2026/09/28

陽明学(6)

日本の陽明学

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日本に伝わった朱子学は、その普遍的な秩序への志向により、体制を形作る治世者に好まれた。一方、王陽明の意図に反して、陽明学には反体制的な理論が生まれたため、反体制の側が好む場合もあり、自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。

 

心即理(鏡面のような心)が本来前提であるにもかかわらず、己の私欲、執着を良知と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある。山田方谷も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている。

 

江戸期の代表的な陽明学者は、中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。その他、淵岡山、中川謙叔、三輪執斎らがいる。

 

幕末期の陽明学信奉者

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幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。

高名な偉人では吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らが影響を受け、大塩平八郎の乱に代表されるように革命運動に身を挺した者も多い。

 

一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、陽明学の持つ危険性を承知した上で、弟子には先に朱子学を学ばせ、有望な弟子にのみ陽明学を教えた。

 

山田方谷と佐久間象山は、佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で学んでいる。塾長の方谷に若き日の象山がいどんだ連夜の激論は塾の語り草であり、佐門の二傑と称された。

 

佐藤一斎は朱子学を奉ずる昌平黌の儒官であり、公然と陽明学の理を主張し得なかったが、著書の『大学一家私言』は陽明学の視点で書かれたものであり、また幕末の志士に大きく影響をあたえた『言志四録』には、陽明学の思想が散見される。また、一斎が中江藤樹を尊崇していたことや、彼の門から陽明学の影響を受けたものが多数輩出していることなどから、一斎が陽明学を奉じていたことは明白であるとされる。

そのため「陽朱陰王」のそしりを受けたが、その主とする所は陽明学に存すると言える。

 

近代日本の陽明学

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日本における陽明学の全盛期を、明治維新以降とする説もある。即ち、三宅雪嶺が1893年に刊行した著書『王陽明』を嚆矢とする幕末陽明学の再興運動が、欧化政策の反動として高揚した国粋主義や武士道の見直しの動きと結びつき、明治後期から大正時代にかけて頂点を迎えたという見方である。

 

この時期の主な人物として、上記の三宅雪嶺や井上哲次郎のほか、高瀬武次郎、徳富蘇峰、吉本譲、東敬治、石崎東国らがいる。当時の陽明学は、日本国民の精神修養の一環として、死生を逸脱した純粋な心情と行動力とを陶冶する実践倫理として説かれる部分が大きかった。

 

また、この頃の日本における陽明学の再評価が、梁啓超に代表される清人留学生の目に留まり、中国での陽明学再興に大きな影響を及ぼした。

 

各界の信奉者

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財界

    岩崎弥太郎 - 三菱財閥の創設者

    渋沢栄一 - 実業家、「日本資本主義の父」

 

その他

    広瀬武夫 - 海軍軍人

    東郷平八郎 - 海軍軍人

    奥宮健之 - 自由民権運動家

    幸徳秋水 - 明治期の社会主義者、奥宮健之の父・慥慥斉に師事

    富岡鉄斎 - 文人画家、儒学者

    三島中州 - 漢学者、二松學舍創立者

    三島由紀夫 - 作家。晩年に傾倒]。ただし、三島は王陽明の『伝習録』を直接読んでいる形跡はなく「日本陽明学」の系譜からの影響を受けた。三島は井上哲次郎の『王陽明の哲学の心髄骨子』を読んでいる。三島の評論には『革命哲学としての陽明学』がある。

    安岡正篤 - 陽明学の像を「帝王学」とし、本来は「心学」である陽明学の像を変えたという意味で功罪があるとされる。安岡が東大卒業時に出版した『王陽明研究』は、日本や中国の識者に大きな影響を与えた。安岡の著書は『東洋宰相学』『日本精神の研究』など多岐に亘り、安岡が必ずしも陽明学者としてのみ位置づけられるものではない。

 

朝鮮の陽明学

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朝鮮半島には、16世紀初めに齎された。その初期に陽明学を奉じた者としては、南彦経と李瑶がいる。

 

次いで許筠と張維が出て、陽明学を発展させた。許筠は陽明学の立場から朱子学の礼教的側面を批判し、また、朝鮮では最も早く人欲を肯定した思想家である。張維は朱子学の「知先行後」を論難し、陽明学の「知行合一」を賞賛した。また陽明学の個性尊重の側面を受け継ぎ、「自治・自立・自主」に重きを置いた学説を説いた。

 

その後に張維の影響を強く受けて、朝鮮陽明学の代表ともいえる鄭齊斗(霞谷)が出た。彼は朱子の理気二元論に異を唱え、理と気は一体不可分であるとし、また「知行合一」を称揚して実践を重視した。当時、李氏朝鮮でも朱子学は形骸化しつつあったが、鄭は陽明学によって儒教を再生することを唱えるに至る。

 

しかし、朝鮮の陽明学は一貫して少数派の地位を脱し得ず、本場中国以上に朱子学派から抑圧され、徐々に衰退した。例えば、李滉(退渓)は『伝習録弁』で陽明学を厳格に批判した。

 

陽明学の朝鮮史における影響は日中に比して高いと言い難いが、実学や経世致用の思想には影響が認められる。

 

大韓帝国末期から日本統治時代には、朴殷植や鄭寅普が陽明学を論じた。

2026/09/20

陽明学(5)

陽明学左派

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朱子とその弟子たちは、いわゆる偽学の禁という政治的な問題を起こしたが、社会的な問題は起こさなかった。対して陽明学派は、主に政治問題ではなく社会問題を引き起こした。

 

陽明学は王陽明の死後、今日のことばでいえば左派と右派とに分裂し、左派(その中核はいわゆる泰州学派)はいわゆる陽明学の横流、心学の横流と呼ばれる現象をひきおこした。すなわち、陽明学派のあるものは社会的通念、権威に挑戦し、既成道徳をふみにじるにいたり、積極的には道徳的混迷、社会不安を、消極的には社会的頽廃をひきおこした、というのである。左派は理論的・実践的にラディカリストであった。

 

ラジカルという意味は、おおよそ士大夫存在において士大夫、読書人としてふさわしいあり方、伝統的に形成せられているらしさ、いわゆる矩矱というものと、聖人をめざす理論・実践というものとの二つの極を考えることができるが、その場合、聖人という理想に対してあくまで忠実であろうとして、いわゆる矩矱を無視し、のりこえるに至る、それをいうのである。ふるい矩矱、名教は、単に習慣的なもの、外化したもの、仮、偽善、としてうちすてられ、攻撃せられるであろう。

 

それに対して右派は、正統的な士大夫派、名教護持派である。左派の活動が活発になるにつれて、右派は自覚的・無自覚的にますます朱子学寄りになり、たとえば王陽明が蛇足にすぎないとした敬が積極的に主張せられるようになったりした。

 

明末清初の陽明学

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明朝の政治や思想に多大な影響を与えた陽明学であったが、その明朝と共に衰退し、清朝では考証学に学問の主役の座を奪われるに至るが全くの絶学とはならず、清初においては右派が中心だったため穏健となり、陽明学は「聖学(=朱子学)と異同非ず」と康熙帝が言うように必ずしも異学視されていたわけではなかった。

 

ただ、すでに陽明学単体で学ばれるというよりも、「朱王一致」(朱子と王陽明の一致)といわれ、朱子学を補完するものとして扱われたに過ぎない。雍正帝以降、朱子学の正学化確立、乾隆・嘉慶の考証学全盛期(いわゆる乾嘉の学)到来によってさらにその傾向を強め、陽明学は衰微した。再び脚光を浴びるのは、清朝の末期になってからであった。

 

清中期の陽明学者に李穆堂がいる。

 

清末の陽明学

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陽明学の沈滞状況は、1840年のアヘン戦争以降、徐々に変化する。まず『海国図志』を著した魏源によって陽明学は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど、陽明学は復活の兆しを見せるようになる。後に今文公羊学を掲げる康有為自身も、吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したという。

 

下の日本の項目で述べるように、陽明学は日本に伝来して江戸時代以降の日本史に大きな足跡を残した。特に明治維新の思想的原動力として、大きな影響を及ぼしたといわれる。明治となっても、三宅雪嶺が『王陽明』という伝記を著して陽明学を顕彰し、また陽明学に国民道徳の基礎を求める雑誌『陽明学』や、その類似雑誌がいくつも創刊された。

 

日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも、俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、陽明学が中国でも再評価されるようになる。「陽明学」という呼称が中国に伝わったのも、この頃であった。清代に禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた李卓吾の『焚書』や『蔵書』は、明治期の陽明学熱によって中国に逆輸入されている。

 

中国における陽明学再評価に最も力があったのは、先に触れた康有為の弟子梁啓超である。梁啓超は1905年、上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚した。また同時期書かれた梁の『徳育鑑』や「論私徳」(代表作『新民説』の一節)には、井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』の影響が見られる。

 

こうした梁の傾向は、戊戌政変後に日本に亡命して以降顕著となるが、それは彼が当時求めていた国民国家創出と深く関係する。まとまりを欠いた「散砂」のような中国の人々を強く結合させるためには、国民精神、国民道徳が不可欠だと梁啓超は考えていた。陽明学宣揚は、国民国家の精神に注入すべく為されたものであった。

 

こうした国民国家精神に陽明学を注入する梁啓超の考えは、当時の明治思潮によるものが大きい。当時の日本では、欧化主義の進展によって日本の道徳倫理や武士道精神が退廃にさらされていると考えられ、それらを陽明学で再生しようとする風潮があった。これが明治期における陽明学熱の背景である。

 

こうした風潮に梁啓超らは感化され、明治日本において陽明学の再発見、再評価したのみならず、陽明学を柱とする国民精神創造運動も取り込んだといえる。

2026/09/16

陽明学(4)

陽明学の流行と展開

陽明学左派―心学の横流-

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王陽明の高弟としては、王畿(龍渓)、王艮(心斎)、徐愛(横山)、欧陽徳(南野)、銭徳洪(緒山)、鄒守益(東廓)、羅洪先(念庵)、聶豹(双江)らが有名である。しかし王陽明の死後、陽明学はいくつかの派に分裂した。王陽明の生前より、主に良知説における「無善無悪」の解釈をめぐり、王龍渓ら左派と朱子学に再接近しようとする銭緒山らは対立していたが、師の没後分裂が決定的となった。

 

陽明学左派の中心人物は王龍渓と王心斎であって、この両者を王学の二王と称する。王陽明は、心そのものに善悪の区別はないとしたが、「四句教」にあるように「意」「良知」「物」には善悪を認めた。しかし王龍渓らは師の説は徹底を欠くとして、「意」「良知」「物」も「無善無悪」としたのである。

 

したがって、それらに基づく行動も善悪無しと主張した。これを「四無説(しむせつ)」という。いわば善悪といった倫理を超えたものとして「良知」を解したのである。この主張は銭緒山ら右派のみならず、朱子学からも倫理に背くものとされ、彼らの思想・行動は心学の横流と呼ばれ厳しく批判された。また彼らは、狂人は聖人と紙一重という説も唱えていた。

 

王龍渓

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王龍渓が上で師王陽明の良知説を革新したと述べたが、もう少し具体的にいうと、以下の二つの意味を良知に追加した。

 

まず王陽明にあって、良知はあくまで人の心にあるものであったが、弟子王龍渓はそれを「天則」(天のことわり)にまで拡大した点。次に「現成良知」を主張した点。「現成」とは、眼前にすでに出現しできていることであり、良知を発現させるために作為的もしくは意識的な修養は無用であって、良知はすでに既成の善悪を超え自律的に正しく判断するのだと主張した。王龍渓は、良知を非常に動的なものとして捉え直したといえる。

 

また理学が、その成立当初から禅宗の影響を強く受けていることは、宋代より言われ続けてきたことであるが、陽明学左派はとりわけ仏教の、そして老荘思想の影響が顕著である。この傾向は王陽明も持っていたが、特に王龍渓はこの傾向を強めたといわれる。その証拠として経書の解釈においても、積極的に仏教などの語彙を使用して説明しようとした点がよく指摘される。そして仏教も道教も真理の一面を有していたことを認め、三教一致を目指そうとした。この傾向は王心斎の一派にも見られ、それ故にもはや儒教ではなく禅宗の学だという批判を招くに至った。

 

王心斎と泰州学派

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王心斎も王龍渓と同じく「現成良知」を奉じていたが、思弁性よりも社会に向けた実践活動に特徴を有する。具体的には王心斎は、『孝経』と四書を重視したが、経書の注釈に拘らない自得の学問を説き、独特な「淮南格物」を主張したこと、古代を理想とする尚古思想をもっていたことがその思想的特徴といえるが、なによりも重要なのは、知識人層以外の階層に陽明学を広めることを己が責務としたことである。

 

王心斎らの一派は泰州学派といわれ、この派からは何心隠、羅如芳(近渓)、楊起元(復所)、李贄(卓吾)、周汝登(海門)、陶望齢を輩出した。彼らはその身の中で、万民を救うという士大夫的責任感と「知行合一」とを結合させ、以下に述べるような社会批判を繰り広げていくのである。この意識が非常に高揚して、「侠」あるいは「遊侠」という境地に達するものも現れた。

 

李卓吾

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李卓吾は、陽明学左派の掉尾を飾る人物である。彼にいたって、朱子学が唱えた読書による人欲の排除といった、理学の基本概念とは全く正反対の主張がなされた。まず李は良知説を改良し、「童心説」を唱えた。童心とは、経書など外的権威・道徳を学ぶ以前の純真な心を指し、読書学問によってかえって失われるとした。また「穿・衣・吃飯、即ち是れ人倫物理なり」とも述べ、食欲や衣服を身につけようとすることは人間の本来の自然だとし、人欲を全肯定した。

 

陽明学右派と東林党

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明末は魏忠賢ら宦官に与する閹党と、顧憲成らの東林党が党争を繰り返していた。閹党と東林党は、当時の政治や社会の現状を認めるか否かによって分かたれた集団であって、思想的な差異によるものではない。

 

そのため、宦官政治に批判的な人々は朱子学、陽明学を問わず東林党に集ったが、東林党に入った陽明学の人々は陽明学右派が中心であったため、陽明学左派の過激な思想や行動には批判的であった。ただ人欲を人間本来の自然とみる考えを全否定することはなく、それを認めつつ、人欲を制御する役目を「理」に与えることにより、現実的な政策や思想を構想しようとした。それは清代の考証学や、経世致用の学を生み出す端緒となる。

 

その代表的思想家は黄宗羲である。黄は陽明学右派劉宗周の弟子にあたり、『明夷待訪録』や『明儒学案』を著している。前者は政治・経済・軍事といった諸方面から国家のあり方を論じたもので、特に皇帝専制政治批判は舌鋒鋭く、清末に至り再評価された。そのため黄は「中国のルソー」と呼ばれる。

 

後者は中国初の哲学史とも言うべき著作で、明代の儒学史研究において今でも必読書となっている。黄宗羲は、陽明学左派のようなひたすら唯心的に事柄を論ずる学風を好まず、事実に即した実証的な学問の確立を求めた。その学風は考証学の一派、浙東学派となって清朝の主要な思潮となっていくのである。

2026/09/07

陽明学(3)

『大学』の再解釈

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宋明理学におい、て四書は非常に重視された経書である。このうち、『大学』は、宋以後著しく経書中の地位が上昇し、且つ朱子と王陽明で解釈が著しく分かれた。以下、主な朱子学との相違を記す。

 

テクスト

朱子学:朱子は大きく『大学』を改訂した。朱子以前より『大学』は文章や字句が並べ間違えられ、あるいは抜けていると言われていたが、それを改めたのが『大学章句』である。『大学章句』は程顥・程頤のテクスト批評を継承し、朱子が完成させたもので、脱落したと思われる箇所は朱子が書き足している。

 

陽明学:王陽明は朱子学以前のテクストをそのまま使用した。ただし、王陽明の序を付したものを『古本大学』という。

 

「大学」という言葉の意味

朱子学:大学を「大人の学問」と規定する。大人は成人の意である。

陽明学:小人に対する大人、すなわち「君子の学問」と規定する。小人は徳の無い者の意である。

 

三綱領の「親民」

三綱領とは『大学』における三つの総括的な主題で、『大学』はこの主題を説明するためにあるといってもよい。その二番目にあたる「親民」の解釈をめぐっても、朱子と王陽明は大きく異なる。

朱子学:朱子は「親」を「新」と読み替え、「民を新たにす」、つまり「自分自身の明徳を明らかにした君子が、他者にまでそれを及ぼし革新する」の様に解した。

陽明学:王陽明は素直に「民を親しむ」と読む。

 

八条目の「格物致知(かくぶつちち)」

八条目とは三綱領の細目で「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八つである。

朱子は読書・修養によって聖人の高みに至るとし、三綱領に置かれた「格物致知」に根拠を求めた。つまり、「物に格いたる」(事物に即して理を極める、格=至)とした。

一方、王陽明は、この部分を再解釈し「物を格ただす」(物=事、格=正)とした。朱子においては「知」は道徳知と知識知が未可分であったが、陽明は専ら道徳知として理解する。「事」とは心の動きである「意」の所在であって、「知」とは良知を指す。「格物致知」を、「意」を正すことにより良知を発揮することとしたのである。端的に言えば、心の不正を正すと王陽明は再解釈した。

 

「誠意」の重視

朱子学:朱子学で最も要とされたのは、上記の「格物致知」である。

陽明学:陽明学で最も要とされたのは、「誠意」である(「大学の要は、意を誠にするのみ」)。ただし陽明学の観点から言えば、意が誠ならば良知は致されており、また物も格されている。つまり「物を格し、知を致す」とは「意を誠にする」ことである。

 

陽明学が開いた地平

聖人観の変化

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宋以後、「聖人、学んで至るべし」と言われるように、聖人は読書・修養によって人欲を取り除いた後に到達すべき目標とされるようになる。つまり理念的には、あらゆる人が努力次第で聖人となる道が開かれた。ただ読書などにかまける時間が多くの人々にあるはずもなく、実際にはその道は閉ざされたままだったといえる。

 

しかし陽明学では心以外の外的な権威を否定するため、もう読書などは不可欠なものとは認められない。むしろ万人に平等に、そしてすでに良知が宿っていることを認めていこうとする。王陽明のある弟子の「満街これ聖人」(街には聖人が充ち満ちている)ということばは、端的にこのことを表現していると言えよう。陽明学にあって聖人となれる可能性があるのは、読書人のみならず普通の庶民にも十分あるとされるのである。朱子学との連続性を考慮するならば、宋以後における聖人の世俗化の動きが、明代中葉・末期に至ってひとつの頂点を迎えたといえる。

 

人欲肯定への道を開く

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心全体を理とするならば、その内にある欲望のみを否定することは原理的にできない。王陽明自身は「天理を存し人欲を去る」という朱子学的な側面を捨てきってはいなかったが、下で述べるように、その弟子達は人欲を自然なものとして肯定していくのである。よく知られているように明代中期以後、急速に貨幣経済が浸透する。軽々に思想と経済の間の因果関係を結論づけることはできないが、陽明学における人欲の肯定が、発展著しい商業経済にとって時宜に適う思想であったことは間違いない。

 

経書の地位低下

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心を外的な規範から解放した結果、六経などの経書を尊び学ぶ姿勢が減退していくことになる。王陽明自身は「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」と言い切ってはいても、未だ経書への姿勢は謙虚さがあった。しかしその弟子、就中高弟と言われる者でも、生涯に読んだ経書は四書だけといわれる人が陽明学派から出てくるようになる。かくして経書はその聖性を減じていき、六経は単なる歴史に過ぎないという解釈が生まれた。これは清代考証学の一派である黄宗羲ら浙東史学から章学誠を経て、章炳麟へ受け継がれていった。

 

朋友関係の重視

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陽明学の一派は、講学といわれる研究会を好んだことで知られる。派内の交遊が壮んであることは、「五倫」(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の中でも特に「朋友」という人間関係を重視する姿勢を生み出した。すなわち極めて同志意識・連帯意識が濃厚であった。本来、朋友以外の四倫は上下関係を基礎におくものであるが、朋友に限っては水平方向の人間関係である。それを重視するということは、儒教的価値観に一石を投じるものであった。

2026/08/28

陽明学(2)

王陽明の登場

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朱子学は体制側の思想となったが、それ故に体制擁護としての作用が肥大化し、かつての道徳主義の側面が失われていった。その道徳倫理を再生させようとしたのが、王陽明である。

 

朱子学では「理」(万物の法則であり、根拠、規範。「然る所以の故であり、且つ当に然るべき則」)はあらゆるものにあるとし(「一木一草みな理あり」)、そうした理について読書など学問することにより理解を深めた後に「性」(個々に内在する理、五常五倫)へと至ることができるとした。いわば心の外にある理によって、心の内なる理を補完せんとしたのである。

 

当初は王陽明も朱子学の徒であったが、「一木一草」の理に迫らんとして挫折し、ついに朱子学から離れることになる。その際、王陽明は朱子学の根本原理となっている「格物致知」解釈に、以下のような疑義を呈した。

 

まず天下の事事物物の理に格(いた)るというが、どうすれば可能なのかという方法論への疑義。そして朱子は外の理によって内なる理を補完するというが、内なる理は完全であってそもそも外の理を必要としないのではないか、という根本原理への疑義である。こうした疑義から出発し思索する中で陸象山の学へと立ち帰り、それを精緻に発展させたのが陽明学である。ただ、陽明学は宋代の陸象山の学を継承したものではあるが、その継承は直接的なものではない。

 

なお陽明学の登場は、朱子学の時ほど劇的ではなかった。朱子学は政治学、存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。しかし陽明学は、そのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。無論儒教に於いて倫理学的側面は最も重要だったといえるが、大転換が起こったわけではなく、その点は注意を要する。

 

陽明学の根本思想

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王陽明の思想は『伝習録』、『朱子晩年定論』、『大学問』にうかがうことができる。そして、その学問思想の特徴は、以下のことばに凝縮されている。

 

1. 心即理 ― 陽明学の倫理学的側面を表すことば。「心即理」は陸象山が朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念で、王陽明はそれを継承した。

朱子学のテーゼ「性即理」では、心を「性」と「情」に分別する。「性」とは天から賦与された純粋な善性を、他方「情」とは感情としてあらわれる心の動きを指し、「情」の極端なものが人欲といわれる。そして朱子は前者のみが「理」に当たるとした。また「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する事事物物の「理」でもあるとされる。つまり「理」の遍在性・内外貫通性が朱子学の特徴であった。

 

しかし王陽明は「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせた心そのものが「理」に他ならないという立場をとる。この解釈では、心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な事物の理を参照する必要は無いことになる。この考えはやがて外的権威である経書、ひいては現実政治における権威の軽視にまでいたる危険性をはらんでいた。

 

なお王陽明の「心即理」は基本的に陸象山のそれをトレースしたものであるが、陸が心に天理・人欲という区別を立てなかったのに対し、王陽明は朱子と同様「天理を存し人欲を去る」という倫理実践原理を持っていた点は異なる。

 

2. 致良知 ― 陽明学の方法論的側面を表すことば。

「致良知」の「良知」とは『孟子』の「良知良能」に由来することばで、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」はそれを元に王陽明が晩年、独自に提唱した概念である。

 

まず「良知」とは、貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに対し、「良知」は人が生来もつものというニュアンスが強い。また陽明学において、非常に動的なものとして扱われる。

 

そして「致良知」とは、この「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる。逆に言えばそれは「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されず、これを「無善無悪」という。王陽明は「無善無悪」について、以下に掲げる「四句教」を残した。

 

    無善無悪是心之体(善無く悪無きは是れ心の体なり)

    有善有悪是意之動(善有り悪有るは是れ意の動なり)

    知善知悪是良知(善を知り悪を知るは是れ良知なり)

    為善去悪是格物(善を為し悪を去るは是れ格物なり)

 

これは

「理そのものである心は善悪を超えたものだが、意(心が発動したもの)には善悪が生まれる。その善悪を知るものが良知にほかならず、良知によって正すこと、これが格物ということだ」

というのが大意である。

 

ただし、善悪を超えたといっても、孟子的性善説から乖離したというわけではない。ここにおける「無」は単なる存在としての有無ではなく、既成の善悪の観念や価値からは自由であることを指す。しかし誤解を招きかねないことばであることは間違いなく、この解釈をめぐり後に陽明学は分派することになる契機となり、また他派の猛烈な批判を招来することにもなる。

 

3. 知行合一 ― 良知の有り様。ここでの「知」(良知)とは端的に言えば認識を、「行」とは実践を指す。陽明学に反感を持つ朱子学者や日本では誤解され、実践重視論として理解されたが、これは本来の意味からずれた理解である。心の外に理を認めない陽明学では、経書など外的知識によって理を悟るわけではない。むしろ認識と実践(あるいは体験)とは不可分と考える。

 

たとえば美しい色を見るときのことを例に取ると、見るというのは「知」に、好むというのは「行」に属する。ただ美しいと感じてその色を見るときには、すでにして好んでいるのであるから、「知」と「行」、つまり認識と体験とは一体不可分であって、両者が離れてあるわけではないと王陽明は説く。

 

また「知は行の始めにして、行は知の成なり」とする。これが「知行合一」である。道徳的知である良知は実践的性格を有し、また道徳的行いは良知に基づくものであって、もし「知」と「行」が分離するのであれば、それは私欲によって分断されているのだ、とする。朱子学では「知」が先にあって「行」が後になると教える(「知先行後」)が、「知行合一」はこれへの反措定である。

 

4. 万物一体の仁と良知の結合 ― 良知の有り様。「万物一体の仁」とは、人も含めて万物は根元が同じであると考え、自他一体とみなす思想である。元々は程顥に見られる発想であるが、陽明はそれを良知と結びつけた。陽明は自らを含む万物はいわば一つの肉体であって、他者の苦しみは自らの苦しみであり、それを癒そうとするのは自然で、良知のなせるものだとした。ここに陽明学は、社会救済の根拠を見出したのである。

 

5. 事上磨錬 ― 自己修養のあり方。朱子学においては読書や静坐を重視したが、陽明はそうした静的な環境で修養を積んでも一旦事があった場合役には立たない、日常の生活・仕事の中で良知を磨く努力をしなければならない、と説いた。これが「事上磨錬」である。

2026/08/20

陽明学(1)

陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学(陸象山と王陽明の学問の意)ともいう。

 

西洋では、朱子学とともに新儒学(英: Neo-Confucianism)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理、知行合一、致良知の説を主要な思想とする。

 

陽明学以前

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宋代の学者に従って儒学の歴史を振り返ると、隋唐以前は経書の音訓(音読)や訓詁(単語の意味)を重視した訓詁学が中心であった。これに対して、宋代の学者は訓詁学者は六経(五経)に込められた孔子ら聖人の本旨を正しく理解できておらず、改めて聖人の本旨を理解する試みが必要であるとの認識に達した。

 

その際、隋唐以前の訓詁的研究を行いつつも、より率直に聖人と解釈者との一体性を強調し、解釈者の心と聖人の心とが普遍であるという前提を構築することになった。その結果、宋代以後の儒学は、孔子の思想的側面(聖人の心と解釈者の心)を明らかにすることにも力を費やすことになり、結果として思弁性のあるものとなった。その代表が朱子学と陽明学であった。

 

朱子学が最も重視したのは、古い歴史をもち勝手な解釈の入る余地の少ない経書そのものではなく、「四書」と呼ばれる四つの書物であった。

 

四書とは、経書の中の『礼記』から分割編纂した「大学」と「中庸」、そして準経書扱いされていた『論語』と、『荀子』と並称されていた『孟子』という四つの書物である。これらの書物は比較的短文で、また勝手な解釈を混入させるに適当な内容の書物であったため、利用されるに至ったと考えられている。特に朱子学が従来の儒学議論の中から、孟子の「性善説」を取り出し、極端に尊崇したことから、「性」「善」の内容をめぐって議論を呼ぶことになった。そのため、諸種の学派間の抗争は、直接には性善説の解釈をめぐって行われる場合も多々見られることになった。

 

隋唐を承け、北宋を経過した儒学は、南宋中頃以後に徐々に道学と呼ばれる思想集団が頭を擡げ、南宋中頃に朱熹が道学を集大成して、遂に江南思想界を席巻するに及んだ。後、元朝によって南宋が亡ぼされた結果、南北中国の交流が始まり、朱子学は漸く華北にも地歩を築くに至った。

 

この朱子学の解釈は、正統的には「四書」と旧来の経書に対する注釈という形で伝わったものであった。そして、この注釈書は元朝以来、徐々に科挙に登用され、明朝初期に及び科挙の使用注釈書は、全て朱子学系統のものとなった。この結果、朱子学は念願の王朝権力との一体化を果たし、思想界に重大な影響を与えることになったのである。

 

このように明朝に於いて確立した朱子学の権威は、明朝統治下のほぼ全域に亘り巨大な力を持つにいたったのだが、明朝政権下の中でも最も商業の発達していた江南地方には、明初期以来、朱子学と微妙な距離を置く人々がいた。例えば、撫州府崇仁県の呉与弼(康斎)や広州府新会県の陳献章(白沙)は朱子学派に属するものの、その聖人となるための修養法は読書よりも実践・静坐を重視するなど、後世から見ると若干朱子学とは異なる側面も見られなくはなかったのである。

 

このことは、特に陳献章の弟子湛若水(甘泉)と王守仁(陽明)とに交流があること、また王守仁と陳献章との学問的関係も絶無とされないことなどが注目され、明初期の江南地方の儒学者と、明中期以後の陽明学者との関係を意味づけるものと考えられる場合もある。しかし、総じて明初期の思想界は朱子学的側面が強く、呉与弼や陳献章にせよ本人としては朱子学の実践を行っているつもりであったのである。

 

なお、以上の解釈には一定の歴史的根拠が与えられるが、これらの説明は日本の近代中国思想研究に於ける影響下にあることを前もって知る必要がある。近代以後、日本の中国思想研究は、西洋哲学を模倣する必要に迫られた結果、朱子学の思弁的側面を強調し、これを以て哲学と比較可能であると見なすようになった。この結果、朱子学とその派生形態である陽明学の中にある、思弁的側面に集中的に研究が加えられ、或はその思弁的側面こそが朱子学ないし陽明学の特徴であると考えられるに至った。それ故に、一般的に朱子学及び陽明学として説明される試みの多くは、この思弁的側面のみに注目したものとなっている。

 

また、朱子学(旧来の思想に対抗して生れたように考えられた)、特に陽明学(後に説明されるように、これは明朝が正式に認めた学問であった朱子学に対抗して生まれ出たように見えた)は、敗戦後の日本に於ける近代思惟・反権力・人間解放などの概念と容易に結びつき、朱子学及び陽明学の中、比較的それらの概念に近似する部分を抜き取り、そこに思想的価値を与えるという試みが盛んに行われた。以後に説明される陽明学の特徴も、その様な意味づけを与えられた結果であり、それが朱子学及び陽明学の歴史的・全面的な結果であると言い得るか否かは大いに疑問とする立場も一部にはある。(2006年現在)[要出典]

 

朱子の死んだのは1200年であるが、その頃の朱子学は程氏系統の学問や道学と呼ばれ、必ずしも支配的な学問としての地位を獲得してはいなかった。

 

朱子の晩年に偽学の禁がおこって道学を偽学問とよび、道学の学従が官界から一掃されようとしたこともあり、当時の宰相趙如愚以下の名士59人が偽党とされた(慶元党禁)。

 

しかし、元代になると南方では既に学界の主流となり、更に許衡と劉因の二人によって北方にも伝来していった。

 

以下、許衡と劉因との有名な問答のみを紹介する。

劉因は、生涯異民族たる元の朝廷に仕えなかった人であり、許衡は仕えて大臣にまでなった人である。許衡が朝廷の召命をうけて北京におもむく途中、劉因を訪ねた。劉因いわく、公がただ一度の招きによって起こったのは、あまりにお手軽すぎはしないか、と。許衡答えいわく、かくのごとからざれば、道、行われず、と。

 

次いで劉因にも召命が下ったが、劉因は固辞してうけなかった。ある人がその理由を聞くと、「かくのごとからざれば、道、尊からず」と答えたという。ともかく、延祐元年に元朝が長年絶えていた科挙を再開したときには、科挙の学科として、朱子学で特に重んじる四書をたて、かつての注は朱子のいわゆる『四書集注』を用いることにし、そのほかの五経についても従来の指定学説であった古い漢唐の注釈のかわりに、朱子もしくはその弟子の作った新しい注が指定されることになった。

 

つまり、朱子学はこの頃にはすでに、科挙試験がその科目として採用せざるをえなくなるほどまでに普及していたということであり、また逆に科挙の科目となることによって、朱子学は圧倒的な権威をふるうことになるのである。

2026/08/11

戦術論 ~ マキャヴェッリ(6)

『戦術論』(伊: Dell'arte della guerra)は、ニッコロ・マキャヴェッリによる軍事学の著作である。

古代ローマの軍事制度・戦闘教義を参考にした軍事学の研究であり、1519年から1520年に全7巻が執筆された。対話篇形式で書かれている。

 

構成

第1巻 : 市民軍について

第2巻 : 市民軍の訓練・武器・戦闘形態

第3巻 : 軍事訓練の未来像

第4巻 : 司令官の心得

第5巻 : 敵中行軍

第6巻 : 陣地作戦

第7巻 : 都市の防衛

 

内容

本書の冒頭で、マキャヴェッリは

「幸福のために社会にもたらされる技術や神の下で制定された儀礼は、軍事力がなければ無価値になる」

と論じている。

これはマキャヴェッリの現実主義的な政治思想を反映しており、他の著作でも一貫して述べられている。

 

国家が採用するべき軍事制度について、マキアヴェッリは主にローマ軍を参考としている。そのため、当時イタリアで主流であった傭兵による軍事組織ではなく、自国民を徴集して軍事組織を作ることを主張する。同時に、この軍は騎兵よりも歩兵を重要視しており、騎兵に依存する国家の脆弱性を指摘している。

 

自国民によって組織した軍隊に対して実施する軍事訓練について、4段階の方式を論じている:

 

第1段階 - 戦闘隊形に号令と共に瞬時に展開する基本教練の動作

第2段階 - 部隊が同一の歩調で行動することで隊伍を整然と維持する行軍の動作

第3段階 - 敵に対する適切な戦闘行動を行う動作

第4段階 - 命令を伝達する際に使用する信号の意味の教育

 

これら軍事訓練によって精強な軍事組織を作り上げられる。

 

一方で指揮官の重要性は別の問題であり、部隊の団結は指揮官に対する勇気や善行などの評判によって左右される。指揮官にとって重要な力量とは、危機的状況において攻撃的に行動する資質であり、また部隊の士気を高めるために演説に長けていることも求められる。

 

本書は16世紀において21版を重ね、フランス語・英語・ドイツ語・ラテン語に翻訳されており、徴兵制度の提唱、軍事訓練の提案などの面において後世の軍事学の研究に影響を与えた。

2026/08/02

君主論(3) ~ マキャヴェッリ(5)

君主の気質

マキャヴェッリは、理想国家における倫理的な生活態度にこだわり、現実政治の実態を見落とすことが破滅をもたらすことを強く批判しており、万事にわたって善行を行いたがることの不利益を指摘する。

 

君主は、自身を守るために善行ではない態度も取る必要がある。あらゆる君主は、その気質が評価されるが、一人の君主があらゆる道徳的な評判を勝ち得ることは原理的に不可能なので、自分の国家に損失を招くような重大な悪評のみを退けることになる。しかしながら、自国の存続のために悪評が立つならば、その払拭にこだわらなくてもよい。全般的に考察すると、美徳であっても破滅に通じることがあり、逆に悪徳であっても安全と繁栄がもたらされることが、しばしばあるからである。

 

このような気質の中で、気前が良い、あるいはけちだと思われることについて考察する。一般的に気前の良さを発揮することは害悪である。一部の人々のために大きな出費がかさむため、重税を課さざるを得なくなり、その他の大勢の領民に憎まれるだけでなく、そのような出費を止めようとすると、逆にけちだという悪評が立つことになる。それよりも、多くの人々の財産を取り上げないことが重要である。つまり、けちと言われることについて君主は全く問題視すべきではなく、けちであることは支配者にとって許容されるべき悪徳の一つである。

 

また、君主の気質として残酷さと憐れみ深さについて考慮すると、憐れみ深い評判の方が好ましいことは自明である。しかしマキャヴェッリは注意を促しており、君主は臣民に忠誠を守らせるためには残酷であると評価されることを気にしてはならないと論じている。憐れみ深い政策によって結果的に無政府状態を許す君主よりも、残酷な手段によってでも安定的な統治を成功させることが重視されるべきである。

 

原則的には君主は信じすぎず、疑いすぎず、均衡した思慮と人間性を以って統治を行わなければならない。しかし愛される君主と恐れられる君主を比較するならば「愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である」と考えられる。なぜなら人間とは利己的で偽善的なものであり、従順であっても利益がなくなれば反逆する。一方で、君主を恐れる人々には、そのようなことはない。

 

君主にとって信義も間違いなく重大であるが、実際には信義を気にせず、謀略によって大事業をなしとげた君主のほうが、信義ある君主よりも優勢である場合が見受けられる。戦いは謀略によるものと武力によるものがあるが、この二つを君主は使い分けなければならない。もしも信義を守った結果、損害が出るならば、信義を守る必要は一切ない。重要なのは君主が立派な気質を備えているという事実ではなく、立派な気質を備えているという評価を持たせることなのである。

 

評価

『君主論』は、メディチ家に自ら売り込み盛名を得ようとして書かれたとも言われ、ゆえに抽象的に君主は、どう在るべきかを説かず、ギリシア・ローマ時代からの歴史上の実例を数多く挙げながら、その成功・失敗理由を述べ具体的な提言をするという、いわば実用書として書かれた。

 

共和制を論じた『リウィウス論』(別題は『ローマ史論』)と対で構想され、マキャヴェッリ自身は、本来共和主義者だったが、イタリア戦争(1527年のローマ劫掠ほか)に至った混乱した時代に直面し、チェーザレ(1507年に戦死)のような強力な君主によるイタリア統一が肝要と考えた。

 

直接の成果は得られなかったが、晩年の1520年にジュリオ・デ・メディチ枢機卿(1523年に教皇クレメンス7世となる)から『フィレンツェ史』執筆の依頼を受けている(1525年に完成)

 

後年の評価・反応

本書で、政治自体を宗教や道徳から分離した政治力学を提起した。だが一般的に、マキャヴェッリの思想は冷酷・非道な政治を肯定するものと考えられ、後世マキャヴェリズムとみなされ、長年マキャヴェッリは道義や倫理を無視した冷酷な権力論を説いたと考えられてきたが、客観的・近代的な政治学の始祖と考えられるようになった。

 

カトリック教会の対抗改革の一環で禁書目録が作られた際は『君主論』も加えられ、焼き捨てられた(1559年頃)

 

16世紀フランスユグノー派のイノサン・ジャンティエは『反マキャヴェッリ論』(1576年)で「裏切りを好む悪徳の作者」といった具合にマキャヴェッリを非難した。

 

1572年のサン・バルテルミの虐殺の首謀者と目されたメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスは『君主論』を読んでいた可能性もある(『君主論』は、彼女の父ウルビーノ公ロレンツォに献じられていた)。

 

18世紀プロイセン王フリードリヒ2世は、ヴォルテールがマキャヴェッリを偉人の一人に数えていることについてに反論し、啓蒙主義的君主として、マキャヴェッリとその著作『君主論』に対する反論として『マキャヴェリ駁論』(別題『反マキャヴェリ論』)を著した。ただし自身の実際の行動は、マリア・テレジアが即位すると、事前に同意していたにもかかわらず反古にして戦争を仕掛け領土を奪うなど、真逆(君主論の記述通り)の行動をとっており、これらの行動をその当時の人々から非難されている。

 

18世紀後半より『君主論』が再評価され、最初に再評価したのはルソーで、主著『社会契約論』で

「国王たちは、人民が力弱く貧困に苦しみ自分たちに反抗できないことを望んでいる。マキャヴェッリは、王公に教えをたれるとみせかけて人民に偉大な教訓を与えた。君主論は共和主義者の教科書」

と讃えた。

モンテスキューやヘーゲルも『君主論』を支持し、見方が変えられることとなった。

 

20世紀イタリアを代表するジャーナリストで歴史作家のインドロ・モンタネッリは、代表作『ルネサンスの歴史』で、『君主論』が後世に多くの世界の為政者に多大な影響を与えた政治思想書であることを認めつつも、マキャヴェッリ自身は政治家・軍人として失敗だらけで何一つ実績を残せなかったことを挙げ

「挫折した理想主義者の偽悪と、自己韜晦を文中から読みとれないようではダメだ」

と述べている。

2026/07/26

君主論(2) ~ マキャヴェッリ(4)

君主の征服

征服を実施する場合、君主には多くの配慮が求められる。マキャヴェッリは、征服地域に近接する諸外国に注意する必要について述べている。

 

例えば、ある地域においてある弱小国を征服した場合、その周辺の弱小国もまた征服者に対して進んで服従を申し出ると考えられる。同地域に影響力を持つ大国がいるならば、征服によって得られた諸勢力と連合してその国を滅ぼすことで、ようやく完全に支配を確立することが可能となる。

 

このような征服の諸問題を克服した成功例として、マキャヴェッリは古代マケドニア王のアレクサンドロスが、東方遠征で得られた広範な領土を維持し続けたことを挙げている。この事業の成功については、君主国の様式で説明される。

 

君主国には、君主が大きな権限を以って行政を担う大臣を任命し、集権的に統治する様式と、元々その地域で支持を得ている諸侯にある程度の自律性を認めて、君主が分権的に統治する様式の二つがある。前者の様式の国家を征服者が統治することは容易であるが、後者の場合は各地でさまざまな勢力が存在するために困難であると考えられる。したがってマキャヴェッリは、アレクサンドロスの征服はペルシア帝国が集権的な君主国であったために、安定的な統治が成功したと考察する。

 

征服においては、それまで自由市民によって統治されてきた都市や国家を征服することもある。マキャヴェッリによれば、このような民衆を統治するためには、一般に三つのやり方が考えられる。第一に、都市や国家を滅亡させること。第二に、君主がその地域へ移住すること。第三に、ある程度の自治を認めて君主に従順な寡頭政権を成立させることである。基本的に自由市民はかつての独立を回復しようと試みる傾向があるため、その地域の市民を統治政策の中で活用することが適当である。

 

君主の力量

新設された君主国の行政は、征服者である君主の力量によって左右されるとマキャヴェッリは論じる。国家を樹立する途上で発生する問題の原因は、新たな社会秩序を導入しようとすることにあり、言い換えれば旧秩序の中で権益を持つ人々すべてと敵対することである。このような問題を研究するためには、君主の力量に着目する必要がある。力量が不足していればその統治は失敗し、民衆を説得し続けることがむずかしくなるのである。

 

他人の武力や運によって新たな君主国を得たとしても、そのような成果は君主の指導力が不足しているために常に不安定にならざるを得ない。もしも運によって政権を得たとしても、その力量が不足していれば国の基盤を構築することはできない。具体的には、敵の排除、味方の確保、武力や謀略による勝利、民衆からの畏怖と敬愛、兵士からの畏怖と敬愛、政敵の抹殺、旧制度の改革、厳格かつ寛大な振る舞い、忠実でない軍の再編、諸侯たちと親交を保ちつつ便益をもたらすようにするか、攻撃の際には慎重であること、これら全てが君主国において不可欠な力量である。

 

非道な手段によって政権を得た君主は、力量があるとはいえない。なぜならば、そのような手段によって獲得した権力には栄光がないためである。

 

征服者が国を奪取する場合、残虐行為を一度で終結させ、その後に民心を獲得しなければならない。断続的な残虐行為は、民衆の信頼を失わせてしまうからである。逆に、恩恵は小出しにして継続的に実施することで民衆の支持を得ることができる。

 

君主の軍備

君主にとって軍備と法律は不可欠なものであり、良い武力の下で初めて良い法が成立する。マキャヴェッリのこの思想は

「すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力とである」

との言葉で要約されている。

 

そもそも軍隊とは自国軍、傭兵軍、外国軍、混成軍のいずれかである。この中で傭兵軍や外国軍は無統制で不忠実であるため、無用であるばかりでなく危険であると史実を引用して断定している。

 

傭兵軍の部隊長が有能であれば、君主はその傭兵からの圧力に晒され、無能であれば君主は戦争そのものに敗れてしまう。また、援助や防衛のために派遣された外国軍は、援軍として勇猛であるがゆえに戦争が終結しても駐留し続け、事実上占領してしまう危険性がある。したがって君主は、自国民から編制された自国軍に統治の基盤を求め、戦争においては他人の武力に頼らないことが重要であると、マキャヴェッリは結論づけている。自国の武力がなければ、あらゆる君主国は破滅の危険に晒されるだけでなく、自力で事態を動かせないために周囲の情勢に左右されるだけになってしまう。

 

さらに、マキャヴェッリは軍事を統治者の本来的な任務に位置づけ、軍備を君主の力量を強化するものとしている。武力のある者が無力な者に服従することや、無力な者が武力ある従者に包囲されて安心することはありえないためである。軍事に無能な君主は部下の兵士たちから尊敬されず、また君主は部下を掌握することができない。したがって君主は、軍備には常に注意しなければならない。

 

軍事訓練には、実践的な方法と精神的な方法がある。実践的な方法では、兵士を組織化し、基本教練を行わせるだけでなく、狩猟などの実践形式によって鍛え上げる。精神的な方法では、歴史を学ぶことが必要である。作戦における指揮や戦術を研究し、逆境における準備を思考の上でも進めなければならない。

 

また、君主は地形についての理解を深める必要がある。地形についての知識がなければ、宿営地を予定し、部隊を行軍させ、戦闘陣を展開することは不可能である。自国の国情について知らない君主は、指揮官としての適性が欠落しているということになる。

2026/07/22

君主論(1) ~ マキャヴェッリ(3)

『君主論』(伊: Il Principe, イル・プリンチペ)は、1532年に刊行されたニッコロ・マキャヴェッリによる、イタリア語で書かれた政治学の著作である。

 

歴史上の様々な君主および君主国を分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持し続けるにはどのような力量(徳、ヴィルトゥ)が必要かなどを論じている。その政治思想から、現実主義の古典として位置づけられる。

 

沿革

マキャヴェッリがフィレンツェ共和国で失脚し、隠遁生活中の1513年 - 1514年に完成したと考えられており、1516年にウルビーノ公ロレンツォへの献上文を付してフランチェスコ・ヴェットリ( Francesco Vettori )に託された。写本で読まれ、マキャヴェッリの死後、1532年に刊行された。

 

著作には表題はついておらず、友人ヴェットリへの手紙の中で「君主体制」に関する本を書いたと述べているため、『君主論』(Il Principe)と呼ばれるようになった。

 

構成

献辞と、26の章からなる。

 

献辞 - ロレンツォ・デ・メディチ殿下に捧げる

第1章 - 支配権の種類とその獲得方法

第2章 - 世襲の君主権について

第3章 - 複合的君主権について

第4章 - アレクサンドロスによって征服されたダレイオス王国では、アレクサンドロスの死後、その後継者に対して反乱が生じなかったのは何故か

第5章 - 征服される以前、固有の法に従って統治されていた都市や君主国をどう支配すべきか

第6章 - 自己の武力と能力とで獲得した新しい君主権について

第7章 - 他人の武力または幸運によって得た君主権について

第8章 - 極悪非道な手段によって君主となった場合について

第9章 - 市民の支持によって得た君主権について

第10章 - どのようにすべての支配者の力を測定すべきか

第11章 - 教会の支配権について

第12章 - 軍隊の種類と傭兵について

第13章 - 援軍と自己の軍隊とについて

第14章 - 軍事に関する君主の義務について

第15章 - 人間、特に君主が称讃され、非難される原因となる事柄について

第16章 - 気前良さとけちについて

第17章 - 残酷さと慈悲深さとについて、敬愛されるのと恐れられるのとではどちらがよいか

第18章 - 君主は信義をどのように守るべきか

第19章 - 軽蔑と憎悪とを避けるべきである

第20章 - 砦やその他君主が日常的に行う事柄は有益かどうか

第21章 - 尊敬を得るためにはどのように行動したらよいか

第22章 - 君主の秘書官について

第23章 - 追従を避けるにはどうしたらよいか

第24章 - イタリアの君主達はどうして支配権を失ったのか

第25章 - 人間世界に対して運命の持つ力とそれに対決する方法について

第26章 - イタリアを蛮族から解放すべし

 

内容

『君主論』は全体で26章から成る著作である。

 

第1章において「君主政体にどのような種類があるか」と挙げ、その一つ一つについてを続く第2章から第11章までで解説する。第12章から第14章までは、いかなる君主政体においても必要となる軍備について述べる。第15章から「臣民や味方に対する君主の態度と政策がどのようにあるべきか」と、本来の意味での君主論に移る。マキャヴェッリはチェーザレ・ボルジアに理想的な君主の能力を見ている。第24章からは現実のイタリアに目を向ける。

 

当時、イタリアは多くの小国に分裂し、外国の圧迫を受けて混乱の最中にあったが、イタリア統一への願いから「統一を実現し得るのはいかなる君主か」を論じ、メディチ家への期待を述べて論を終える。

 

君主の統治

マキャヴェッリはまず国家の政治体制から共和国と君主国に大別した上で、君主国に議論を限定することから始める。

 

そもそも君主国の統治を行う場合、より容易なのは世襲の君主国である。なぜなら世襲の君主ならば、既に定められた政策を維持して不測の事態に対処するだけで統治は事足りるからである。この場合には、君主は平均的な能力さえ持てば国民にも好感を持たれ、たとえ侵略に遭ったとしても奪還が可能である。

 

しかしながら、全く新しい君主国を建設する場合には、さまざまな問題に直面することになる。なぜならば、君主は国家を建設または獲得する上で不可避的に国民に何らかの被害を与え、そのことによって反乱が発生するからである。征服によって領有した地域の住民の言語や風習、制度などが征服者のそれらと異なる場合、統治にはさらに深刻な困難が生まれると分析する。このような国民との対立を解決する施策としては、征服した地域における旧君主の血統の根絶、支配地域の法体系や税制の維持、征服者が本拠地をその地域に移すことや、移民を兼ねた部隊の派遣を提示している。

 

このような、君主国における民衆の心理の分析を踏まえて、その対処については

「覚えておきたいのは、民衆と言うものは、頭をなでるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである」

という見解を示している。つまり、君主は領民を被治者としてだけでなく、潜在的に有害な敵にもなりうる存在として認識すべきことをマキャヴェッリは強調している。

2026/07/21

スペインが2度目の優勝(ワールドカップ2026北中米大会)(8)


決勝戦は世界ランク1位(アルゼンチン)と2位(スペイン)、そしてワールドカップサッカー史上初めてヨーロッパと南米のチャンピオンという、まさに「頂上対決」となった。

 

延長前半までは0-0、延長後半にようやく均衡破れスペインが1点を奪うという、スコアだけを見るとまことに決勝に相応しい接戦かのようではあるが、内容的にはスペインがアルゼンチンを圧倒した。

 

何しろシュート数20本のスペインに対し、アルゼンチンのシュートはたったの2本。それも延長後半のロスタイム入るまでは、ただの1本のシュートも打てないまで完封されたように、期待された熱戦には程遠かった。

 

戦前の予想は「アルゼンチンの個人技」と「組織力のスペイン」の戦いになると思われたが、準決勝のフランスと同様、アルゼンチンは120分間でほとんどチャンスらしいチャンスがないまま、なすすべもなく敗れた。

逆に言えば、あの世界屈指ともいえる攻撃力を誇るフランス、アルゼンチンに何もさせなかったスペインは、まさに「無敵艦隊」であった。

 

スペインは、これでウルグアイ、フランスと並ぶ2回目の優勝である。

 

勝つためには反則など何でもありのアルゼンチンとは違い、フェアプレーで優勝したスペイン。グループステージから8試合でわずか1失点と、かつて「カテナチオ(Catenaccio)」と称されたイタリアの堅守速攻サッカーも真っ青の堅守にくわえ、バリエーション豊富な高い技術から繰り出される多彩な攻撃を展開するなど、チャンピオンに相応しい戦いぶりを見せた。

2026/07/17

準決勝(ワールドカップ2026北中米大会)(7)

 

過去最多の48か国が参加し、1か月以上に渡る長丁場となったワールドカップサッカー北中米大会も、いよいよ佳境に入った。

 

48か国の中から勝ち残った4か国は、フランス、スペイン、イングランド、アルゼンチンと、ものの見事なまでに世界ランキング1位~4位の国が揃った。

 

スペイン 2-0 フランス

 

好カードが目白押しとなった今大会においても「事実上の決勝戦」と目された一戦は、思わぬ一方的な展開となった。

 

かねてよりフランスサッカーチームが、どうにも嫌い(フランスが嫌いというワケでは決してないが)なワタクシは、当然ながらスペインに肩入れするところだが、そうはいってもフランスは前々回大会で優勝、前回大会もPK戦の末に決勝で敗れたとはいえ、今大会も「優勝候補筆頭」に挙げられていたのは妥当であった。事実、予選リーグからの6試合を見る限り、まったく付け入るスキがなく「優勝候補」に相応しい戦いぶりだった。

 

ところが、である。

勝負とはまことにわからないもので、ここまであんなにも強かったフランスが、この日ばかりは90分間ほぼ何もさせてもらえず、なすすべなくスペインの前に屈した。

 

勝負事には、実力とは別に「相性」ということがあるらしい。

かつて「サッカー王国」と称されるほど強かったブラジルがフランスを苦手にしていたように、フランスにとってはスペインとの相性が悪いようで、欧州の主要大会を見ても分の悪い相手ではあるとはいえ、ここまでいいところなく終わるとは予想外ではある。

なにしろ、これまで驚異的な攻撃力を発揮してきたエムバぺ、デンベレともに、まったく仕事をさせてもらえなかったのだから。

 

逆に言えば、あの強いフランスをここまで見事に完封してのけたスペインの底力こそは、実に凄まじかったというべきか。フランスに比べ圧倒的な破壊力や派手こそヒケを取るものの、サッカーの原点ともいえるあのパス回しは芸術的な域と呼べる美しさで、あのフランスがボールに触ることすら困難なほど翻弄されたことからも、その技術の高さが改めて証明された。

 

実際、ボールの転がるところに必ずスペイン選手がいるように、まるで相手より人数が多いのではと錯覚してしまうほどであった。

 

アルゼンチン 2-1 イングランド

 

前回優勝国として、今回も当然のごとくに優勝候補に挙げられたアルゼンチンだが、ここまでは予想外の苦戦続きだった。

 

グループリーグはさておき、トーナメント1回戦から楽勝と思われた無名国のカーボベルデに2-1と苦戦したのを皮切りに、2回戦でも「格下」のエジプトに2点リードされながら、後半の土壇場にやっとこさ追いつき、なんとか逆転という薄氷勝利の連続で

「アルゼンチンは、本当に強いのか?」

と、疑わしくなるくらいの迷走ぶりだった。

 

対するイングランドは「サッカーの母国」と称されながら、優勝は60年前に1度のみと「看板倒れ」が定番だったが、今回はともに6得点を挙げてきたハリー・ケイン(ハリケーン?)、べリンガムという強力2枚看板を擁して準決勝に進出。人気先行で期待外れに終わったベッカムが率いた時よりは期待できる陣容だけに、今回ばかりはアルゼンチンにも勝てるかと期待された。

 

アルゼンチンに関しては、これまで「審判買収疑惑」やら、エジプト戦で2点ビハインドから後半30分過ぎから3点奪っての「出来過ぎた大逆転劇」など「疑惑?」満載のせいか、今回はすっかり「悪役」となってしまった感がある。対照的に「60年ぶりの優勝」を念願するイングランドに肩入れしたくなるのは、判官贔屓の理屈から言っても自然の摂理だろう。

 

そして、この試合もまた先制を許したアルゼンチン。今度こそは「真の実力」が問われる展開となったが、結果はまたしても「憎たらしいくらいの見事な逆転勝利」だ。加えてイングランドが誇る2枚看板にもほとんど仕事をさせなかったのだから、さすがにその実力は本物と認めざるを得ない粘り強さというしかない。

 

この結果、決勝は

 

スペインvsアルゼンチン

 

と、誰もが疑いようのない文句なしの「頂上決戦」に決まった。

 

先にも記した通り心情的にはスペイン応援となるし、休養日が1日多い分だけスペイン有利という気がするが、対するアルゼンチンも逆境には滅法強いだけに、どう転ぶかわからない。

ここまで7試合でわずか1失点という鉄壁の守りを見せるスペインの壁を、個人技に長けたアルゼンチンがこじ開けられるかがポイントとなるか。

 

珍しいことに、今大会は準々決勝~準決勝の6試合でPK決着がひとつもなく、文字通り手に汗握る好ゲームが続いているだけに、最後の決勝戦もPKなしですっきり勝敗を決していただきたいものである。

2026/07/13

準々決勝(ワールドカップ2026北中米大会)(6)


 「優勝候補」に挙げられていたフランス(FIFAランキング1位)、スペイン(同2位)、イングランド(同4位)、アルゼンチン(同3位)が、順当に準々決勝を勝ち上がった。

 

フランスの相手はモロッコ。

前回の準決勝に続く再戦となったが、2-0で今回もフランスの勝利。これまで良い戦いをしてきたモロッコも、フランスには完敗だ。

 

スペインは「赤い悪魔」ベルギーに2-1、イングランドとアルゼンチンは、それぞれノルウェーとスイスを相手に延長戦を戦った末、なんとか勝利をもぎ取った。

 

相手は、どれが勝ってもおかしくないような試合巧者だけに、ひとつくらいは波瀾があるかと思ったが、FIFAランキング上位4か国の「4強」が揃って準決勝に勝ち上がるとは、まことにここまで波瀾の少ない大会も前代未聞だ。

 

この結果、準決勝は

 

(1)      フランスvsスペイン

(2)      イングランドvsアルゼンチン

 

に決まったが、ここまで見る限り(1)が事実上の決勝と言えそうである。

2026/07/12

マキャヴェッリ(2)

https://dic.pixiv.net/

概要

『君主論』や『戦術論』『政略論』などで有名な、イタリアルネサンス期を代表する思想家。

政治理論に科学的な手法を持ち込み、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始したことで、歴史上ではじめての近代的な政治思想家と言われる人物。

 

なお世間では『君主論』で述べられたマキャベリズムの元祖である、という誤解が浸透しているが、後述の生涯から共和制と君主制の両方を体験したことで、どちらの長所・短所も論じており、どちらかといえば理想の政体を決められず悩んでいた『政略論』の方が本音に近い。

 

日本語では「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」など様々な表記が見られる。

 

生涯

1469年、フィレンツェ共和国の法律家の三男坊として誕生。

決して裕福ではなかったが両親の愛情に恵まれ、当時の上流階級の必須教養であったローマ・ギリシャ古典やラテン語等を学んで育つ。

 

当時のイタリアは幾つもの小国に分裂し、それらがさらにフランスやスペインなどの外国の勢力と絡みながら争う、いわば戦国乱世の時代でもあった。当然、マキャヴェリの暮らすフィレンツェも例外ではなく、メディチ家の追放やサヴォナローラの神政と、その失敗などの政治的な動乱を目の当たりにしながら青春時代を過ごす。

 

1498年に共和国政府の内政・軍政を担当する第二書記局長に選出される。さらに「自由と平和のための十人委員会」秘書官・大統領秘書官も兼任。周辺諸国との交渉など、あちこちを飛び回りながら多忙な日々を送る。

 

その頃、フィレンツェにとって生命線の一つであった交易都市ピサが勝手に独立して、コントロール下から離れていることが問題となっていた。

マキャヴェリはピサの再征服を主張し、自ら軍事行動の立案から実行まで関わる。

 

しかし1499年の一度目のピサ侵攻は、兵力として雇った傭兵部隊が再領有目前で勝手に撤退して失敗。1500年の二度目のピサ侵攻には、フランス王から兵を借りて臨みマキャヴェリも軍顧問副官として赴くも、散々フランス軍に振り回されまくった挙句に失敗する。

後年のマキャヴェリの「自国の軍を持つ必要性」や他人の褌で相撲を取ることを考えてはならないという主張は、この経験に基づくといわれている。

 

1502年、チェーザレ・ボルジア率いる教皇軍が、フィレンツェ近くのウルビーノを征服したことでマキャヴェリは使節として派遣され、チェーザレと交渉、和議を結ぶ。

この時、古典を学び諸国を飛び回る中で様々な為政者を見聞きしていたマキャヴェリは、権謀術数に長けるチェーザレの姿に理想の君主像を見出すようになる。

 

1504年、マキャヴェリは自らの経験と考察から、国の根源は傭兵に拠らない軍事力にあると確信、市民兵による『国民軍』の創設を主張・計画する。

貴族や富裕層の中には国民軍創設に反対する者もいたが、それらをはねのけてコンタードの農民を徴兵し、自ら軍部秘書となって国民軍を実現させる。

 

しかし1512年、国民軍はメディチ家の復権を目論むスペイン軍にあっさり敗北。

マキャヴェリは失職に追い込まれた上、反メディチ家と目されて逮捕されてしまう。ジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選出されたことで大赦によりすぐに釈放はされたものの、年収の10年分にあたる保釈金を友人3人に借りて支払っている。

 

こうして1513年以降、当時43歳の若さで隠遁生活を余儀なくされたマキャヴェリは、妻子を連れてフィレンツェ郊外の山荘に移り住み、昼は農業・夜は著述活動に精を出すようになる。

 

彼の執筆活動は政治・歴史・軍事の評論から劇作までに及び、特に喜劇は大好評を博して文筆家としての名声を獲得した。だがそれでも愛国者であった彼にとって公職への執着心は捨てきれなかったようで、『君主論』の執筆の際は、わざわざ官服に着替えてから執筆していたことが明かされている。

 

1516年、フィレンツェ統治者にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、マキャヴェリに謁見の機会が与えられ、謁見の場で彼がロレンツォに献上したのが著作『君主論』であった。

『君主論』は「君主たるものが、いかにして権力を維持し、政治を安定させるか」という政治手法を科学的に考察して書き記された謂わば『君主のためのハウツー本』であり、マキャヴェリはこの本を就職用パンフレットとして献呈することで、メディチ家に取り入ろうとしたのだった。

 

結局、この時は成功することがなかったのだが、1520年にはロレンツォの後任者であったジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)に『フィレンツェ史』の執筆を依頼されるなど、公職に就くことはできないまでも、メディチ家政権下において顧問的に扱われるようになる。

 

だが1527年、教皇クレメンス7世(ジュリオ)がローマ略奪の惨事を招いてしまったことで、メディチ家は再びフィレンツェを追放されてしまう。それに伴ってマキャヴェリもまた政権から追放される憂き目に遭い、失意のうちに病で急死した。享年58歳。

 

人物像

その政治思想や著述作品から、一般的には陰鬱かつ冷酷非情な男というイメージを持たれやすいが、私人としては陽気でおしゃべりでお人好し、酒好き・賭博好き・女好き、良き父(ちなみに上記の43歳で失職した時点で5児の父であった)・良き夫という現代にも通じるイタリア人男性のステレオタイプとも言える人間性の持ち主であった。

 

また、隠遁時代には昼間は家族と共にブドウやオリーブなどの農作業をする合間、地元の酒場で農民や職人らと賭け事をして過ごしたという。

2026/07/09

決勝トーナメント2回戦(ワールドカップ2026北中米大会)(5)


決勝トーナメント2回戦が終わり、ベスト8が決まった。

 

今大会は、出場国がこれまでの「32」から「48」に大幅に増えたことで

「なんという水増し大会か・・・今まで通り32で良いのに」

と嘆いたのは、何を隠そうワタクシである。

 

そして出場国が増えたことに伴い、決勝トーナメント進出国が「16」から「32」に増えたことについて

「これでワールドカップサッカーの権威も地に堕ちたな・・・」

と、さらなる嘆きに輪をかけたものであった。

 

「こんなことでは、ドローに恵まれた弱小国がムダに決勝にトーナメント出てしまい、つまらなくなるのは必定だ」

などと決めつけていたりもした。

 

ところがどっこい・・・なんと、これが決勝トーナメントの蓋を開けてみたら予想外の面白さで、正直言って

 

「かつて、こんなに面白いワールドカップサッカーがあったか?」

 

などと、もはや臆面も節操もなく喜んでいる。

 

いや、それほどまでに今回のワールドカップサッカーは、本当に面白いのだ。

 

「いったい、何がそんなに面白いのか?」

 

と聞かれると、決勝トーナメント1回戦も2回戦も、これという波瀾はなく「優勝候補」や「強豪国」と前評判の高かったチームは、ほぼ順当に勝ち上がった。

むしろ「こんなにも波瀾の少ない大会は珍しい」くらいだ。

 

もっとも強豪国が順当に勝ち上がってきているとはいえ、アルゼンチンがエジプトにまさかの2点リードを許しながら、終了間際にやっとこさ追いついてなんとか逆転したように、「優勝候補」や「強豪国」も決して余裕で勝ち上がっているわけではなく、結構薄氷の勝利だったりする。

 

こうしたエジプトに代表される「優勝候補」や「強豪国」にカテゴライズされていない国、その他ではカーボベルデやコンゴといった名脇役の健闘こそが、今大会を盛り上げているといって過言ではない。

※ちなみにエジプト側から「アルゼンチンの審判買収疑惑」が出ているが、この試合は地上波中継がなくワタクシは観戦できていないから、真相はわからない。

 

さらに、今大会の盛り上がりに大きく貢献しているのが「得点王争い」である。

 

先にふれたように「優勝候補」や「強豪国」と言われていたチームが、前評判通りに勝ち上がって来たの同様、得点王争いについても前評判の高かった強豪国のエースたちが、揃いも揃って期待通りの結果を残しているのである。

 

「前評判の高かった強豪国のエースたちが、期待通りの結果を残している」というと何やら当たり前のように聞こえるが、決してそうではない。過去の大会を振り返れば明らかなように、大体において「前評判の高かった強豪国のエースたち」というのは、ワールドカップの舞台では得てしてパッとしなかったり、評判倒れの方が多かった。これも過去の大会に比べ、今大会の面白さがより実感できる大きな要因と言えるのである。

 

ともあれ、ベスト16までは3か国揃って残っていた北米勢は呆気なく全滅となり、8強のうち6チームが欧州勢と「ヨーロッパ選手権」の様相を呈してきた。欧州以外で生き残ったアルゼンチンとモロッコは、どこまで生き残れるのだろうか。

2026/07/05

決勝トーナメント1回戦(ワールドカップ2026北中米大会)(4)


決勝トーナメント1回戦。

これまで決勝トーナメントに進むのは16チームだったから、ひとつ勝てば準々決勝進出だったが、今回は32チームが決勝トーナメントに進出となったことで、準々決勝まで勝ち上がるには2勝が必要である。

 

通常であれば「決勝トーナメントからが真のワールドカップ」といえたが、「水増し大会」となった今大会は1回戦はまだ実力差が大きいだろうと思っていた。ところが蓋を開けてみれば好試合の連続で、観客の盛り上がりも物凄い。

 

ネットの「独占契約」が話題となったインチキサギ契約などは相手にしないワタクシ(実際には単にビンボーなだけだが・・・)としては地上波中継頼みだが、幸いにして地上波中継が皆無だったWBCとは違い、多くの試合が中継されるのは有難い。

 

その結果が、先にも記したように「1回戦じゃあ、まだつまらんだろう・・・」という予想を大きく覆し、これが手に汗握る好ゲームの連続なのだ。

 

「日本vsブラジル」は言うに及ばずだが、他にも「オランダvsモロッコ」、「ポルトガルvsクロアチア」、「ノルウェーvsコートジボワール」、「アルゼンチンvsカーボベルデ」などなど、どれも1回戦で当たるのが勿体ないようなカードが目白押しであり、結果的には波瀾と言えそうなのはドイツがPK戦の末にパラグアイに負けたくらいで、その他の強豪国は順当に勝ち上がってきた。

 

今大会「目標は優勝」などと、恥知らずの大風呂敷を広げていた日本は「順当に」ブラジルに敗退した。

「史上最強」チームとの呼び声も高かったが、終わってみれば4戦して格下のチュニジアに勝った1勝のみ。引き分けがやっとのオランダ、スウェーデンは揃って決勝トーナメント1回戦で早々に敗退したことから見ても、「優勝」などは夢のまた夢というのが現実だった。

 

確かに回を重ねることに力をつけてきていることは認めるが、まだまだトップとの差は大きいというしかないし、オランダにPK戦で勝ったモロッコは前回4強だから、これは番狂わせではない。日本は、まだまだ16強に残る実力すらなかったということであろう。

 

ともあれ、ベスト16が出そろった。

大陸別ではヨーロッパ「7/16」、南米「4/6」、北中米「3/6」、アフリカ「2/10」という中、悲惨なのはアジアで唯一の「0」。ムダに9か国も出場しながら、まさに恥をさらしに来ただけの体たらくである。

そもそもアジアの「9枠」は多すぎであり、精々「4」、いや「3」でもまだ多いくらいだ。

 

さて、先にも記した通り1回戦から好ゲームの連発を見るにつけ

「まだ先は長いのに、この先一体どうなるのか?」

となお期待は膨らむばかりだが、あるいは試合数が多いだけに、選手たちの疲労もピークに達してくるにつれ凡ゲームが増えて来ないか、との懸念も拭えないのである。

2026/06/29

グループステージ第3節(ワールドカップ2026北中米大会)(3)


グループリーグの第3節が終了し、決勝トーナメントに進出する32チームが確定した。

 

某記事から引用。

『今大会から出場48チームに増えたことで、アジア勢は「4.5」から「8.5」に出場枠が増加。また、大陸間プレーオフ経由で出場したイラク代表を加えると9チームが参加した。

しかし、グループリーグを突破したのは日本代表(F組2位)とオーストラリア(D組2位)の2チームのみだ。

 

 大陸別に見てみると、出場チーム数が最も多い「16」の欧州は13チームがGLを突破している(突破率81%)。

アフリカは10チーム中9チーム(90%)、北中米は6チーム中3チーム(50%)、南米は6チーム中5チーム(83%)とウルグアイ代表以外が決勝トーナメント出場を決めた。1チーム出場のオセアニア勢は、ニュージーランド代表が敗退している。

 

 また、大陸別の合計得失点でも大きな格差がある。

欧州は「+33」、南米は「+13」、アフリカと北中米は「-3」、そしてアジアは「-34」でダントツの最下位だった。』

 

アジア代表の2チームのうち、オーストラリアは地理的な関係からアジアにカテゴリされただけで、人種的にはアングロサクソン系だから、実質的にはアジア代表は8か国で、その中で唯一日本のみが決勝トーナメントに進出というのが実態である。

 

その日本は、グループリーグ第3節ではスウェーデンと1-1で引き分け、通算「1勝2分」でグループ2位での通過となった。同グループ1位は「2勝1分け」のオランダ、また日本と引き分けたスウェーデンも「1勝1分1敗」ながら、グループ3位でトーナメント進出を決めた。

 

過去2回優勝経験のあるウルグアイがグループステージ敗退となったが、全体としては大きな波瀾はなく強豪国が順当に勝ち上がった。

 

6/29から休みなく決勝トーナメントが始まったが、これまでの16チームではなく32チームからのスタートだけに、初戦はまだ実力差がかなりありそうな組み合わせも多い。

 

そんな中で「日本vsブラジル」は最注目カードだ。

相手は過去最多の5回優勝を誇る「王者」とはいえ、今大会に限ってはそれほど評価が高くなく、世界を代表するようなスーパースターもいない。とはいえ、日本がやっとこさ引き分けたオランダ、スウェーデンより強いことは間違いないだろうから、もし日本が勝ったら「歴史的な番狂わせ」と言えるが、可能性は低いとみる。

 

決勝トーナメント表を見ると、ドイツ、フランス、オランダが入った左上が「死の組」といえるか。

左下はポルトガル、スペイン、ベルギー、右上はブラジル、日本、イングランドと、どのヤマも強豪が3か国程度入っている中で、唯一右下だけが「アルゼンチン1強」のようでトーナメント運に恵まれていそうだが、ダークホースが現れるか。

2026/06/28

マキャヴェッリ(1)

ニッコロ・マキャヴェッリ(イタリア語: Niccolò Machiavelli, 1469年5月3日 - 1527年6月21日)は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。

 

著書に『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。日本語では「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」など様々な表記が見られる。

 

軍事理論

マキャヴェッリはその軍事思想を『君主論』、また『政略論』や『戦術論』に記している。その特徴として、以下のことが挙げられる。

 

軍事力の重要性を論じている。

『君主論』において、君主に必要なものとして法律とともに軍備が挙げられている。また傭兵軍ではなく常備軍の編制を重視し、また騎兵ではなく歩兵の有効性を論じてもいる。

 

軍事訓練の重要性を論じている。

マキャヴェッリは、軍事訓練を錬度に合わせて段階的に実施することを述べており、第1段階に整列の動作の訓練、第2段階に整列行進の動作の訓練、第3段階に戦闘訓練、第4段階に信号や命令伝達の教育としている。

 

司令官の軍事的統率能力の重要性を論じている。

これは統率論として、軍隊の団結に司令官の統率力が直結すると述べられており、血筋や権威ではなく、勇敢や善行がこの統率力を強化すると考えている。また演説の能力も求められるとしている。

 

フィレンツェ共和国は、ピサに攻勢を仕掛けピサを包囲したが、ピサ側はアルノ川の舟運を使って海から物資を運び入れた。軍事にも関心のあったレオナルド・ダ・ヴィンチは、アルノ川の流路を迂回させ、ピサを経由しないようにする作戦を立案した。副官として従軍していたマキャヴェリはダ・ヴィンチの案を採用し、1504年から工事に取り掛からせたが、当時の土木技術には限界があり、アルノ川の流路変更工事は失敗に終わった。

2026/06/25

グループステージ第2節(ワールドカップ2026北中米大会)(2)

グループステージの第2節が終了し、以下の各国が決勝トーナメント進出を決めた。

 

A組:メキシコ(北中米カリブ海/開催国)

D組:アメリカ(北中米カリブ海/開催国)

E組:ドイツ(欧州)

I組:フランス(欧州)

I組:ノルウェー(欧州)

J組:アルゼンチン(南米)

K組:コロンビア(南米)

 

日本はチュニジアに4-0と快勝し、1勝1分となった。

日本の4得点というのは、ワールドカップでの最高得点である。長年にわたり、決定力不足は日本の「宿痾」とされて来たが、今大会に限っては2試合で6得点と攻撃陣の活躍が目覚ましい。

 

これまでは一貫して、少ない得点を堅い守備でなんとか守りぬいて勝つのが日本のスタイルだっただけに、アグレッシブにゴールに襲い掛かっていく姿は、まったく全く見違えるようだ。

果たして、どこまでこの好調が続くか。

 

前回と繰り返しになるが、何しろ今大会は出場48か国のうち2/3の32か国が決勝トーナメントに進める「水増し大会」だから、ここまでもたついている「優勝候補」チームであれど、最終的には大きな波瀾なく勝ち上がってくると予想される。

2026/06/23

ピコ・デラ・ミランドラ

ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola、1463年2月24日 - 1494年11月17)は、イタリア・ルネサンス期の哲学者、人文学者である。

 

「人間の尊厳」を主張したとされてきたが、近年では、ピーコの用いる「尊厳」の語には「序列」という意味もあり、今日でいう「尊厳」の意味はなかったとも言われている。ともあれ、ピーコにとって人間とは、なんにでもなれる変幻自在のカメレオンのごときものであった。なお「ピーコ・デッラ・ミランドラ」とは「ミランドラ出身のピーコ」という通称であり、名字はピーコである。

 

生涯

北イタリア・ミランドラの領主、ピーコ家(it:Pico (famiglia))ジャン・フランチェスコ・ピーコ1世の子として生まれた。ボローニャ大学で法律を、パドヴァ大学で教会法を学んだのち各地で研鑽を積み、フィレンツェへ行き哲学者として高名なマルシリオ・フィチーノと接した。若くして才能を発揮し、プラトンをギリシャ語で、旧約聖書をヘブライ語で読んだ。博識で弁が立ち、メディチ家のプラトン・アカデミーの中心的な人物の1人になった。

 

人間は小さな宇宙であり、その中には元素から動植物、理性、神の似姿に至るまでが含まれると考え、人間が動物と異なるのは自由意志によって何者にも(神のようにも獣のようにも)なることができる点だとして、「人間の尊厳」を主張した。1486年、ローマで哲学・神学の討論会を企画し、討論会のために書いた原稿が『人間の尊厳について』 (Oratio De Dignitate hominis) で、ピーコの主著である。ただし、この題名はピーコ自身の命名ではない。

 

この討論会では、聖体変化などについての議論も予定しており、ローマ教皇インノケンティウス8世から異端の疑いをかけられ、討論会は中止。ピーコも逃亡後、捕えられてしまうが、メディチ家のロレンツォ・デ・メディチの努力により釈放され、フィレンツェに戻る。ジローラモ・サヴォナローラとも親交があった。31歳で死去。

 

フィチーノと同様、近年は異教的な神秘主義の側面が注目されている。自然を支配する業としての魔術を信じていたが、占星術については人間の運命が定められているというのは人間の自由意志に反する、として反対するようになり、師フィチーノの説を批判した『反占星術論』を執筆している。また非ユダヤ人としては、はじめてカバラを極めたとされる。