2019/01/26

ディアドコイ戦争(2)

マケドニア王家の凋落
大王の家族は、ペルディッカスの死後アンティパトロスによって、マケドニア本国に戻されていた。そのアンティパトロスの死後、ポリュペルコンとカッサンドロスが対立したことは前述の通りだが、紀元前317年にポリュペルコンがペロポネソス半島へと遠征した留守に、フィリッポス3世の妻エウリュディケ2世がクーデタを起こし、カッサンドロスと結んだ。

これに対してポリュペルコンに同行していたオリュンピアスがマケドニアに戻り、クーデタを鎮めフィリッポス3世とエウリュディケ、及びその與党を粛清した。しかしポリュペルコン派を破ったカッサンドロスが、ペロポネソスから戻るとオリュンピアスは孤立し、翌紀元前316年にカッサンドロスに降伏、処刑された。これによって大王の子アレクサンドロス4世は、その母ロクサネと共にカッサンドロスの保護下に入ることになった。

第三次ディアドコイ戦争(紀元前314-紀元前311年)
アンティゴノスの台頭
小アジアからシリア・メソポタミア北部にかけてを支配したアンティゴノスだったが、その勢力があまりに強大であったため、他のディアドコイとの対立が激化した。紀元前315年、バビロンのセレウコスが、アンティゴノスを恐れてエジプトに逃れたことから事態は表面化し、アンティゴノスはギリシアに渡るための船を得るためにシリアに進攻した。これにより、プトレマイオスとの戦端が開かれ、翌年にはカッサンドロスの支配するギリシアに上陸し、エーゲ海の諸島とペロポネソス半島の大半を制した。一方、プトレマイオスはシリアに進攻、ガザでアンティゴノスの息子デメトリオスの軍を破った(ガザの戦い)。この報を受けてアンティゴノスはギリシアからシリアに移動し、プトレマイオスと対峙した。

バビロニア戦争(紀元前311-紀元前309年)
プトレマイオスの支援を受けたセレウコスがバビロンに復帰したため、アンティゴノスはセレウコス以外のディアドコイと講和し、セレウコスを攻撃した(バビロニア戦争)。しかし、セレウコスはアンティゴノス側のニカノルをティグリス河畔で奇襲し大勝するなど、アンティゴノスのバビロン攻撃を頓挫させた。

マケドニア王家の断絶
マケドニア王家を掌握したカッサンドロスは、大王の妹テッサロニケと結婚していたが、紀元前310年にロクサネとアレクサンドロス4世を暗殺した。いずれもマケドニア王位を狙っていたためと言われている。また零落していたポリュペルコンがアンティゴノスの支援を受けて、大王の庶子ヘラクレスと共にマケドニア入りを目指していたが、カッサンドロスはポリュペルコンに賄賂を贈りつつ説き伏せ、ヘラクレスとその母を殺させた。これによって大王直系の有力後継者が死亡しただけでなく、王位継承権を持つのはカッサンドロスのみという状況になった。

第四次ディアドコイ戦争(紀元前308-紀元前301年)
アンティゴノスの滅亡
アンティゴノスがセレウコスと対峙する間に、プトレマイオスはキプロス島からキリキア(小アジア南部)、さらにはギリシアへと進出した。プトレマイオスの勢力の伸張に対して、アンティゴノスはデメトリオスをギリシアに送り込み、その軍は紀元前306年にサラミス海戦(キプロス沖、ペルシア戦争中のものとは場所が異なる)でプトレマイオスを破った。この敗戦で、プトレマイオスはエジプトに撤退した。勝報を受けたアンティゴノスは自身をマケドニア王であると宣言し、またデメトリオスを共同統治者とした。さらに、アンティゴノスはエジプトを攻撃したがこれは失敗し、プトレマイオスは翌年王位に就くことを宣言した。カッサンドロス、セレウコス、リュシマコスも、それに倣って王を称した。

その後ロードス包囲戦の後、デメトリオスがギリシアでカッサンドロスに対して優勢に戦いを進め、紀元前302年にはアンティゴノスは自身を盟主とするヘラス同盟をギリシアで結成した。追い詰められたカッサンドロスは講和を求めたが、無条件降伏を求められたためにプトレマイオスやトラキアのリュシマコス、さらにセレウコスらに対アンティゴノスの戦いを呼びかけた。紀元前301年、アンティゴノスとデメトリオスは、フリュギアのイプソスでセレウコスとリュシマコスの連合軍と対戦したが、この戦いでアンティゴノスは戦死し、デメトリオスも敗走するなど大敗を喫した(イプソスの戦い)。

これによってアンティゴノスの王国は勝者たちによって分割され、シリア、バビロニア、イラン高原、小アジア東部を支配するセレウコス朝、キプロス、エジプトを支配するプトレマイオス朝、マケドニア本国を支配するアンティパトロス朝、トラキアと小アジア西部を支配するリュシマコス朝が成立した。セレウコスやプトレマイオスの王朝に比して、マケドニアのカッサンドロスの王朝は長続きせず、カッサンドロスの死後の王位継承争いに乗じてマケドニアに返り咲いたデメトリオスが王位を奪い、さらにデメトリオスがリュシマコスと新たにディアドコイ戦争に参戦する形となったエピロス王ピュロスに追放されるなど、混乱が続くことになる(最終的にデメトリオスの息子アンティゴノス2世によるアンティゴノス朝が、紀元前276年にマケドニアに支配権を確立した)。

その後の戦い
ディアドコイ戦争最後の戦いは、紀元前281年のコルペディオンの戦いである。この戦いでセレウコスはリュシマコスを敗死させ、プトレマイオス朝の支配するエジプトを除くアレクサンドロス帝国の大部分を勢力下に置くまでとなった。しかし、この戦いからすぐにセレウコスは、プトレマイオスの子ケラウノスに暗殺された。これにより、ディアドコイの第一世代は死に絶え、戦争は一つの区切りを迎えたと言える。とはいえ、諸国の戦いが全く終わったといえばそうではなく、マケドニアでピュロスとアンティゴノス2世がマケドニア王位をかけて戦ったり、プトレマイオス朝とセレウコス朝が南部シリアを奪い合ったり、紀元前261年にクレモニデス戦争でアンティゴノス朝とプトレマイオス朝が戦ったように、ディアドコイの子孫たちはローマに吸収されるまで戦争を続けた。
出典 Wikipedia

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