2019/07/04

蕭何(4)

 劉邦からの疑心

九江王に封じた黥布が漢に対して反乱を起こしたので、劉邦が討伐におもむいた。蕭何は民衆を安心させ従わせるように努め、国力をあげて劉邦の軍を助けるようにした。

 

しかし、劉邦は討伐中に何度に使者を出して、蕭何の様子を探らせてきた。蕭何は食客の一人から

 

「あなたは、関中で人心を掴むこと十数年です。みな、あなたを慕っています。陛下が様子を探るのは、あなたが関中でなにか事を起こすことを心配しているからです。多くの土地を安く買い叩き代金を支払わないことにより、あなたの名声を汚せば、陛下は安心するでしょう」

 

という進言を受け、その通りに実行した。劉邦はとても喜んだ。

 

劉邦が関中に帰還すると、民衆から上書が差し出された。その上書には

 

「蕭何が無理矢理、民の膨大な広さの田や宅地を安く買っております」

 

と書かれていた。劉邦は蕭何に会うと、史書を読む限り心からうれしそうに笑って

 

「民のものを奪って、自分のものにしたのだな」

 

と言って、上書を見せると

 

「自ら民に謝罪しろ」

 

と蕭何を責めた。

 

蕭何が「長安は、土地が狭いのです。陛下がお持ちの苑(狩猟を行う土地)には、空き地がたくさんあります。民衆が中に入って耕作することをお許しください」

 

と話すと、劉邦は

 

「相国(蕭何)は商人から財物を受け取ったのに、民衆に我が土地を使わせ、これ以上の人気を得ようとするのか」

 

と怒り出し、蕭何を牢獄に繋いだ。

 

しかし、劉邦は部下から

 

「蕭何が楚漢戦争中や陳豨・黥布討伐中に関中で反乱を起こせば、函谷関(関中の東を守る関所)より西は蕭何が奪ってしまったでしょう。いまさら、商人から財物を受け取りはしません。蕭何を疑ってはいけません」

 

と諌められる。

 

劉邦は不満に感じながらも、蕭何を赦免する。老年となっていた蕭何は、劉邦に陳謝した。劉邦は

 

「わしは殷の紂王のような暗君に過ぎないのに、相国は優れた宰相である。わしは民にわしの過ちを伝えようとして、相国を捕らえただけだよ」

 

と蕭何に語った。

 

恵帝に仕える

劉邦が死去し、皇帝として劉邦と呂雉の間の子である劉盈が恵帝として即位する。蕭何は相国として、呂雉と恵帝を補佐した。

 

蕭何は病気にかかり、恵帝は自ら蕭何の邸宅を訪問して、蕭何を見舞った。恵帝が、

 

「あなたに万が一のことがあった場合、誰をあなたの後任にすればいいのかな」

 

と尋ねると

 

「臣下を知るものは、主(恵帝)に及ぶものはおりませぬ」

 

と答える。恵帝は

 

「曹参はどうだろう」

 

と重ねて尋ねた。

 

蕭何は、韓信を大将に推薦した頃から曹参と不仲になっていたが

 

「陛下は、立派な人物を私の後任に選ばれました。死んでも思い残すことはありません」

 

と答える。

 

蕭何が死去すると、恵帝から「文終侯」と贈り名された。

 

曹参は蕭何が死去したことを知ると

 

「私はすぐに都に呼ばれて、宰相となるだろう」

 

と側近に語った。はたして、すぐに使者が来て曹参を都へ召した。

 

他の功臣で蕭何ほどの扱いを受けた人物は、いなかったと伝えられる。

 

評価

  蕭何は、己の宅地や田地を決める時に、不便な所や良くない所にしていた。家を作っても、屋根や塀を立派なものして飾らなかった。蕭何は

 

「私の子孫で優れた人物は、必ず私の倹約した態度を模範とするだろう。また、子孫が賢い人物ではなかったとしても、権勢のある家に奪われることはないだろう」

 

と語っていたと伝えらえる。

 

『史記』において司馬遷は

 

「秦の時代の蕭何は、ただの文書を扱う役人であり、特別優れた行いをしたわけではなかった。しかし漢王朝が興るにあたって、漢王朝の財政を管理し、苦難している民に対し、法を奉じて時世に応じた政策を行い、民とともに改革を行ったのだ。韓信や黥布は誅殺されたのに蕭何の功績は輝き続け、その地位は高祖の群臣の中でも筆頭であった。その名声は、後世にまで伝わっている」

 

と絶賛している。

 

後世の創作において、蕭何は、同じ三傑の張良や韓信が美形や美男、あるいは才気煥発に描かれることが多いのに対し、比較的地味な容貌で、真面目で誠実、常識人に描かれることが多い。軍事や計略といった派手なものではなく、内政や事務処理という少々わかりにくい点で功績を収めたからであろうか。

 

蕭何について

実は劉邦を慕っていなかった?

 

創作においては、蕭何は劉邦と同じ沛県の豊邑出身として、劉邦の特別な才能を見抜き、劉邦を慕っていたとすることが多い。

 

しかし史実では、蕭何は沛県の「豪吏」であり、家もただの富農である劉邦よりは大きく、亭長である劉邦にとっては上司にあたる。「劉邦を助けた」という史書の記述は「劉邦を補佐した」ではなく「上司として劉邦を手助けしてあげた」と解するべきである。

 

蕭何も蕭何で、本文の通り

 

「劉季は元々ほら吹きで、実行したことが殆どありません」

 

と言ったり、反乱の責任者の地位を劉邦に押し付けたりしている。

 

ただし反乱を起こして劉邦を主と決めてからは、一貫して劉邦陣営のために(必ずしも、劉邦のためとは言い切れない部分もあるが)貢献している。

 

劉邦との関係

  創作の中で、誠実で真面目に描かれることが多い蕭何であるが、史書では劉邦の自分に対する猜疑心を感じ取り、何度も保身を図っている。

 

 一度目は、劉邦が何度も使いを送って蕭何の苦労を労った時であり「劉邦が自分を疑っている」ことに同意している。

 

二度目は、韓信を捕らえて処刑した後であり、今度も「劉邦が自分を疑っている」ことに同意している。蕭何の保身を図った上での貢献に対して、劉邦は大変喜んだとあり、蕭何の判断・行動は間違いではなかったと史書では裏付けられている。なお、二度目においては蕭何は勝手に未央宮を建てたり、呂雉の相談を受けたとはいえ、韓信を劉邦に判断を仰がずに勝手に処刑しており、劉邦から疑われる理由は存在する。

 

 また、三度目は劉邦の黥布討伐中のことであり、劉邦が蕭何の様子を探らせた時に、名声を汚すために

 

「多くの土地を安く買いたたき、代金を支払わず、名声を汚す」

 

という国家にとって利益にならない行動によって、保身を行っている。劉邦は大変喜ぶとともに、帰還してから蕭何をその罪で獄につないでいる。

 

劉邦と蕭何はお互いを信頼し、高く評価してはいたが、全幅的な信頼関係にあったわけではなく、実は緊張状態にあったことが分かる。

 

とはいえ、その状況でも天寿を全うしたこと、また君主の疑心を解くことに成功しているため、臣下としても優秀であった。
出典 Wikipedia

日代の宮二之巻【景行天皇二】(4)

源平盛衰記【四十四】に、日本武尊の錦の燧袋のことを言っているところで

「今の世にも、人の腰の刀に錦の赤皮をさげて『燧袋』と呼ぶのはそのためだ」【新井氏の「軍器考」に「火打袋を着けることは・・・寛正の頃の記録に、足利殿の腰の物にも、こういう物が着けられていたことが見える。・・・織田殿のころまで、この物のことが見えるが、今はそういうものを作ることはなくなった」

とある。

 

またある書物に

「採桑老の舞(雅楽の一つ)の図に、老翁の面をかぶり、狩衣のようなものを着て、腰には『さすが』とでも呼ぶようなものの態に袋を結わえ付けて、『火打袋』と呼ぶと伶人(雅楽を奏する人)の家で言い伝えている。天皇の御しるしの宝剣にも、火打袋といって赤地の錦でこしらえた袋のようなものを、鞘に結わえ付けてある」

と言う。

 

またある書には、今の世で「巾着」というものは、火打袋が変形したものであるとも言っている。】などがある。今の世にも倭建命の火打袋をかたどったとして伝えたものがいろいろある。中には本当に古い形のように見えるものもあるが、それがそのまま倭建命の持っていた袋の形とは信じられない。【中には、最近になって古いもののように装って作ったと思われるものもある。

 

○ある本に、延喜式の「尾張国愛知郡、日割御子(ひさきみこ)神社」は、この倭建命の火打を祭っていると言う。どうなのだろう。】

 

○「先以2其御刀1(まずそのミハカシもて)云々」。「先(まず)」とは、火を打ち出すために、まずこうしたというように聞こえるだろうが、そういうことではない。前の文に「袋の中に火打があった」と言うから、それに続いて火を打ち出すところだが、それに先立って、という意味である。

 

○「苅=撥2草1(くさをかりはらい)」というのは、向こうから燃えてくる火を身辺に近づけないためにしたのだろう。【近くに草がなければ火はそれ以上近づかないからである。】書紀に「一にいわく、王の佩いていた叢雲(むらくも)という名の剣が、自分から抜け出て、王の付近の草をなぎ払い、それによって難を免れた。そのためその剣を草薙と名付けた」とあるのもその意味である。【単に草をなぎ払っただけでは、それで免れることができたというのは理解しにくい。これも草をなぎ払ったので、火が近くまでは燃えてこなかったため免れたのだ。だがこの「剣が自分で抜け出て」というのは、この記とは伝えが異なる。】

 

この記には、こうして草をなぎ払ったために草薙と名付けたことは出ていないが、伝えが異なるのか、特に理由はなく、その文が抜けただけなのか、よく分からない。【書紀でも、ここの本文には草薙の剣のことは出ていない。神代の巻にも、「日本武尊の時に草薙劔と名を改めた」という記事は、あくまで一説として書かれている。この記でも後の文には「その御刀の草那藝の劔」とあるのに、ここでは単に「その御刀」としか書いていないから、別の刀という疑いもないではない。

 

しかしここでは、続く文に「草をなぎ払い」とあるから、「草那藝の劔をふるって」などと書くと、同じ言葉が重なって煩わしくなるので、単に御刀とだけ言ったとも考えられるが、それならますますその後に「このため草那藝の劔と呼んだ」という文がなければならない。だからその文が脱けているのかと言ったのである。もし脱けたのだとすると、この記の伝えもこのことによって草那藝の劔と名付けられたわけだ。

 

だが脱けたのでなく、初めからそういう伝えがなかったのなら、「草那藝」という名は「大葉刈(おおばかり)」や「天繩斫(あめのはえきり)」のように、その刀が鋭かったということを表現したに過ぎない。それならば、草をなぎ払ったことによって名付けたという説は、草を刈り払ったこともあるので、それによって唱えた説のようにも取れる。だがやはり本来の伝えの一つなのだろう。

 

この草薙という名のことを「実は青人草を払い平らげた(人を大勢殺した)ことの喩えである」などという説は、例のなまさかしらな漢意の解釈で、論ずるに足りない。駿河国風土記にも「草は主のない土地に生える。この葦原には、天孫降臨以来、草叢の神がいなかった。だから天孫降臨の後に『草薙』の名がある。・・・一説によると日本武尊は東夷を征伐に行く時、駿河の国に到って、浮島原と阿部の市の東夷が尊を欺いて、御廣野で狩をさせ、その間に火を放った。時は十月、冬枯れの草に着けた火は、まるで油を塗ったように激しく燃え、煙はすみやかに尊の軍を包み込んで、危機に陥った。このとき尊が帯びていた叢雲の劔は、ひとりでに鞘から脱け落ち、野火を払った。これによって『草薙』の名を付けた、と言うが、これは大きな誤りである」と言う。この風土記はやや後に成立したもので、仮名にもところどころ誤りがあり、信じがたい点が多い。この草薙という名を論じたのも、例の漢意による解釈である。】

 

延喜式神名帳に「駿河国有度郡、草薙神社」、【上記の風土記では、この神社は天照大神を祀ると言い、草奈岐という地名、また草薙山という名も挙げている。】「廬原郡、久佐奈岐神社」がある。【風土記には、「稚足彦天皇(成務)の元年に初めて官幣を奉った」と言い、東草奈岐という地名を挙げている。】

2019/07/03

功績第一位 ~ 蕭何(3)

 劉邦の宰相

劉邦が秦の都である咸陽に入った時には、諸将が財宝を山分けしている時に、蕭何は秦の宮中に入って秦の法律書や戸籍、地理書などを保存した。劉邦は蕭何を宰相に任じた。

 

後に項羽が咸陽において略奪し、宮殿や市街地を焼き払った時に、多くの書物が失われた。しかし、蕭何が秦の法律書や戸籍、地理書などを確保していたおかげで、劉邦は天下のことを知ることができた。

 

劉邦が項羽によって漢王に封じられ、僻地である漢中に左遷させられた時に、劉邦とその武将である周勃・樊噲・灌嬰が怒って、項羽と一戦交えようとした。蕭何は劉邦たちを諫めて

 

「このまま項羽と戦えば、必ず死にます。漢中に行くことは、死ぬよりはましです。漢中の王になって人材を集め、帰ってから三秦を奪えば、天下を図ることができます」

 

と進言する。劉邦は同意した。『漢書』ではこの時、丞相に任じられている。

 

蕭何は漢中において、新たに劉邦の軍に入ってきた韓信と知り合った。蕭何は韓信と話し合い、その才能を見出す。蕭何は韓信を劉邦に何度も推薦するが、劉邦は韓信を抜擢しなかった。

 

ある日、劉邦からこれ以上の抜擢を受けることはないと思った韓信は、劉邦の軍から逃亡する。蕭何は韓信が逃亡したと知り、劉邦に報告もせずに韓信を追う。劉邦は蕭何が逃亡したと思い、大いに怒るとともに頼りを失ってしまったようになる。

 

数日経って蕭何が帰ってくると、劉邦は怒りかつ喜んで逃亡した理由を聞いた。蕭何は、韓信を追って引き止めて帰ってきたことを説明し、韓信は「国士無双」の人物であること。漢中の地で王になるのならともかく、項羽と天下を争うのなら韓信を用いるように進言する。

 

蕭何は、劉邦が韓信を将軍にしようとしても諌め、どうしても全軍の大将にするように進言した。さらに、韓信を呼びつけて大将に任じようとする劉邦を諫め、礼をつくして檀上で任命するように諌めた。劉邦はその通りにし、韓信を大将に任じた。漢の全軍は、この人事に驚いた。

 

韓信は、中国史に名だたる名将の一人に数えられるほどの軍事能力の持ち主であり、蕭何と同じ「漢の三傑」に数え上げられ、楚漢戦争を劉邦の勝利へと導くこととなる。

 

しかし、この頃から漢の将軍に任じられた曹参とは、不仲になってしまったようである。

 

劉邦が項羽と戦うために決起して関中を攻めている時には、(『史記』によるとこの時に)丞相に任じられ、後方である漢中に留まり、現在の四川省にあたる巴と蜀の地をうまく統治して、兵糧を提供させていた。

 

関中を任される

 劉邦が楚漢戦争を戦った時には、蕭何は後方にあたる関中に留まり、都にあたる櫟陽(れきよう、この時の漢の首都)において法律や規則を作り、漢の宗廟や社稷、宮殿、県や邑(ゆう、県の下にある村のこと)を新たに建てて、統治を行った。

 

 蕭何は、できるだけ劉邦の許可をもらうようにしており、小さいことは自分で処理して劉邦が関中に帰ってから報告した。また、兵を出すための基礎となる戸数をはかり、劉邦の軍へ補給を行った。劉邦が敗北すると、その度に老人や少年までを動員して関中の兵を徴発して、劉邦に援軍を送った。

 

そのため、蕭何は劉邦によって関中を全て任された。

 

蕭何は、楚漢戦争中に劉邦の指示を待たずに数万の援軍を送り、敗走した劉邦の危急を救ったことが何度もあった。劉邦軍の兵糧を補給したため、劉邦側は兵糧に困ることはなかった。また、関中では大飢饉が起きていたが、蜀や漢中から穀物を輸送させ民に食べさせたため、史書に特記されるような大きな問題が起きることはなかった。

 

そこで、劉邦は何度も使いを送って蕭何の苦労をねぎらった。蕭何は、これを疑問に思い、部下の

 

「これは漢王(劉邦)が、あなたを疑っているからです。親族の若いものを軍に送れば、漢王もあなたを益々信任するでしょう」

 

という言葉に同意する。果たしてその通りに実行すると、劉邦は大変喜んだ。

 

功績第一位

 やがて劉邦は項羽に勝利し、天下を平定して皇帝に即位し、漢王朝を創設する。劉邦は、蕭何を

 

「国を治め、民を安心させ、兵糧を兵に与えることを絶やさない補給においては、わしは蕭何に及ばない」

 

と張良・韓信とともに褒めたたえる。これが漢の三傑と呼ばれるようになった元である。

 

その後、秦の制度を基本にして時機に適した法律を採用し、「律九章」という漢王朝の法律を定める。

 

劉邦は長安を漢の都とすると、功臣たちに恩賞を与えようとした。劉邦は蕭何の功績こそが功臣の中で最大であると考え、そこで蕭何を酇侯(さんこう)に封じ、8,000戸を与えた。

 

劉邦の元で働いた諸将は

 

「我らは、多くの戦争を戦ってきました。しかし蕭何は、筆をもって議論しただけです。功績が我らの上位にあるのは納得できません」

 

と不満を述べた。しかし、劉邦は

 

「諸君らの功績は、狩猟の犬と同じである。蕭何の功績は、その猟犬の主のようなもの。また、蕭何は一族を挙げて従ってくれた。蕭何の功績は忘れてはならないものだ。」

 

と答えて、諸将の反論を封じた。

 

また、劉邦の諸将は

 

「それなら、体に70もの傷を負いながら、多くの戦争で功績をあげ続けた曹参が功績こそ最大です。功績の位階は、曹参を第一にしてください」

 

と言うと、劉邦は一度はその通りにしようとしたが、部下の進言により蕭何を功績第一位とした。

 

蕭何は剣を帯びて宮廷に上がったり、皇帝の前で名乗ったり皇帝に特別の礼遇をとらなくてもよい待遇を与えられる。劉邦は、かつて蕭何に200銭多く餞別をもらったことへの恩を感じていた。蕭何の親族も次々と封じられた。

 

漢の相国

劉邦が韓王信(上述した韓信と別人なので注意)を討伐している時に、長安の留守を任される。この時、蕭何は未央宮という壮大な宮殿を建てた。討伐から帰ってきた劉邦は、戦争中にこんな壮大な宮殿をつくるとは何事か、と怒りだす。蕭何は

 

「天下が定まっていないからこそ、宮殿がつくる必要があります。天子(天下を治める天命をさずかった人間。ここでは劉邦のこと)は四海(天下のこと)を家となす、といいます。壮麗でなければ、天子の威光は鳴り響きません。さらに、子孫にこれ以上壮麗にしないようにしておくのです」

 

と話すと、劉邦は喜んだ。

 

さらに、今後は陳豨(ちんき)が反乱を起こし劉邦が反乱討伐を赴くと、またも蕭何は長安の留守を預かった。この時、蕭何は、かつて大将に推薦した韓信が謀反を起こそうとしているということについて、劉邦の皇后である呂雉から相談をうける。蕭何は韓信を騙して宮廷におびきよせて逮捕し、呂雉とともに韓信を謀反の罪で処刑した。

 

こうして、蕭何と同じ「三傑」と後世に呼ばれる韓信は死ぬこととなった。蕭何は、このことで後世から批判を受けることもあるが、蕭何がいかなる心理で韓信をおびきよせたかは、史書には書かれていない。

 

蕭何は、このことを劉邦に報告すると、劉邦は蕭何を相国に任命し、5,000戸を増やされた。

 

しかし、この時に召平という人物から

 

「あなたは実戦に従ったわけではないのに、領地を加増されたのは韓信が謀反を起こしたので、あなたの忠誠を疑っているからです。加増を辞退され、私財を投じて軍費を出せば、陛下はお喜びになるでしょう」

 

という進言を受ける。そこで、その言葉通りにしたところ、劉邦は大変喜んだ。

 出典 Wikipedia

2019/07/02

蕭何(2)

 子孫

哀侯蕭禄は6年で逝去し、子がなかったので呂后は彼の弟の蕭同を継がせたが、紀元前179年に蕭同は罪を得て、爵位を奪われた。そこで、蕭何の末子の築陽侯蕭延を継がせた。定侯蕭延は2年で亡くなり、その子の煬侯蕭遺が継いだ。彼は1年で亡くなり、子がないためにその弟の蕭則が継いだ。20年後に酇侯蕭則は罪を得て、所領を没収された。

 

しかし、景帝は詔を下して「大功臣の蕭何の家系を断絶するのは忍びない」として、蕭則の弟蕭嘉を武陽侯として封じて再興された。彼は7年で逝去し、その子の蕭勝が継いだ。彼は武帝時代の21年で罪を得て、所領を没収された。しかし、武帝も父同様に詔を下して、蕭則の子の共侯蕭慶を酇侯に封じた。彼は3年で亡くなり、その子の蕭寿成(蕭壽成)が継いだ。10年で彼は罪を得て、所領を没収された。

 

宣帝の時代に、詔を発して蕭何の子孫を探し出して、その子孫である釐侯蕭喜を酇侯に封じて、三度再興させた。彼は3年で亡くなり、その子の質侯蕭尊が継いだ。彼は5年で亡くなり、その子の蕭章が継いだが、子がなく兄弟の蕭禹が継いだ。王莽が漢を簒奪して新を樹立すると、王莽は蕭禹を酇郷侯に改めて封じた。王莽が後漢の光武帝によって滅ぼされると、酇郷侯も断絶した。

 

明帝と章帝は詔を下して、蕭何を祀らせた。和帝の時代に、詔を下して蕭何の子孫を探し当てて、見つけ出して領地を与えた。このように蕭何の子孫は前漢・後漢にまで繁栄した。

 

さらに、南朝の斉を建国した蕭道成は蕭何の24世の子孫、蕭道成の族子である梁を建国した蕭衍も、蕭何の25世の子孫であると称していた。

 

評価

司馬遷は史記の蕭相国世家にて、「蕭何は秦の時代では小吏にすぎず、平凡で優れた能力はなかった。漢が興ると高祖(劉邦)の余光に頼り、留守の役をつとめ秦の憎悪を利用して、新しい時代を作った。韓信、英布が粛清されたが、蕭何の勲功は光輝き、地位は群臣の上に置かれ、名声は後世まで流れ、閎夭、散宜生と言った周王朝の功臣達と功績を争うようになった」と評している。

出典Wikipedia

 

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蕭何とは、戦国時代末期~前漢の人物。漢王朝を興した高祖・劉邦と同じく沛の出身で、後に前漢の宰相となった。

 

劉邦の功臣の中でも、最も著名な三傑に挙げられる。

 

劉邦の文官の筆頭として、秦との戦いにおいては事務を処理し、楚漢戦争では後方からの援軍による支援と補給を支え、漢王朝の建国後は宰相として、劉邦・呂雉に仕えてその政務を司った。

 

 同じ三傑の韓信を推薦し、楚漢戦争を劉邦の勝利に導いたことでも知られる。

 

沛の地方役人

劉邦と同じ沛県の豊邑の出身。法律に詳しく、事務処理に長け、公正であったため、沛県の主吏(司法をつかさどる役人)の部下となった。

 

当時は、秦の始皇帝により中国は統一され、中国では各地にいた王は廃され、全土が秦の郡や県として、皇帝が直接統治することになっていた。秦では、中央から郡や県を統治する長官にあたる官吏を派遣し、それを補佐する役人を地元から採用した。

 

劉邦や蕭何が住んでいた沛県は、かつては秦に滅ぼされた楚の土地であり、蕭何は秦から派遣された沛県の県令(沛県の官吏の長官)の部下の役人の一人となった。

 

蕭何は、沛の遊侠の一人に過ぎなかった劉邦を役人でありながらかばい、劉邦が亭長となると劉邦を助けてやった。役人がヤクザと癒着していたと見るべきか、劉邦が優れた人物であると見抜いて沛の統治に活用していたと見るべきかは、なんとも言えない。

 

劉邦が咸陽へ労役者を送る任務を担った時には、他の役人たちは300銭送ったのに対し、蕭何は500銭を渡したという。

 

ある時、蕭何は秦から派遣されていた沛の県令と親密な関係となっていた呂公に対する沛の有力者が挨拶を行う会において、接待の全てを任せられた。蕭何は、余りに来客が多いため、「進物が千銭以下の人は、堂の下に座ってもらいます」と宣言した。この時、接待の飯目当ての劉邦が現れて、銭を一銭も持たずに「進上一万銭」と偽って書いた名刺を出した。劉邦の名刺を見た呂公は、自ら劉邦を出迎え劉邦の人相があまりの貴相であったため、奥に通して上座に座らせようとした。この時、蕭何は「劉季は、元々ほら吹きで、実行したことがほとんどありません」と、後々を考えると不敬極まりないことを言ったが、呂公は劉邦を上座に座らせた。呂公は娘の呂雉を劉邦の妻とすることにし、劉邦と呂雉は婚姻を結んだ。

 

この夫妻が後に天下の主となり、自分がその筆頭の大臣として二人の補佐をすることになるという運命を知るはずもなかった。

 

その後、蕭何は沛県の上位にある、泗水郡の事務官となる。成績は第一位であり、蕭何は秦の中央の役人に抜擢されるが、蕭何は固辞している。この後に沛に戻り、沛の主吏になった。沛には蕭何の他に、地元から採用された主要な役人に獄掾であった曹参がいて、蕭何と仲が良かった。この二人の家は、沛でも有力者であったと考えられる。

 

だが、劉邦が再び咸陽へ労役者を送る役目を担った時に、その労役者が途中で逃亡してしまう。死刑になると考えた劉邦も逃亡して、近くの山野に隠れるようになった。秦の始皇帝の政治は過酷さを増していき、沛の中でも劉邦のもとに馳せ参じるものが多かった。結果、人数がある程度増えた劉邦たちは、野盗と化していた。

 

劉邦の部下となる

始皇帝が逝去し、二世皇帝として始皇帝の子である胡亥が即位した。彼と宦官の趙高によって秦の暴政は激しくなり、陳勝と呉広という人物が反乱を起こした(陳勝・呉広の乱)。反乱は広がっていき、陳勝は張楚という国の王を名乗る。各地の郡や県では、秦から送られてきた長官を殺し、反乱に応じる動きが広がっていた。当然、沛の県令も殺されることを恐れるようになった。

 

蕭何は曹参とともに県令に呼ばれ、県令から陳勝の乱に応じることを相談された。蕭何は

 

「秦の役人であったあなたが反乱を起こしても、沛の子弟は命令をきかないでしょう。それよりは、劉邦を呼び戻して、沛の民を脅かして命令をきかせた方がいいでしょう」

 

と県令に進言した。

 

『史記』によると、本当に、このように話している。

 

「劉邦なら人望が厚いから民も従うでしょう」

 

などではない。

 

県令は同意して劉邦を呼ばせることにしたが、呼ばせた後で心変わりを起こし、城を閉じて蕭何と曹参を殺そうとする。蕭何は曹参とともに命からがら城壁を越えて脱出して、劉邦のもとに逃げこんだ。

 

劉邦は城内の沛の民に向けて手紙を射込むと、沛の民は県令を殺し、劉邦を迎え入れた。沛の有力者が劉邦を県令にしようとすると、劉邦は辞退する。

 

ところで蕭何と曹参は、自分たちは文官であり、反乱が成功しなかった時には、家族が皆殺しになることを恐れていた。そこで劉邦を推薦する。劉邦は秦に対して反乱を起こすことを決め、沛公を名乗った。

 

『史記』には、このように記述されている。「劉邦こそが主にふさわしいと思った」とか「劉邦をかねてから慕っていた」というわけでは全く無い。早い話が「失敗したときの生贄・身代わり・責任の押しつけ」である。

 

それからの蕭何は、劉邦の部下として劉邦を補佐し、様々な事務や内務を監督し処理した。

 出典 Wikipedia

2019/07/01

漢の三傑 ~ 蕭何(1)

 蕭 何(しょう か、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を支えた漢の三傑の一人

 

楚漢戦争

劉邦と盧綰と同じく泗水郡沛県豊邑の人で、若い頃から役人をしていた。下役人であったがその仕事ぶりは真面目で能率がよく、評価されていたという。なお曹参や夏侯嬰は、この時の部下にあたる。

 

単父の豪族の呂公が、敵討ちを避けて沛県に移ってきた。県令は歓迎する宴を開き、接待の全てを蕭何に任せた。参加した人があまりに多すぎたため、蕭何は持参が千銭以下の者は地面に座って貰おうと考えていたところに劉邦が来て、「一万銭」と言った。これを呂公に取り次ぐと、呂公は玄関まで出向いて迎え入れた。蕭何は

 

「劉邦は昔から大ぼら吹きだが、成し遂げたことは少ない(だから、このことも本気にされませんよう)」

 

と言ったが、劉邦の人相を非常に評価した呂公は構わず歓待した。 このように、このころは劉邦をあまり高く評価していなかったが、後に劉邦は

 

「豊を立つ時、蕭何だけが多く銭を包んでくれたのだ」

 

と語っており、目をかけてはいたようである。 実際、この後に劉邦はゴロツキにも関わらず亭長に就任するが、それには蕭何の推挙があった。また蕭何は、秦の圧政下にも民衆の負担が最小限になるよう心配りをしていたため、民衆からも信望されるようになっていた。

 

秦末の動乱期になると、反乱軍の優勢さに秦政府から派遣されていた県令が動揺、そこに曹参等と共に

 

「秦の役員である県令では、誰も従わない。劉邦を旗頭にして反乱に参加すべき」

 

と進言。一旦は受け入れられたものの、県令は気が変わって劉邦を城市に入れなかったため、沛県城でクーデターを起こし県令を殺害、劉邦を後釜の県令に迎えた。いくら人気があるとはいえ、劉邦は所詮はゴロツキ、盗賊の頭でしかない。住民にとっても一大事である反乱参加と劉邦をその旗頭にすることが、蕭何の後押しあってこそであったろうことは、想像に難くないところである。

 

以降、劉邦陣営における内部事務の一切を取り仕切り、やがて劉邦が項梁、項羽を中心とした反秦陣営に加わり各地を転戦するようになると、その糧秣の差配を担当してこれを途絶させず、兵士を略奪に走らせることがなかった。また、劉邦が秦の都咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、ただ一人秦の歴史書や法律、各国の人口記録などが保管されている文書殿に走り、項羽による破壊の前に全て持ち帰ることに成功した。これが、漢王朝の基礎作りに役立ったと言われている。

 

紀元前206年、秦が滅亡し、劉邦が漢王に封建されると、蕭何は丞相に任命され、内政の一切を担当することになる。

 

それから、まもなく夏侯嬰が韓信を推挙してきた。その才能に感じ入った蕭何も劉邦に推挙し、韓信は召し抱えられたが、与えられた役職が閑職だったために逃げ出すという事件を起こす。韓信を引き留めるため、蕭何は自ら追いかけ

 

「今度推挙して駄目であれば、私も漢を捨てる」

 

とまで言って説得する。そして、劉邦に韓信を大将軍に就かせるよう推挙した。劉邦はその進言を受け入れ、大将軍に任命する。韓信は家柄も名声も無く、元は楚の雑兵で漢でも単なる一兵卒だった。当然ながら最大級の大抜擢であり、このことからも劉邦の蕭何への信頼の厚さが伺える。

 

劉邦が軍勢を率いて関中に入ると、蕭何もこれに従い関中に入る。楚漢戦争が激化し、劉邦が戦地に出て関中を留守にすると、王太子の劉盈を補佐しながら、その留守を守った。関中においても、その行政手腕は遺憾なく発揮され、関中から戦地に向けて食糧と兵士を送り、それを途絶えさせることなく劉邦を後方から支え、しかも関中の民衆を苦しめることもなく、名丞相として称えられた。

 

紀元前202年、楚漢戦争が劉邦陣営の勝利に終わると、戦功第一には、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて、蕭何が選ばれた。劉邦も、蕭何の送り続けた兵糧と兵士がなければ、そして根拠地である関中が安定していなければ、負け続けても何度も立て直すことはできず、最終的に勝利することもできなかったことを理解していたのである。

 

漢の相国

劉邦が皇帝となり、前漢が成立すると、蕭何は戦功第一の酇侯に封じられ、引き続き丞相として政務を担当することとなり、長年打ち続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事することとなった。

 

紀元前196年に、呂后から韓信が謀反を企てていることを知ると、密談を重ねて策謀を用いて誘い出し、これを討った。韓信は国士無双と称された程の名将であり、慎重でもあったが、蕭何だけは信用していたために油断したのである。この功績により、臣下としては最高位の相国に任命され、「剣履上殿」(宮殿内では、剣を初めとした武器を持ってはならないが、持つことを許可する)、「入朝不趨」(宮殿内では、皇帝以外はちょこちょこと小走りしなければならないが、これを免除する)、「謁賛不名」(皇帝と話をする際は、最初に「どこどこの誰々です」と名乗らなければならないが、これを不要とする)等の特権を与えられた。

 

しかし、この頃から劉邦は蕭何にも疑惑の目を向け始めた。これについては楚漢戦争の頃からその傾向があったため、蕭何もそれを察し、戦争に参加出来る身内を全員戦場へ送りだし財産を国に差し出したりして、謀反の気が全く無いことを示していた。しかし、劉邦は皇帝となってからは猜疑心が強くなり、また韓信を始めとする元勲達が相次いで反乱を起こしたことで、蕭何に対しても疑いの目を向けたのである。

 

長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できることも、危険視される要因になった。蕭何は部下の助言を容れて、わざと悪政を行って(田畑を買い漁り、汚く金儲けをした)自らの評判を落としたり、財産を国庫に寄付することで、一時期投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した。

 

劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなり、文終侯と諡されて、子の哀侯蕭禄が後を継いだ。蕭何の家系は何度も断絶しているが、すぐに皇帝の命令で見つけ出された子孫が侯を継いでいる。

 

死に際して、後継として曹参を指名している。のちに曹参は、政務を怠っていると非難された時

 

「高祖と蕭何の定めた法令は明瞭明白で世を治めており、変える必要がありません。我々はあまり細々とした変更をせず、それをただ守れば良いのです」

 

と時の皇帝に述べ、皇帝もその言葉に納得している。

 

漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は一部の例外を除いて蕭何と曹参以外には与えられず「それだけの功績の者がいない」として、任ぜられることがなかった。

 出典 Wikipedia