2019/01/30

マウリヤ朝(1)

マウリヤ朝(梵: मौर्यसाम्राज्यम् Maurya-sāmrājya、紀元前317年頃 - 紀元前180年頃)は、古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝である。紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。アショーカ王の時に全盛期を迎え、南端部分を除くインド亜大陸全域を統一した。しかしアショーカ王の死後国家は分裂し、紀元前2世紀初頭、シュンガ朝の勃興により滅亡した。

成立
いわゆる十六大国の中でも最も有力であったマガダ国では、ナンダ朝が支配を確立していた。しかしナンダ朝はシュードラ(カーストの中で最下位)出身であったことから、バラモン教の知識人たちによって忌避されていた。こうした状況下にあって、マガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。これに対しナンダ朝は、将軍バドラシャーラ(Bhadraśāla)を鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領してナンダ朝の王ダナナンダを殺し(ナンダ朝の滅亡)、新王朝を成立させた。これがマウリヤ朝である。

こうしてガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタは、インダス川方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前に、マケドニアのアレクサンドロス大王によって制圧されていたが、アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると、彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。

ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世が、インダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタは、その兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し(セレウコス・マウリヤ戦争)、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせて、インダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。これが直接的な戦闘の結果であるのか、セレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり、判然としない。

紀元前293年頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子ビンドゥサーラが王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は、記録が乏しい。彼はデカン高原方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。ビンドゥサーラの息子に、史上名高いアショーカがいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラーで発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。

アショーカ王
紀元前268年頃ビンドゥサーラ王が病死すると、アショーカは急遽派遣先から首都パータリプトラに帰還し、長兄(スシーマ?)を初めとする兄弟を全て(仏典によれば99人)殺害して王となったと伝えられる。しかし、これは王位継承の争いが後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカ王治世に各地の都市に彼の兄弟が駐留していたことが分かっている。とはいえ、彼の即位が穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式を行ったのが即位の4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠を拒否するものが続出したという伝説などからも窺われる。アショーカ王は、国内での反乱の鎮圧や粛清を繰り返しながら統治体制を固め、紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征を行った。カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。

アショーカ王による最大勢力範囲
ギリシア人メガステネスの記録によれば、カリンガ国は歩兵6万・騎兵1千・戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、マウリヤ朝の中央インド統治にとって最大の障害であった。激戦の末カリンガを征服したが、この時の戦争で多数の人命が失われた(当時の記録によれば、多数の徳のあるバラモンが死に、捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。)。
カリンガ国の征服によって、マウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、アショーカ王はカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、それまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教を深く信奉するようになり、ダルマ(法)による統治を目指すようになったという。

誇張はあるであろうが、アショーカ王が仏教を深く信仰したことは数多くの証拠から明らかであり、実際カリンガ戦争以後拡張政策は終焉を迎えた。仏教に基づいた政策を実施しようとした彼は、ブッダガヤの菩提樹を参拝すると共に、自分の目指したダルマに基づく統治が実際に行われているかどうかを確認するため、領内各地を巡幸して回った。アショーカ王の事跡は後世の仏教徒に重要視され、多くの仏典に記録されている。

滅亡
アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があるが記録が乏しく、その最後はよくわかっていない。チベットの伝説によれば、タクシラで没した。アショーカ王には、数多くの王子がいた。彼らは総督や将軍として各地に派遣されていたが、その多くは名前もはっきりとしない。そして王位継承の争いがあったことが知られているが、その経緯についても知られていない。いくつかの伝説や仏典などの記録があるが、アショーカ王以後の王名はそれらの諸記録で一致せず、その代数も一致しないことから、王朝が分裂していたことが想定されている。

いくつかのプラーナ文献によれば、アショーカ王の次の王は王子クナーラであったが、彼はアショーカ王の妃の1人ティシャヤラクシターの計略によって、目をえぐられたという伝説がある。クナーラ以後の王統をどのように再構築するかは研究者間でも相違があって、容易に結論が出ない問題である。しかし分裂・縮小を続けたマウリヤ朝は、やがて北西インドで勢力を拡張するヤヴァナ(インド・ギリシア人)の圧力を受けるようになった。『ガールギー・サンヒター』という天文書には、予言の形でギリシア人の脅威を記録している。

…暴虐かつ勇猛なヤヴァナはサーケータを侵略し、パンチャーラ、マトゥラーも侵し花の都(パータリプトラ)にも到達するであろう。そして全土は確実に混乱するであろう。…
『ガールギー・サンヒター』

マウリヤ朝最後の王は、仏典によれば沸沙蜜多羅(プシャミトラ)、プラーナ聖典によればブリハドラタであった。これはブリハドラタとする説が正しいことがわかっている。プシャミトラはブリハドラタに仕えるマウリヤ朝の将軍であり、北西から侵入していたギリシア人との戦いで頭角を現していった。そして遂にはブリハドラタを殺害して、パータリプトラに新王朝シュンガ朝を建て、マウリヤ朝は滅亡した。その時期は、紀元前180年頃であったと考えられている。

王朝名の由来
マウリヤ朝という王朝名の由来は、正確には分かっていない。幾つかの伝説やそれに基づく学説が存在するが、現在の所結論は出ていない。

・チャンドラグプタが、パトナ地方のモレ(More)又はモル(Mor)の出身であったことから。
・孔雀を意味する語(マユーラ〈梵: Mayūra〉、モーラ〈巴: Mora〉)から。
・チャンドラグプタの母の名、ムラーから。

この他にも様々な説があるが、いずれも問題が多い。出身地名に基づくという説については、チャンドラグプタの出身地を証明する証拠が何も存在しない。別の伝説では、チャンドラグプタの出身地はヒマラヤの丘陵地帯であるとするものもある。孔雀を意味するという説は後世様々な仏典で採用され、中国語名の孔雀王朝もこれに由来するが、マウリヤ朝が孔雀に何らかの特別な意味を持たせていた証拠はない。単に音声の類似によった俗説である可能性が高い。そして、母名についてもチャンドラグプタの母名が本当にムラーであったか、どうか確認する手立てがないのである。
出典Wikipedia

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