゆかりの文化財

その生涯は国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)があますところなく伝える。『遊行上人縁起絵』(宗俊撰述、別名:一遍上人絵詞伝、一遍上人縁起絵)は、他阿が描かせたものである。『一遍上人語録』は、江戸期に編纂された。当麻無量光寺(神奈川県相模原市)、東山長楽寺(京都市東山区)に木造立像がある(宝厳寺も木造一遍上人立像(重要文化財)を所蔵していたが、2013810日の本堂火災で焼失)。

 

廟所は真光寺にあり、律宗の影響が指摘される巨大な五輪塔である。阪神・淡路大震災により倒壊し、中から骨灰が現れたことで、実際の埋納が確認された。無量光寺にもそれを分骨したと伝えられる墓塔があるが、信者により削り取られ、原形を留めない。

 

一遍の笈(おい)は3個が現存するとされ、群馬県安中市の聞名寺が所蔵する1つが群馬県指定重要文化財となっている。

 

また手許の経典の一部は、死の13日前に書写山の僧に預けた。一説には、それが近世に書写山側から遊行上人に託され、現在清浄光寺に眠るともいわれるが、真偽のほどは明らかとなっていない。

 

なお、長野県佐久市の「跡部の踊り念仏」は、一遍上人ゆかりの古い姿を伝えているとして、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また佐久市にある時宗の金台寺所蔵の「紙本著色一遍上人絵伝 巻二」と「紙本墨書他阿上人自筆仮名消息」は国の重要文化財。同寺の鎌倉時代の梵鐘は、一遍上人ゆかりの品とされ佐久市有形文化財。

 

諱について

一遍の諱は時氏と主に言われているが、時氏の兄・通秀や、通秀か時氏の系譜的位置で通尚とも言われている[要出典]

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