2019/07/03

功績第一位 ~ 蕭何(3)

 劉邦の宰相

劉邦が秦の都である咸陽に入った時には、諸将が財宝を山分けしている時に、蕭何は秦の宮中に入って秦の法律書や戸籍、地理書などを保存した。劉邦は蕭何を宰相に任じた。

 

後に項羽が咸陽において略奪し、宮殿や市街地を焼き払った時に、多くの書物が失われた。しかし、蕭何が秦の法律書や戸籍、地理書などを確保していたおかげで、劉邦は天下のことを知ることができた。

 

劉邦が項羽によって漢王に封じられ、僻地である漢中に左遷させられた時に、劉邦とその武将である周勃・樊噲・灌嬰が怒って、項羽と一戦交えようとした。蕭何は劉邦たちを諫めて

 

「このまま項羽と戦えば、必ず死にます。漢中に行くことは、死ぬよりはましです。漢中の王になって人材を集め、帰ってから三秦を奪えば、天下を図ることができます」

 

と進言する。劉邦は同意した。『漢書』ではこの時、丞相に任じられている。

 

蕭何は漢中において、新たに劉邦の軍に入ってきた韓信と知り合った。蕭何は韓信と話し合い、その才能を見出す。蕭何は韓信を劉邦に何度も推薦するが、劉邦は韓信を抜擢しなかった。

 

ある日、劉邦からこれ以上の抜擢を受けることはないと思った韓信は、劉邦の軍から逃亡する。蕭何は韓信が逃亡したと知り、劉邦に報告もせずに韓信を追う。劉邦は蕭何が逃亡したと思い、大いに怒るとともに頼りを失ってしまったようになる。

 

数日経って蕭何が帰ってくると、劉邦は怒りかつ喜んで逃亡した理由を聞いた。蕭何は、韓信を追って引き止めて帰ってきたことを説明し、韓信は「国士無双」の人物であること。漢中の地で王になるのならともかく、項羽と天下を争うのなら韓信を用いるように進言する。

 

蕭何は、劉邦が韓信を将軍にしようとしても諌め、どうしても全軍の大将にするように進言した。さらに、韓信を呼びつけて大将に任じようとする劉邦を諫め、礼をつくして檀上で任命するように諌めた。劉邦はその通りにし、韓信を大将に任じた。漢の全軍は、この人事に驚いた。

 

韓信は、中国史に名だたる名将の一人に数えられるほどの軍事能力の持ち主であり、蕭何と同じ「漢の三傑」に数え上げられ、楚漢戦争を劉邦の勝利へと導くこととなる。

 

しかし、この頃から漢の将軍に任じられた曹参とは、不仲になってしまったようである。

 

劉邦が項羽と戦うために決起して関中を攻めている時には、(『史記』によるとこの時に)丞相に任じられ、後方である漢中に留まり、現在の四川省にあたる巴と蜀の地をうまく統治して、兵糧を提供させていた。

 

関中を任される

 劉邦が楚漢戦争を戦った時には、蕭何は後方にあたる関中に留まり、都にあたる櫟陽(れきよう、この時の漢の首都)において法律や規則を作り、漢の宗廟や社稷、宮殿、県や邑(ゆう、県の下にある村のこと)を新たに建てて、統治を行った。

 

 蕭何は、できるだけ劉邦の許可をもらうようにしており、小さいことは自分で処理して劉邦が関中に帰ってから報告した。また、兵を出すための基礎となる戸数をはかり、劉邦の軍へ補給を行った。劉邦が敗北すると、その度に老人や少年までを動員して関中の兵を徴発して、劉邦に援軍を送った。

 

そのため、蕭何は劉邦によって関中を全て任された。

 

蕭何は、楚漢戦争中に劉邦の指示を待たずに数万の援軍を送り、敗走した劉邦の危急を救ったことが何度もあった。劉邦軍の兵糧を補給したため、劉邦側は兵糧に困ることはなかった。また、関中では大飢饉が起きていたが、蜀や漢中から穀物を輸送させ民に食べさせたため、史書に特記されるような大きな問題が起きることはなかった。

 

そこで、劉邦は何度も使いを送って蕭何の苦労をねぎらった。蕭何は、これを疑問に思い、部下の

 

「これは漢王(劉邦)が、あなたを疑っているからです。親族の若いものを軍に送れば、漢王もあなたを益々信任するでしょう」

 

という言葉に同意する。果たしてその通りに実行すると、劉邦は大変喜んだ。

 

功績第一位

 やがて劉邦は項羽に勝利し、天下を平定して皇帝に即位し、漢王朝を創設する。劉邦は、蕭何を

 

「国を治め、民を安心させ、兵糧を兵に与えることを絶やさない補給においては、わしは蕭何に及ばない」

 

と張良・韓信とともに褒めたたえる。これが漢の三傑と呼ばれるようになった元である。

 

その後、秦の制度を基本にして時機に適した法律を採用し、「律九章」という漢王朝の法律を定める。

 

劉邦は長安を漢の都とすると、功臣たちに恩賞を与えようとした。劉邦は蕭何の功績こそが功臣の中で最大であると考え、そこで蕭何を酇侯(さんこう)に封じ、8,000戸を与えた。

 

劉邦の元で働いた諸将は

 

「我らは、多くの戦争を戦ってきました。しかし蕭何は、筆をもって議論しただけです。功績が我らの上位にあるのは納得できません」

 

と不満を述べた。しかし、劉邦は

 

「諸君らの功績は、狩猟の犬と同じである。蕭何の功績は、その猟犬の主のようなもの。また、蕭何は一族を挙げて従ってくれた。蕭何の功績は忘れてはならないものだ。」

 

と答えて、諸将の反論を封じた。

 

また、劉邦の諸将は

 

「それなら、体に70もの傷を負いながら、多くの戦争で功績をあげ続けた曹参が功績こそ最大です。功績の位階は、曹参を第一にしてください」

 

と言うと、劉邦は一度はその通りにしようとしたが、部下の進言により蕭何を功績第一位とした。

 

蕭何は剣を帯びて宮廷に上がったり、皇帝の前で名乗ったり皇帝に特別の礼遇をとらなくてもよい待遇を与えられる。劉邦は、かつて蕭何に200銭多く餞別をもらったことへの恩を感じていた。蕭何の親族も次々と封じられた。

 

漢の相国

劉邦が韓王信(上述した韓信と別人なので注意)を討伐している時に、長安の留守を任される。この時、蕭何は未央宮という壮大な宮殿を建てた。討伐から帰ってきた劉邦は、戦争中にこんな壮大な宮殿をつくるとは何事か、と怒りだす。蕭何は

 

「天下が定まっていないからこそ、宮殿がつくる必要があります。天子(天下を治める天命をさずかった人間。ここでは劉邦のこと)は四海(天下のこと)を家となす、といいます。壮麗でなければ、天子の威光は鳴り響きません。さらに、子孫にこれ以上壮麗にしないようにしておくのです」

 

と話すと、劉邦は喜んだ。

 

さらに、今後は陳豨(ちんき)が反乱を起こし劉邦が反乱討伐を赴くと、またも蕭何は長安の留守を預かった。この時、蕭何は、かつて大将に推薦した韓信が謀反を起こそうとしているということについて、劉邦の皇后である呂雉から相談をうける。蕭何は韓信を騙して宮廷におびきよせて逮捕し、呂雉とともに韓信を謀反の罪で処刑した。

 

こうして、蕭何と同じ「三傑」と後世に呼ばれる韓信は死ぬこととなった。蕭何は、このことで後世から批判を受けることもあるが、蕭何がいかなる心理で韓信をおびきよせたかは、史書には書かれていない。

 

蕭何は、このことを劉邦に報告すると、劉邦は蕭何を相国に任命し、5,000戸を増やされた。

 

しかし、この時に召平という人物から

 

「あなたは実戦に従ったわけではないのに、領地を加増されたのは韓信が謀反を起こしたので、あなたの忠誠を疑っているからです。加増を辞退され、私財を投じて軍費を出せば、陛下はお喜びになるでしょう」

 

という進言を受ける。そこで、その言葉通りにしたところ、劉邦は大変喜んだ。

 出典 Wikipedia

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