2024/09/30

アステカ神話(2)

建国神話

ウィツィロポチトリの誕生

ウィツィロポチトリはメシカの守護神であり、その母はコアトリクエである。コアトリクエがコアテペトル(ヘビの山)の上の神殿で掃除をしていたとき、天から羽根が落ちてきた。その羽根の力で、コアトリクエはウィツィロポチトリを妊娠した。コアトリクエの娘であるコヨルシャウキと、400人の兄弟は母親の不品行に怒って山に攻め登ってきたが、ウィツィロポチトリが武装して誕生し、シウコアトル(火のヘビ)でコヨルシャウキを攻撃した。ウィツィロポチトリはコヨルシャウキの体をバラバラにして山の上から落とし、400人の兄弟を打ち破った。

 

メキシコ盆地への移住

メシカの伝説では、4つの集団が外部からメキシコ盆地にやってきた。最初の集団はチチメカ、2番目がテパネカ、3番目がアコルワ、4番目がメシカであった。ディエゴ・ドゥランによると、メシカは洞窟あるいは泉から生まれ、アストランと呼ばれる所に住んだ。アストランの位置は明らかでないが北方にあり、テノチティトランと同様に湖の中の島だった。アステカという名前はアストランに由来する。

 

アストランからの移住については、文献によって大きく異なる。あるいは人々はアストランを離れてチコモストク(7つの洞窟)という所に至り、そこでテパネカ、アコルワなど7つの部族に分かれて南下したともいう。

 

ウィツィロポチトリに導かれた集団は民族名としてメシカを名乗り、長い年月をかけてメキシコ盆地にやってきた。しかしメシカは最後にやってきたために、先にこの地に住んでいる集団と軋轢を起こした。メシカははじめテスココ湖の西のチャプルテペクに住んだが、戦いに敗れて追いだされた。それから南のコルワカンの領主に従属して、ティサアパン(今の大学都市附近)に住むことを許された。コルワカンは、トルテカ以来の高い文化を持つ都市だった。しかしコルワカンの支配層の娘をウィツィロポチトリの生贄にささげたためにコルワカンの人々を怒らせ、そこを追いだされてテスココ湖の中の無人島まで逃げた。

 

彼らが島に上陸したとき、彼らはノパル(オプンティアに属するサボテン)に一羽のワシがとまっているのを見た。この光景は、ウィツィロポチトリの神官が幻影に見た目的の地であると見なされた。メシカはそこに都市を築いた。これは2の家の年(通常1325年と解釈される)のことだった。これがテノチティトランであり、今日のメキシコシティの中央部にあたる。この伝説は、現在のメキシコの国旗やメキシコの国章に描かれている。

 

神々

アステカ神話の神々はさまざまな由来を持ち、その数は非常に多い。1971年に人類学者ヘンリー・ニコルソン (H. B. Nicholson) 129の神々をまとめて14の群に分類し、それぞれ代表的な神によって名づけた。その分類によると、

 

ü  天上の創造神、父なる神

ü  オメテオトル群 - 原初の神。神々を創造した。オメテクトリとオメシワトル、あるいはトナカテクトリとトナカシワトルが含まれる。

ü  テスカトリポカ群 - 万能の神で王の守護神。イツトリ、チャルチウトトリン、テクシステカトル、テペヨロトルなどがここに属する。

ü  シウテクトリ群 - 健康と火の神。ウェウェテオトル、女神チャンティコおよびコヨルシャウキもここに属する。

ü  雨、水蒸気、豊穣の神

ü  トラロック群 - 雨と豊穣の神。

ü  センテオトル群 - トウモロコシの神。ショチピリ、マクイルショチトルなどがここに属する。トウモロコシの神には、ほかにチコメコアトルとシロネンがある。

ü  オメトチトリ群 - プルケ、リュウゼツラン、豊穣の神。400匹のウサギ(センツォン・トトチティン)のひとり。マヤウェルもここに属する。

ü  テテオ・インナン群 - 大地と豊穣、癒し、妊婦の女神。ショチケツァル、トラソルテオトル、シワコアトル、コアトリクエ、ツィツィミメなどの女神もここに属する。

ü  シペ・トテック群 - 豊穣神、金細工職人の守護神。戦争、犠牲、血、死の神

ü  トナティウ群 - 太陽神。

ü  ウィツィロポチトリ群 - 戦争、犠牲、太陽の神。メシカの守護神。

ü  ミシュコアトル群 - 戦争、犠牲、狩猟の神。

ü  ミクトランテクトリ群 - 死、地下世界、闇の神。その他

ü  ケツァルコアトル群 - 創造、豊穣、金星、風の神。神官の守護神。風神エエカトルはケツァルコアトルのひとつの姿とされる。

ü  ヤカテクトリ群 - 商業神。商人(ポチテカ)の守護神。

2024/09/25

天智天皇(1)

天智天皇(てんじてんのう / てんぢてんのう、626年〈推古天皇34年〉- 67217日〈天智天皇10123日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668220日〈天智天皇713日〉- 67217日〈天智天皇10123日〉)。

 

諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。

 

また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。中臣鎌足と共に大化の改新を行った事などで知られる。

 

生涯

大化の改新と即位

舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄の古人大兄皇子の娘の倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。

 

645710日(皇極天皇4612日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父の蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行った。また、有間皇子など有力な勢力に対しては種々の手段を用いて、一掃した。

 

百済が660年に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子の扶余豊璋を送り返し、百済救援を指揮するために斉明天皇と共に筑紫の朝倉宮に滞在したが、661824日(斉明天皇7724日)斉明天皇が崩御し、百済復興を図って663年に白村江の戦いを起こすも敗戦した。

 

その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。

663828日(天智天皇2720日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、667417日(天智天皇6319日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、668220日(天智天皇713日)、ようやく即位した。

 

668410日(天智天皇7223日)には、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、67112日(天智天皇91116日)に第一皇子の大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、6711123日(天智天皇101017日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので、代わりに大友皇子を皇太子とした。

 

白村江の戦い以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。

 

中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り、671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。671年での日付(425日)に対応するグレゴリオ暦 (ユリウス暦ではないことに注意)の610日は、時の記念日として知られている。

 

崩御とその後

6691113日(天智天皇81015日)、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。

 

67110月(天智天皇109月)、病に倒れる。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。67217日(天智天皇10123日)、天智天皇は近江大津宮で崩御されたとの云われがある。(『扶桑略記』では、天智天皇は山中で行方不明になったと記されており、これらには四国の山中での崩御説や天武天皇側による暗殺説などがある)。

 

天智天皇は、大友皇子の側近として蘇我赤兄・中臣金・蘇我果安・巨勢比等・紀大人を選んでいるが、これは息子かつ次期天皇候補の側近の数としてはかなり少ない。これは、乙巳の変以来、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまったからである。

 

天武元年(672年)626日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、その時には既に大化前代以来のマヘツキミ合議体は、その機能を完全に喪失していたと見られる。

 

天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかったとされる(『日本書紀』)。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において、大海人皇子が大友皇子に勝って即位して天武天皇に成る。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。

 

称徳天皇崩御後に、天智天皇の孫の白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇が誕生した。以降は天智系統が続く。

 

弟の大海人皇子から額田王を奪ったので、自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている[要出典]

2024/09/24

最澄(1)

最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉 - 822年〈弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。

 

生涯

最澄の生まれについての記録は、最澄没後に記された伝記類によるものと、存命当時の公文書類によるものの2つがあり、若干の齟齬がある。

 

最澄の父は『叡山大師伝』は三津首百枝(みつのおびとももえ)と記し、宝亀11年(780年)の『国府牒』によれば父(戸主)は三津首浄足(きよあし)で、身分は正八位下、副知事のような地位であったとされる。本貫は、『国府牒』は近江国滋賀郡古市郷と伝えるが、天台宗の伝承によると大津市坂本の生源寺の生まれであったとされる。三津首について天台宗が最澄を讃える『伝教大師和讃』や『叡山大師伝』では後漢皇帝の子孫、登万貴王の末裔としている。

 

最澄の母は10世紀成立の『伝教大師由緒』は藤原鷹取の娘で藤子とし、『青蓮院門跡系譜』は応神天皇9世の孫とするが、いずれも後世の言い伝えで史実性は不明である。『叡山大師伝』は、両親は子に恵まれなかったが比叡山の神宮で祈請したところ最澄を身籠ったと記す。

 

最澄の生まれ年にも2説ある。『叡山大師伝』などが伝える没年齢によると神護景雲元年(767年)生まれであるが、『国府牒』『度牒』『戒牒』といった最澄が官僧になる際の公文書によると、天平神護2年(766年)生まれである。この2説について専門家の意見は統一を見ていないが、戸籍上は766年生まれであったが、最澄自身が767年と考えていたという説もある。

 

『国府牒』などによれば、最澄の幼名は広野(ひろの)。伝記には幼い頃に小学という初等教育機関で「陰陽、医方、工巧などを修める」など非凡な才を見せ、7歳の頃に仏道を志すと伝える。

 

出家

『国府牒』は、近江国分寺僧に欠員ができたので広野を得度させるよう指示した公文書である。これによれば、この頃の広野は『法華経』『最勝王経』『薬師経』『金剛般若経』などを読むと記される。当時の例にもれず、広野も優婆塞として3年ほど国分寺で雑用や奉仕をしつつ、経典を学んでいたと考えられる。

 

宝亀11年(780年)1112日に、広野は近江国分寺にて得度を受け沙弥となり、最澄と名付けられる。それ以降、近江国師の行表に師事するが、のちに最澄は行表から禅宗を教えられたとしたうえで、教えについて「心を一乗に帰すべきこと」と『内証仏法相承血脈譜』に記しており、師の教えがその後に最澄の求める仏教のあり方を方向づけたと思われる。つづいて延暦4年(785年)46日に東大寺戒壇院で具足戒を受けて比丘となる。

 

比叡入山

ここまで官僧として順調に歩を進めた最澄だが、具足戒を受けてほどない延暦4年(785年)7月中旬に比叡山に籠る。『僧尼令』には

「禅行修道あって、心に静寂を願い、俗に交わらず、山居を求めて服餌せんと欲すれば、三綱連署せよ」

とあり、最澄もこのような公的な手続きを踏んで入山したと考えられる。『叡山大師伝』によれば、まず比叡山麓の神宮禅院で懺悔の行を修め、つづいて『願文』を著したとされる。

 

(前略)伏して願わくば、解脱の味、一人飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく、妙味を服せん。(後略)

最澄、『願文』

 

この願文から、最澄は自らも大乗経典に出る菩薩のようになることを志していることが分かる。『叡山大師伝』は、この願文を読んだ内供奉の寿興と最澄が固い交わりを結んだとする。

 

『叡山大師伝』によると、延暦7年(788年)に比叡山に小堂を建て自刻の薬師像を安置した。場所は現在の根本中堂の位置とされ、後に一乗止観院と称する。そこに籠った最澄は『法華経』の研究を重ね「智顗の教学にふれて、天台の法門を得たい」と思い至る。そしてあるとき天台法門の所在を知る人に邂逅し、鑑真が将来した経典を写しとることができたとされる。

 

延暦10年(791年)1228日に最澄は修行入位という僧位を授かる。のちに伝燈位を授かる最澄だが、修行位を授かった事は当時の最澄の評価の一面と考えられる。『天台霞標』によれば、延暦16年(797年)1210日に内供奉の欠員を補うためにこれに任ぜられた。内供奉は宮中の内道場で読師などを行う僧で10名が定員。欠員ある場合は清行の者で補い、任期は生涯であった。前述のように寿興と交流があったことから最澄が推薦されたと考えられる。

 

延暦16年(797年)に最澄は比叡山に一切経を揃える写経事業を発願する。弟子たちに写経をさせたほか、助力を請うため南都諸寺に願文を送っている。この呼びかけに答えたのが、大安寺の聞寂や東国の道忠である。延暦寺浄土院に2巻のみ現存する『華厳要義問答』は延暦18年に行福という僧が写経したと記されるが、この時の経典とされている。なお道忠の門弟には円澄、円仁が居る。延暦17年(798年)10月に法華十講の法会を行う。これは最澄が法華三部経の講義を行ったとされ、毎年行われた。さらに延暦20年(801年)1124日には、南都各宗の高僧に呼びかけ法華十講を催している。

 

最澄が比叡山に籠った理由は定かではないが、入山後も官僧としての務めを果たし南都各宗とも交流を持っていることは明らかであり、「既存の仏教に嫌気がさし」などの後ろ向きな理由ではなかったと考えられる。

 

高尾講会

延暦21年(802年)に和気弘世が氏寺の高尾山寺催した天台法門の講会で、最澄も招かれ講師を務める。この講会について『叡山大師伝』は、一乗仏教興隆の為と記している。また『伝述一心戒文』などには桓武天皇の意思によって催されたと記されるが、史実性は疑わしい。しかし、この法会の事を聞いた桓武天皇が天台一乗興隆を発願し、同年97日に弘世を詔問し、弘世は最澄に相談したとされる。

 

この時代、仏教宗派は南都六宗に限られていた。特に法相宗と三論宗に多くの学生が集まり、延暦21年正月(802年)の太政官符に「三論、法相、彼此角争」とあるように両宗が衝突していた。こうした抗争を収束させたい朝廷は、新しい仏教界の秩序作りを目指す仏教政策を取る事となり、結果として天台宗の開宗が後押しされたと考えられる。

2024/09/19

壬申の乱(2)

白村江の敗戦

天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。

 

近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。

 

額田王をめぐる不和

天智天皇と大海人皇子の額田王(女性)をめぐる不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は、『万葉集』に収録されている額田王の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推察した。

 

異説・俗説

房総における伝説

千葉県には、大友皇子が壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びたとする伝説があり、それに関連する史跡が数多く存在する。

 

中心となるのは、君津市俵田の白山神社である。皇子はこの地に落ち延び、「小川御所」を営んで暮らしていたが、大海人皇子が差し向けた追討軍による急襲を受けて死亡したとされる。周辺の同市戸崎には、皇子に付き従った7人の侍を葬った「七人士の墓」が存在するほか、皇子とともに房総に下ったとされる蘇我赤兄を祀った飯綱神社が同市末吉にある。

 

また、残された后の十市皇女は山を分け入って大多喜町筒森の「限りの山」にたどりついたものの、その地で難産(流産)の末亡くなったとされ、地元の里人がこれを哀れに思い、大友皇子と十市皇女の霊を手厚く弔い社を建てたのが筒森神社である。

 

九州主戦場説

九州王朝説では、壬申の乱は九州が主な戦場であるとする説もある。それによると、倭京は太宰府、大津京は肥後大津のことであり、難波は筑後平野に在ったと考えられるという。

 

阿波説

大和朝廷の前身としての邪馬台国は阿波で成立し、大和朝廷は710年(和銅3年)に奈良の平城京に遷都するまで阿波にあった、と解する阿波説では、壬申の乱は、鳴門市大津町と三好市三野町加茂野宮(吉野宮跡)との間で行われた戦いであり、鳴門市大津町と三好市三野町加茂野宮との間の吉野川北岸の東西ほぼ全域にわたって、日本書紀に見える壬申の乱に関わる地名が揃っている。

 

ü  粟津(滋賀県大津市膳所):鳴門市里浦町粟津

ü  大津宮(滋賀県大津市):鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野

ü  宇陀(奈良県宇陀市榛原町):鵜の田尾(阿波市土成町)鵜峠(宮川内街道:阿波市土成町~讃岐白鳥)

ü  鈴鹿(三重県鈴鹿市):鈴川、鈴川谷川(阿波市土成町樫原の東を流れる川)

ü  桑名(三重県桑名市):久王野(山)(阿波市土成町と市場町の境)

ü  安八幡(岐阜県安八郡):粟島(吉野川にある日本最大の川中島、現善入寺島、阿波市市場町粟島(旧粟島村))

ü  大野(奈良県宇陀市室生大野):阿波市市場町大野島

ü  尾張(愛知県):阿波市市場町尾開(旧尾開村)

ü  倭京(奈良県高市郡明日香村):阿波市市場町奈良坂(現「若宮皇太神宮」の鎮座する平山台地)

ü  不破道(岐阜県不破郡):阿波市市場町大門(讃岐の難波郷(香川県さぬき市津田町・大川町辺り)に通じる奈良街道(日開谷街道)入口

ü  乃楽山(奈良県北方の丘陵地帯):阿波市市場町奈良街道沿いの城王山(旧名大奈良山)

ü  美濃(岐阜県):阿波市市場町上喜来の美濃谷(川)(他に「美濃王」(東みよし町美濃田の勇者)、「三野王」(三好市三野町の勇者))

ü  伊勢(三重県):阿波市阿波町伊勢

ü  高安城(奈良県生駒市と大阪府八尾市の境の高安山):大滝山(美馬市脇町と香川県塩江町との境をなす山:地名に「安原上」、「安原下」などが残っている。また脇町は倭城に通じる。)

ü  吉野宮(奈良県吉野郡宮滝):加茂野宮(三好市三野町(旧美野郷))

ü  山崎(諸説あるも京都府乙訓郡大山崎):鳴門市撫養町木津に字名で旧「山崎」が存在

 

日本書紀によれば、672624日、大海人軍は吉野宮を出発し「大野に到りて日落れぬ」とあるが、大海人皇子がこの戦いで戦勝祈願をしたのが阿波市市場町大野字山野上の大野寺で、三好市三野町加茂野宮の吉野宮から約30km東にあり、吉野川の川筋を下れば一日で充分進める距離である。この大野寺は天智天皇の勅願にかかる古刹であり、徳道山灌頂院と号しているのは、天武天皇が出家し「陛下の為に功徳を修はむ」として仏門に入り、壬申の乱に及んで戦勝を祈願したことに因んで冠したものと思われる。阿波の徳道山灌頂院大野寺と奈良の楊柳山慈尊院大野寺の、寺院にとって何より重要な山号を比較すれば、壬申の乱の舞台が阿波であることは一目瞭然である。

 

また、桓武天皇が延暦13年(794年)10月に平安京に遷都した後の11月、それまでの「古津」を「大津」に改めているので、平安遷都より100年以上も前の天智6年(667年)に、天智天皇が「後飛鳥岡本宮」から遷都した「大津宮」が滋賀県の「大津」であることなどありえない。天智天皇の「淡海の大津宮」は鳴門市撫養町木津の金毘羅神社・長谷寺一帯であり、淡海(あふみ)とは阿波の海のことで、淡水に海水が流れ込む阿波吉野川下流域から鳴門海峡を巡って讃岐の難波郷(香川県さぬき市津田町・大川町辺り)までの海を指し、「阿波海(あわうみ)」が「淡海(あふみ)」と表記されたものである。

 

通説は「淡海(あふみ)」を琵琶湖のこととしているが誤りである。本居宣長も「あふみ」は「阿波宇美が切(つづ)ま」ったものと説いている。鳴門市撫養町木津の天智天皇の「淡海の大津宮」より古代櫛木街道を越した、現在の鳴門市北灘町粟田には葛城神社があり、祭神は天智天皇である。また、葛城神社の別当寺である長寿寺は天智天皇と中臣鎌足の伝記「阿州葛城山記」(版木)を伝える。それによると、天智天皇が巡幸の時に馬が呉竹に足を取られて落馬し右目を痛めて鎌足の介抱で事なきを得たという。以来、葛城山には呉竹を生やさず馬の飼育を慎んだとされる。このような天智天皇の故事を伝える長寿寺の版木の存在は、天智天皇が阿波に住んでいた何よりの証左である。

2024/09/18

不二一元論(シャンカラ)

不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット: अद्वैत वेदान्तAdvaita Vedānta、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である。

 

哲学

ブラフマンが「未展開の名称・形態」を展開することで、虚空から風、風から火、火から水、水から地の順番で五大が展開し、五大より身体が生じ、ブラフマンはアートマンとしてこの身体に入る。よって、アートマンは物質的な身体とは全く異なるが、人の個我(アートマン)はブラフマンと同一・不異である。

 

「未展開の名称・形態」は、何とも言いあらわすことのできない未確定・未分化の状態にあるもので、物質的であり、純粋精神であるブラフマンと本質を異にするが、ブラフマンの中にあり、ブラフマンから独立した存在ではない。「未展開の名称・形態」から展開した諸現象・物質的な現象世界は、無明(アヴィディヤー、無知)によって仮にあるように見える虚妄、真実には存在しないマーヤー(まぼろし)のようなものである。

 

シャンカラの思想の中で無明が占める意味は大きいが、彼は著作の中で十分な論理的説明を行なわず、無明とは付託(adhyāsa 増益)であり、「付託とは前に知覚された甲が、想起の形で、乙の中に顕現することである」と簡潔に定義するのみだった。

 

現象界の万物の本体は平等であるが、高下・善悪などの様々な違いがある(差別相、しゃべつそう)。人が経験する現実では、多数の個我があるように見える。人は、統覚機能などのアートマンではない諸属性をアートマンであると思い、アートマンとブラフマンは別であると考える。こうした誤りは無明によるもので、無明によって人は迷い、自分という中心主体があるのだと思う。アートマンと非アートマンを区別できないことが、輪廻から抜け出せない原因である。

 

ブラフマンだけが唯一で不二の実在者であり、これが真実である。誤った付託を滅し、アートマンを正しく認識し、個我(アートマン)がブラフマンと同一で、現象界が実在しないマーヤーであると悟ることで(明知)、無明は退けられる。これにより個我による縛りはなくなり、解脱が果たされる。

 

知識のみが解脱の手段であり、一切の行為は無明に基づいているため、解脱の手段にはならないとして否定した。知識と行為の両方が解脱に必要であるという知行併合論を退けたが、行為は心の浄化に相対的・間接的には役立つため、明知を得るまでは実践すべきとした。

 

概要

経典『ブラフマ・スートラ』が成立してからシャンカラが活躍する時代までに、ヴェーダーンタ学派の思想は仏教の影響を受けて大幅に変質した。シャンカラは仏教化したヴェーダーンタ哲学を、原点であるウパニシャッドに立脚して本来の在り方に改革しようとしたが(シャンカラは、天啓聖典は疑い得ないもので、唯一の正しい知識根拠であるとする伝統主義者であり、ブラフマン=アートマンという知識は天啓経典に依るとする)、仏教的要素を排除することはせず、仏教的要素にヴェーダーンタ的解釈を施して取り込む形をとった。これにより、実在論的ブラフマン一元論であったヴェーダーンタ哲学は、幻想主義的ブラフマン一元論へと変容した。

 

シャンカラの思想はヴィヴァルタ・ヴァーダ(仮現説)と呼ばれるもので、大乗仏教の唯識派の説く万法唯識・阿頼耶識の思想などと類似がある。そのため、他派からは「仮面の仏教徒」と批判も受けた。

 

シャンカラは、『ブラフマ・スートラ』における一元論の論理の不徹底さという問題を解決すべく、新たに「未展開の名称・形態」と無明(アヴィディヤー、無知)の概念を導入した。「未展開の名称・形態」を世界の種子と考え、一切の物質的なものの原因と見做したため、サーンキヤ学派の根本物質に相当するとも見え、サーンキヤ的な二元論に近づいている。「未展開の名称・形態」から展開した現象世界は無明に起因するマーヤー(幻影、まぼろし)にすぎず、ブラフマン=アートマンのみが真実であり実在するという幻想主義的ブラフマン一元論を唱え、二元論に陥ることを避けた。

 

無明の本質を構成するものについて、シャンカラ以後のヴェーダーンタ学派では様々な議論を行い、またブラフマンと個我の関係、ブラフマンと現象世界の関係についても考察されて様々な学説が生まれることとなった。

 

シャンカラの思想は、『ブラフマ・スートラ注解』などの著作に記されている。彼の主要な著作は注釈文献であるが、注釈でない真作と考えられるものに『ウパデーシャ・サーハスリー』がある。他にもシャンカラの著作とされるものは膨大にあるが、大部分は偽作と考えられている。

 

スーフィー(イスラム神秘主義)にはヴェーダーンタ起源説、仏教起源説があり、シャンカラの系統の幻想主義的一元論と、スーフィーの思想には類似が見られる。スーフィーにおける「存在の唯一性」と「経験の唯一性」の論争も、シャンカラの系統のヴェーダーンタ哲学と共通している。

 

近現代では、イギリス領インド帝国下でのヒンドゥー教改革運動に始まるネオ・ヴェーダーンタと呼ばれる潮流がある。イギリスの神秘思想団体エコノミック・サイエンス派、ニューエイジのバイブル的存在であるアメリカの『奇跡講座』の思想、アメリカの思想家ケン・ウィルバーのトランスパーソナル心理学にも顕著な影響が見られる。