2026/03/17

五代十国時代(6)

https://timeway.vivian.jp/index.html

五代から宋へ

 唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代を五代十国時代といいます。

 

 華北、黄河流域には、開封を首都として5つの王朝が交代します。これを五代という。

 後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つ。

 

 それ以外の地域に、合計10ほどの独立政権が成立。

 

 この時代のほとんどの政権が、節度使の自立したものです。各政権の皇帝や王は、みな軍人出身です。戦乱の絶えない時代です。均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期です。その過渡期の混乱。

 

 新しい時代の担い手は新興地主層です。これを形勢戸(けいせいこ)という。後漢以来の豪族と何が違うかというと、豪族は南北朝から隋唐までずっとつづいて貴族階級になっていきますが、形勢戸は同じ家がずっと地主としてつづきません。自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない。だから形勢戸は貴族階級にはなっていきません。形勢戸という言葉には「成り上がり」という意味があるのです。

 

 また、形勢戸の大土地所有は一円的所有ではない。一円的というのは、一つの地域を丸ごと持っていることをいう。豪族は一円的土地所有だから、そこで働く農民は豪族に隷属していきます。そして、豪族は貴族化していったのです。

 

 しかし、形勢戸はたくさんの土地を持っているのですが、あちこちに分散している。全体を合計すれば大きな土地になるのですが、一つひとつの土地は小さい。小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りている。だから、一人の形勢戸に隷属するような関係にはなりにくい。したがって、形勢戸は身分的にも貴族化していきません。

 

 黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場しないのです。すべて人民は、同じ身分。

 

 日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事です。中国では10世紀には、すでに貴族が消滅している。こういう面で、中国はものすごく進んでいる社会です。

 

 五代最後の後周が宋に替わるのが960年。

 宋の建国者は趙匡胤(ちょうきょういん)(位960~976)。都は開封です。

 

 宋が成立したときには、すでに統一に向けた機運は生まれつつあった。

 

 宋の前の後周の時代に世宗(せいそう)という皇帝がいました。この人は非常に有能で南北に領土を拡げていて、やがては戦乱を終わらせてくれるだろうと期待されていた。ところが三十代の若さで病死します。代わって即位したのが幼い息子。

 

 みんなガックリする。また、混乱がつづくのか、というわけだね。唐末以来の長い混乱で情勢は煮詰まっている。平和な世の中をみんなが望んでいる。幼い皇帝では、こういう期待に応えられない。軍人たちも無能な皇帝に仕えていてろくな事はないですから、幼い皇帝を喜ばない。

 

 趙匡胤は後周の軍人だった。節度使の経験もありますが、新皇帝のもとで親衛隊長をしていた。北部国境に敵の侵入があったという報告で、趙匡胤は親衛隊をひきいて出陣した。

都の北方で宿営していたらかれのもとに、部下の将校たちが押しかけてきて迫った。

「幼い現皇帝では混乱が起きる。あなたが皇帝になってください。」

 

 趙匡胤は親衛隊長として反乱なんてできないと断るのですが、部下たちは強引で断りつづけたら自分は殺されるかもしれない。そういう雰囲気だった。そこで、やむなく皇帝になると約束しました。部下たちは喜んで黄色の服を持ってきて趙匡胤に着せた。黄色は皇帝の象徴なのです。

 

 そんなわけで、趙匡胤はいやいやながら皇帝にされ、親衛隊をひきいて都に戻り、幼い後周の皇帝から位を奪いました。こうして宋は建国された。

 

 これは、宋の成立したあとに作られた記録だから、本当に趙匡胤がいやいや皇帝になったかどうかはわからないんですが。はじめから、そういう段取りを部下たちとつけていたのかもしれない。しかし、それにしてもそういう芝居なら人民が納得する状況だったのです。

 

 これはおまけの話ですが、宋は後周の皇帝一族を殺さずに丁重に保護していく。宋の時代に後周皇帝家は、ずっとつづいている。「水滸伝」には豪傑の一人として、後周皇帝の末裔が出てくるんですよ。

 

 後周以外にも、宋が全国統一するときにすすんで降伏してきた十国の君主たちも、同じように丁重な扱いを受けます。

 戦乱を終わらせる、余分な血を流さないという民衆の願いを、宋の支配者は自覚しているようですね。

 

宋の基本政策

 趙匡胤は、宋の太祖ともいいます。かれの時に、ほぼ中国を統一しますが、完全に統一したのは二代目皇帝の時です(979)。二代目は趙匡胤の弟、趙匤義(ちょうぎょうぎ)(位976~997)です。こちらは、宋の太宗と呼ばれるほうが多い。

 

 この兄弟が宋の基礎を固めた。

 

 宋の政治方針は漢字四文字で覚える。「文治主義」です。

 

 「文」の反対語は何かわかりますか。この場合は「武」です。文治というのは武力ではなく「文の力」で治めることです。

 

 具体的には、節度使の権限をどんどん削っていく。地方の軍も弱体化させる。兵士を急に減らすと、失業兵士が賊になってしまうかもしれませんから、急には減らさない。そのかわり新しい兵士を採用しない。兵士はどんどん年をとってお爺さんになるわけだ。これでは戦力としては役に立たないのですが、政府はかれらに地方都市の城壁の修理とか、橋や堤防工事などをさせる。こんなふうに地方軍を骨抜きにしていきます。

 

 かわりに皇帝直属の軍、「禁軍」というのですが、これを強化します。

 

 軍人の力を削って、かわりに文人官僚による行政機構を整備します。多くの文人官僚を採用するために科挙(かきょ)と呼ばれる採用試験がおこなわれた。

 

 「選挙」という名で隋の時代からはじまって、唐の則天武后時代に充実されていたのですが、科挙が一気に重みを増し整備されるのは宋の時代からです。

 なぜかわかりますね。この時代に貴族階級がいなくなっているからです。すべての官僚が科挙によって選ばれるのですから。

0 件のコメント:

コメントを投稿