2024/06/27

ウマイヤ朝(3)

政府と行政

カリフ位

ウマイヤ朝によって、カリフ制度は王朝的支配の原理として確立された。ウマイヤ朝において、カリフ位はウマイヤ家の一族によって占められ、なおかつ14人のカリフのうちムアーウィヤを含めた4人は子にカリフ位を譲った。後に発展したスンナ派の政治理論では、正統カリフ時代は共同体による選出と統治委任の誓いによって統治に正統性が生じていたとされており、ウマイヤ朝はこの理論から逸脱している。しかし、嶋田 (1977)は、アラビアでは家長の地位が父から子に伝えられた事例は多く、カリフの父子継承は、ウマイヤ家の家長としての地位を譲ることを国家制度の領域にまで拡大させたことであるとしている。

 

ウマイヤ朝のカリフは全員がウマイヤ家の一族だが、最初の3代のカリフと残りの11代のカリフは、ウマイヤ家の中の異なる家系に属している。ムアーウィヤから第3代カリフであるムアーウィヤ2世までは、ムアーウィヤの父であるアブー・スフヤーンにちなんでスフヤーン家と呼ばれ、第4代カリフであるマルワーン1世以降のカリフは全員が彼の子孫であるため、マルワーン家と呼ばれた。

 

意思決定

正統カリフであったアブー・バクルやウマルは、重要な意思決定の際にムハージルーンの長老らに意見を求めていた。この一種の合議制は、マディーナ時代には有効に作用したものの、ムアーウィヤはダマスクスに都を置いたため、ムハージルーンの意見が政策に反映されることはなくなり、カリフが自ら政策を決定できるようになった。

 

カリフの私的な諮問機関として、アラブ有力部族の族長会議であるシューラーと代表者会議であるウフードが設けられ、必要に応じて招集されたが、これは説得と同意を取り付ける場に過ぎなかった。これはムアーウィヤとヤズィード1世の時代において、有効に機能したと言われる。

 

行政官庁

正統カリフ時代には、行政官庁に当たるものはウマルが創設した、ムカーティラ(兵士)の登録と俸給の支払いを司るディーワーンがあるのみだったが、ウマイヤ朝初代カリフであるムアーウィヤは、これをディーワーン・アル=ジュンド(軍務庁)と改名したうえで、租税の徴収を司るディーワーン・アル=ハラージュ(租税庁)や、カリフの書簡を作成するディーワーン・アッ=ラサーイル(文書庁)、それを保管するディーワーン・アル=ハータム(印璽庁)を設立した。これらのうち、ディーワーン・アル=ジュンドとディーワーン・アル=ハラージュが、国家機関のほとんどすべてであった。これらの中央官庁は行政州に出先機関を持ち、それらの支所は行政州の管轄に置かれた。

 

ディーワーン・アル=ジュンドなどの行政官庁ではアラビア語が用いられていたが、ディーワーン・アル=ハラージュでは各地の言語が用いられていた。第5代カリフであるアブドゥルマリクは改革に着手し、697年には彼の指示を受けたハッジャージュが、イラク州の官庁で用いられていたペルシア語をアラビア語に変える命令を下した。また、700年にはシリアでギリシア語から、705年にはエジプトでコプト語から、742年にはイランでペルシア語から、それぞれアラビア語への切り替えが行われた。こうした行政言語の切り替えによって官庁で働く役人も、各地のズィンミーに代わってアラブ人が重用されるようになった。

 

総督

大征服が行われるにあたり、カリフに任命された遠征軍の司令官は進路や作戦行動などを全て一任され、政府は基本的にこれに干渉しなかった。また、それぞれのミスルの軍の征服地が、そのままミスルの行政や徴税の範囲となり、行政州が形成された。司令官が行政州の総督となり、ミスルは行政州の首都となった。これによってウマイヤ朝は、各行政州単位の地域連合となった。各州の総督はカリフにより任命されたが、シリア州のみは首都州としてカリフの直轄地となった。総督はカリフの代理として集団礼拝の指導や遠征軍の派遣、カーディーの任命、治安維持などの任についた。

 

総督はアルメニア、イエメン、イラク、エジプト、キンナスリーン、ジャズィーラ、パレスティナ、ヒムス、マディーナ、マッカ、ヨルダンなどに置かれた。マディーナや、アルメニアといった、ビザンツとの国境地帯の総督にはカリフの親族が重用されたが、アブドゥルマリクやワリード1世の時代を除くと、総督にカリフの親族が重用されることはほとんどなかった。

 

司法

ウマイヤ朝の中期以降、イスラームの司法制度が整えられた。これは各行政州にカーディーが任命されたことを指す。正統カリフ時代において、カーディーは地方公庫の管理者や部族間紛争の調停者に過ぎなかったが、ウマイヤ朝の第二次内乱以降は裁判官としての面が現れ、ウマイヤ朝の末期までには全国に任命された。しかし、当時は司法権は行政権の元にあったため、カーディーの判決はカリフや総督によって覆されることがあった。

 

裁判官としてのカーディーの出現はイスラームを生活の規範として確立させ、イスラーム法の体系化と成文化へとつながった。

社会・経済

税制

現在のイスラーム法ではジズヤは人頭税、ハラージュは地租税を指すが、ウマイヤ朝時代にはこのような区別はなく、行政用語ではジズヤ、旧サーサーン朝支配下ではハラージュと呼ばれていた。しかし人頭税と地租税は、それぞれ「首のジズヤ」または「首のハラージュ」、「土地のジズヤ」または「土地のハラージュ」と呼ばれて区別されていた。ウマル2世は、改宗したズィンミーからの租税の徴収の免除を行った。この際に彼はジズヤの免除と言ったため、このとき初めて人頭税がジズヤ、地租税がハラージュであるというイスラーム法の用語が確定した。

 

ハラージュは耕地面積に応じて貨幣と現物との二本立てで、村落共同体単位で徴収された。現物での徴収は、収穫のほぼ半分に及んだという。

 

こうしたジズヤやハラージュは、非ムスリムであったズィンミーに課されており、アラブ人地主などはウシュルと呼ばれた十分の一税のみを収めていた。

 

マワーリー

重税に苦しんだ非ムスリムの農民は、土地を棄てて周辺のミスルに流れ込み、イスラームへ改宗した。こうした改宗者はマワーリーと呼ばれる。彼らは移住先のミスルで貴重な労働力となったが、その一方で農民が減ったことで税収が減り、政府は財政の基礎を守るため彼らを元の村に強制的に追い返した。

 

8代カリフであるウマル2世は、イスラームへの改宗を自由に認めたうえでミスルへの移住や、マワーリーへの俸給の支給を決定した。しかし、こうした改革は芳しい結果はもたらさなかった。マワーリーはミスルで生計を維持することが出来なかったため結局、農村に留まって重税を払って生きるほかなく、むしろ現場の徴税官の間に混乱が広がって税収はかえって減少した。

 

南北アラブの対立

古代のアラブは、イエメン地方に住んでいた南アラブ族とシリアなど北部に住んでいた北アラブ族の大きく2つに分けられており、それぞれ古代南アラビア語と古代北アラビア語、南アラビア文字と古代北アラビア文字など異なる言語や文字、文化を持っていた。両者は、イスラームが興る前から入り混じって生活していたが、ムアーウィヤが都を置いたダマスクスがあるシリアには、南アラブが多く住んでいた。彼は南アラブのカルブ部族の女性と結婚し、その子であったヤズィード1世もカルブ部族の女性と結婚して、南アラブとの親善関係を保つことに努めた。しかし、各ミスルではアラブの系譜意識が深まり、自らの出自で政治的な党派が作られるようになった。この南北アラブの党派争いは総督の地位をめぐって争われ、カリフの選出にも影響を及ぼした。

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