日本の陽明学
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日本に伝わった朱子学は、その普遍的な秩序への志向により、体制を形作る治世者に好まれた。一方、王陽明の意図に反して、陽明学には反体制的な理論が生まれたため、反体制の側が好む場合もあり、自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。
心即理(鏡面のような心)が本来前提であるにもかかわらず、己の私欲、執着を良知と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある。山田方谷も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている。
江戸期の代表的な陽明学者は、中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。その他、淵岡山、中川謙叔、三輪執斎らがいる。
幕末期の陽明学信奉者
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幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。
高名な偉人では吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らが影響を受け、大塩平八郎の乱に代表されるように革命運動に身を挺した者も多い。
一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、陽明学の持つ危険性を承知した上で、弟子には先に朱子学を学ばせ、有望な弟子にのみ陽明学を教えた。
山田方谷と佐久間象山は、佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で学んでいる。塾長の方谷に若き日の象山がいどんだ連夜の激論は塾の語り草であり、佐門の二傑と称された。
佐藤一斎は朱子学を奉ずる昌平黌の儒官であり、公然と陽明学の理を主張し得なかったが、著書の『大学一家私言』は陽明学の視点で書かれたものであり、また幕末の志士に大きく影響をあたえた『言志四録』には、陽明学の思想が散見される。また、一斎が中江藤樹を尊崇していたことや、彼の門から陽明学の影響を受けたものが多数輩出していることなどから、一斎が陽明学を奉じていたことは明白であるとされる。
そのため「陽朱陰王」のそしりを受けたが、その主とする所は陽明学に存すると言える。
近代日本の陽明学
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日本における陽明学の全盛期を、明治維新以降とする説もある。即ち、三宅雪嶺が1893年に刊行した著書『王陽明』を嚆矢とする幕末陽明学の再興運動が、欧化政策の反動として高揚した国粋主義や武士道の見直しの動きと結びつき、明治後期から大正時代にかけて頂点を迎えたという見方である。
この時期の主な人物として、上記の三宅雪嶺や井上哲次郎のほか、高瀬武次郎、徳富蘇峰、吉本譲、東敬治、石崎東国らがいる。当時の陽明学は、日本国民の精神修養の一環として、死生を逸脱した純粋な心情と行動力とを陶冶する実践倫理として説かれる部分が大きかった。
また、この頃の日本における陽明学の再評価が、梁啓超に代表される清人留学生の目に留まり、中国での陽明学再興に大きな影響を及ぼした。
各界の信奉者
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財界
岩崎弥太郎 - 三菱財閥の創設者
渋沢栄一 - 実業家、「日本資本主義の父」
その他
広瀬武夫 - 海軍軍人
東郷平八郎 - 海軍軍人
奥宮健之 - 自由民権運動家
幸徳秋水 - 明治期の社会主義者、奥宮健之の父・慥慥斉に師事
富岡鉄斎 - 文人画家、儒学者
三島中州 - 漢学者、二松學舍創立者
三島由紀夫 - 作家。晩年に傾倒]。ただし、三島は王陽明の『伝習録』を直接読んでいる形跡はなく「日本陽明学」の系譜からの影響を受けた。三島は井上哲次郎の『王陽明の哲学の心髄骨子』を読んでいる。三島の評論には『革命哲学としての陽明学』がある。
安岡正篤 - 陽明学の像を「帝王学」とし、本来は「心学」である陽明学の像を変えたという意味で功罪があるとされる。安岡が東大卒業時に出版した『王陽明研究』は、日本や中国の識者に大きな影響を与えた。安岡の著書は『東洋宰相学』『日本精神の研究』など多岐に亘り、安岡が必ずしも陽明学者としてのみ位置づけられるものではない。
朝鮮の陽明学
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朝鮮半島には、16世紀初めに齎された。その初期に陽明学を奉じた者としては、南彦経と李瑶がいる。
次いで許筠と張維が出て、陽明学を発展させた。許筠は陽明学の立場から朱子学の礼教的側面を批判し、また、朝鮮では最も早く人欲を肯定した思想家である。張維は朱子学の「知先行後」を論難し、陽明学の「知行合一」を賞賛した。また陽明学の個性尊重の側面を受け継ぎ、「自治・自立・自主」に重きを置いた学説を説いた。
その後に張維の影響を強く受けて、朝鮮陽明学の代表ともいえる鄭齊斗(霞谷)が出た。彼は朱子の理気二元論に異を唱え、理と気は一体不可分であるとし、また「知行合一」を称揚して実践を重視した。当時、李氏朝鮮でも朱子学は形骸化しつつあったが、鄭は陽明学によって儒教を再生することを唱えるに至る。
しかし、朝鮮の陽明学は一貫して少数派の地位を脱し得ず、本場中国以上に朱子学派から抑圧され、徐々に衰退した。例えば、李滉(退渓)は『伝習録弁』で陽明学を厳格に批判した。
陽明学の朝鮮史における影響は日中に比して高いと言い難いが、実学や経世致用の思想には影響が認められる。
大韓帝国末期から日本統治時代には、朴殷植や鄭寅普が陽明学を論じた。





