2024/07/25

ウマイヤ朝(5)

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 ムアーウィヤは第三代正統カリフ、ウスマーンと同じウマイヤ家出身でした。自分こそがカリフになるべきだと考えて、アリーと合戦をします。これは勝負がつかないのですが、そのあとも両者は対立を続けた。やがて661年に、両者の対立に反対するグループにアリーが暗殺されると、ムアーウィヤは選挙ではなく実力でカリフになります。かれは、信者の選挙という形でカリフにならなかったので、正統カリフとは呼ばれません。

 さらに、かれは自分の子孫にカリフの地位を世襲させていきます。こうなると、イスラム共同体とは名目だけで、実質的には王朝です。

 

 そこで、ムアーウィヤがカリフになって以降をウマイヤ朝(661~750)といいます。

 首都はダマスカス。シリアの中心都市です。ムアーウィヤが総督として地盤を築いていたところを、そのまま首都にした。アラビア半島の外に首都を置いたのが、イスラムの発展ぶりを物語っていますね。

 

 こんなふうに教団上層部ではごたごたあるのですが、対外的にはイスラム教は領土的な発展をつづけます。

 

 東は中央アジアからパミール高原、西は北アフリカ沿岸を西進して、ジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島までを支配下に置いた。さらに、イスラム軍はピレネー山脈をこえて、現在のフランスにまで進撃します。当時、ここにはゲルマン人の一派であるフランク人が建てたフランク王国というのがあった。フランクはイスラム軍を撃退します。これが有名なトゥール・ポワティエ間の戦い(732)。この戦いに敗れたイスラム勢力は、これ以上ヨーロッパには広がりませんでした。

 

ウマイヤ朝の政治の特徴について。

 ウマイヤ朝は、アラブ人至上主義をとります。領土が拡大して多くの民族が支配下に入りますが、支配者はあくまでも、イスラム教徒であるアラブ人だということです。そういう意味で、ウマイヤ朝はアラブ帝国と呼ばれることもある。

 

 ところが、イスラムは宗教ですからアラブ人以外にも入信する者が、ぼちぼちでてきます。民族が違っていても信者は平等です。アッラーの前ではみんな同じ。イスラム共同体、ウンマの一員なんですね。しかし、現実の政治ではウマイヤ朝はアラブ人だけに特権を認めて、他民族のイスラム教徒を対等に扱わない。

 そこで、非アラブ人のイスラム教徒による反ウマイヤ運動が起こってきます。

 

 また、シーア派という宗派が生まれました。暗殺されたアリーの子孫こそが正統なカリフである、という信仰を持つグループです。当然ムアーウィヤがカリフになったことを認めず、ウマイヤ朝の正統性を否定します。

 

 このシーア派は、ウマイヤ朝が滅んだあとも、アリーの子孫を教主と仰いでつづく。アリーの子孫は一二代目で途絶えましたが、シーア派はいろいろな分派に分かれながらも、現在まで大きな勢力としてつづいている。たとえば、現在のイランはシーア派を国教にしています。ムハンマドよりアリーを偉いと考える人たちもいるくらいですね。

 

 話を戻しますが、シーア派が誕生してウマイヤ朝の正統性を問題にするのですが、大多数のイスラム教徒は「ムアーウィヤがカリフになってもいいじゃないの」と考えていて、これらウマイヤ朝を認める人たちはスンナ派と呼ばれました。

 スンナ派は、現在でもイスラムの多数派です。

 

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アッバース朝

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 預言者ムハンマドの近親者で、アブル=アッバースという男がいた。この人はムハンマドの叔父さんの家系で、イスラム教の指導者層の一人なわけだ。だから、自分もカリフになる資格があると思っていて、機会を狙っていた。

 かれはイラン人シーア派の反ウマイヤ運動を利用して反乱を起こし、ウマイヤ朝を倒すのに成功した(750)。この新王朝をアッバース朝という。首都はバグダードです。

 

 アッバース朝は、アラブ人至上主義を批判する勢力の協力で建てられたので、民族差別をやめる。すべてイスラム教徒は同じ扱いにします。

 

 具体的にはアラブ人の特権を廃止して、それまで払わなくてもよかった土地税を課税する。政府の要職にイラン人を登用する。イラン人とはペルシア人のことです。かれらはアケメネス朝、ササン朝という大帝国を作ってきた民族でしょ。行政手腕を含めて、非常に高い文化を持っているわけです。

 かれらイラン人の力も加わってアッバース朝は中央集権化、官僚制度の整備をおこなっていきました。

 

 アラブ帝国と呼ばれたウマイヤ朝と対比して、アッバース朝のことをイスラム帝国ということもあります。アラブ人の国からイスラム教徒の国になったというニュアンスです。

 正統カリフ時代、ウマイヤ朝と発展してきたイスラムの総まとめの国です。アッバース朝以後、現代までイスラムの国は無数にあるのですが、イスラム世界がほぼ一つにまとまっていた最後の時代です。

 

 アッバース朝以後、イスラム世界は政治的に多様化していくのです。

 ムハンマドが無くなって百数十年、ムハンマドを直接知る人はいなくなったけれど、イスラム共同体=ウンマの理念が実体として感じられた最後の時代だと思います。

 

 最盛期は8世紀後半、第五代カリフ、ハールーン=アッラシードの時代です。

 アッバース朝は10世紀以降は衰退して、名目だけの存在になるのですが、アッバース朝のカリフは宗教的な権威として、イスラム教徒の中で特別な存在でありつづけるのです。

 

 首都バグダードを建設したのは、第二代カリフ、マンスール。

 バグダードには「知恵の館」という総合学術機関が作られて、イスラム世界の学問芸術の中心となった。

 対外関係として、751年のタラス河畔の戦い。中央アジアでアッバース朝が唐の軍隊を破った。この時の中国人捕虜から、製紙法が西アジアに伝わった。

 

 アッバース朝は軍事力として、中央アジアのトルコ系遊牧民を導入した。かれらは騎馬戦術に優れていて、兵士として有能だったのですね。

 8世紀くらいから中国でもトルコ系軍人は大活躍で、安史の乱の安禄山もトルコ系ですし、それを鎮圧したウイグル人もトルコ系、五代十国時代の皇帝や軍人の中にもトルコ系の人がかなりいる。

 

 アッバース朝は、奴隷としてトルコ系遊牧民を買って軍人としました。この、奴隷軍人のことをマムルークという。身分は奴隷ですが、功績があれば富も軍人としての地位も手に入れることができる。古代ローマの奴隷のように、鞭でびしびし打たれている人たちではありません。

 これ以降、マムルークはイスラムの歴史の中でどんどん活躍するから、しっかり覚えておいてください。

 

 アッバース朝は領土が広すぎたので、10世紀以降は地方の総督、軍人や周辺民族などが自立して王朝としての実体はなくなっていきますが、宗教的権威だけで生き延びる。このアッバース朝を最終的に滅ぼすのが、カリフの宗教的権威に全然無頓着なモンゴルのフラグでした(1258)。

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