2019/01/29

十二因縁(釈迦の思想17)



釈迦の時代には、バラモン教の教えとしての「輪廻の論」がありました。これは人間世界での生のあり方、つまり人間の「身分世界での輪廻」に限られていましたけれど、後代になって仏教的に「六道輪廻の説」として体系化されました。釈迦自体はバラモン教のレベルのものであったでしょうが、後世の輪廻論は有名ですので簡単に紹介しておきます。

それによると、この世界は六つの世界からなり、上から「天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄」となっています。

」は、人の世界にあって正しい生活をしたものが行く世界で、平安・安楽な世界でしかも人間世界の何十、何百倍も長いとされます。しかし問題は、やっぱりここも終りがあるということでした。一説によると、その死の苦しみは人間界での死なんかとはくらべものにならない苦しみであるという。つまり、ここにも「本当の平安」はなかったのです。

」の世界は知っての通り苦難の連続で「四苦八苦」の世界です。

阿修羅」の世界は、この地上で自分の正義だけを主張し他者を顧みることをしなかったものが落ちる世界で、結局血で血を争う「血の世界」です。

畜生(動物)」の世界も知っての通り、弱肉強食の世界です。

餓鬼界」は一種の地獄で、欲望深かったものが落ちる所です。ここにあっては絶え間ない飢えと渇きに、腐ったものや糞などの汚物を食らいまた飲むが、決して飢えや渇きが止まることがないという世界です。

地獄」は言わずもがなで、長い長い時をただ苦しみもがくことのみの世界です。

こんなんではたまったものではないわけで、仏教の基本の問題はこうした悲惨な輪廻の世界にあってどこに「真実の平安」を見出だすか、にあったのです。仏教の始祖「お釈迦様」の問題は、そういう性格を持っていたのです。

仏陀
仏陀というのは、こうした問題において、苦しみ・悲惨の原因を悟り、真実を悟り、結果として輪廻の世界の実相を悟って、これを「苦しみの世界としない境地」に至った人のことを言います。つまりは「悟りを開いた人間」ということでした。したがって、本来「」のような超越的存在ではないのです。それが後に「仏の世界」にあって人間を救いとってくれる「超越的存在」にされていった、というのが経緯であり、この段階で「輪廻の世界」対「仏の世界」と対置され、あたかもこの世界の「外側」に超越的世界(仏国)が在ると考えられ、「極楽浄土」とか「浄瑠璃世界」とかが想定されていったのです。

こうしてまた、本来「悟りを開いた人」のレベルにあった「仏陀」が「超越的存在」という位置付けになってしまい、「仏による世界構成」「仏による仏国への救済」という思想や「人間と仏との関係」「仏への道のありかた」とかの様々な思想が構築されていくことになったのです。
 
なお、当初は当たり前の話ですが、仏陀は釈迦しかいません。それが後になって、永遠の真理を悟ったものが一人だけというわけはない、という変な理屈からたくさんの仏が想定されていき、ついには「釈迦を中心としない仏教」までが生ずるに至るわけです。

それは後の問題として、先のような問題がお釈迦様の問題であったのですから、この探求はひどく「哲学的」でした
ところが、宗教というのは本来そんなにも「哲学的」である必要はなく、「信仰」の問題として「祈り」に主体があるものです。そして「神」は「始めから」存在していたものであり、この世界の存在の「原因・根拠」という性格をもっています。「哲学」が宗教の中にでてくるのは、その教理を確立する必要が生じた時からのことであり、「後のこと」むしろ「付帯的なこと」なのです。

しかし、仏教はどうも逆だったようで、始め「哲学」としてあったものが(もちろん、かなり宗教的色彩は強いですが)、それが確立して後、その哲学者が「特別視」され「超越的」にされ、その彼が「信仰の対象」となって、そして「宗教」となっていった、といったような具合になっています。

釈迦の思想
 その釈迦の思想は、大きく二つに分けて考えることができます。一つは「縁起の説」でありもう一つは「四諦(したい)の説」です。かなり哲学的ですが、それは上に指摘した事情からです。

縁起説
 この思想の基本的な考え方は、「物事はそれ自身によってそうあるのではなく、他者との関係において、そうなっている」という考え方でした。

イメージ的には、稲の穂を三角錐の形に束ねておいてある図を思ってください。その中の一本たりとも「自分の力」で立っているわけではなく、他のものを取り除けたら必ず倒れます。どの一本も、他のものに支えられて始めて立っているのです。このように、すべてのものは「他者によって支えられて、そういうものとして立っている」、というのがこの縁起の思想であって「茶柱が立って縁起がいい」というのとは違います(もっとも、この茶柱云々も縁起の思想から由来はしています)。

例えば、我々自身にしたって「自らで存在している」わけではなく、まずは両親によって生み出され、衣服、食べ物、住居に支えられ、さらにそれらを供給してくれた太陽、雨などの自然、海や川、山によって支えられて存在しているわけです。

あるいは、「大きいもの」という判断も「小さい」ものがあるからそう判断されているのであり、「重い」というのも「軽い」があるからです。「美しいもの」も「醜いもの」があることによってそう判断されるのです。
結局、あらゆるものは「他者との関係によって、そうある」のです。こうして、この宇宙には「実体(何ものによっても支えられず、自らの存在の根拠を自らのうちに持っているもの)」などない、「無実体」というのが宇宙の在り方だ、とされました。この思想を「」と言います。カラッポということではないので注意してください。
 
こうした縁起の考え方を一つの思想的な形にまとめたのが「十二因縁」の説です。それは次のようになります。

.老死:人間、老いて死ぬ。苦しみの極みである。こんな苦しみの原因はどこにあるか、それは「」にある。
. では、なぜ生まれるのか。それは「」の世界たる輪廻の世界にあるからである。
. では、なぜ輪廻の世界の中を流転するのか。それは、この世界に執着する心「」があるからである。
. では、なぜ執着するのか。それは「欲望」の心、つまり「」があるからである。
. では、なぜ欲望するのか。それは、ある対象を「感受」するからである。
. では、なぜ感受するのか。それは、ある対象と「接触」するからである。
. では、なぜ接触するのか。それは眼・耳・鼻・舌・身体・意識という感覚器官としての「六入」のためである。
.六入 :では、なぜ六入を持つのか。それは人間が精神たる「」と肉体たる「」をもつからである。
.名色 :その人間存在は何に由来しているのか。それは「意識」である。
10. :では、その意識とは何に由来するのか。それは過去、現在の行為によってである。
11. :では、その行為は何に基づいているのか。それは無知・幻想たる「無明」によっている。
12.無明:明らかなるものの無い、無知、幻想。これがすべての原因である。
 
 かくして、無明を滅すれば順次上のものは消えていき、苦しみたる老死もなくなる、という段取りとなります。

この無明を滅するということが「悟る」ということに他なりません。悟りの内容は上に示した「無実体」という宇宙の在り方ということになります。

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