2019/07/02

蕭何(2)

 子孫

哀侯蕭禄は6年で逝去し、子がなかったので呂后は彼の弟の蕭同を継がせたが、紀元前179年に蕭同は罪を得て、爵位を奪われた。そこで、蕭何の末子の築陽侯蕭延を継がせた。定侯蕭延は2年で亡くなり、その子の煬侯蕭遺が継いだ。彼は1年で亡くなり、子がないためにその弟の蕭則が継いだ。20年後に酇侯蕭則は罪を得て、所領を没収された。

 

しかし、景帝は詔を下して「大功臣の蕭何の家系を断絶するのは忍びない」として、蕭則の弟蕭嘉を武陽侯として封じて再興された。彼は7年で逝去し、その子の蕭勝が継いだ。彼は武帝時代の21年で罪を得て、所領を没収された。しかし、武帝も父同様に詔を下して、蕭則の子の共侯蕭慶を酇侯に封じた。彼は3年で亡くなり、その子の蕭寿成(蕭壽成)が継いだ。10年で彼は罪を得て、所領を没収された。

 

宣帝の時代に、詔を発して蕭何の子孫を探し出して、その子孫である釐侯蕭喜を酇侯に封じて、三度再興させた。彼は3年で亡くなり、その子の質侯蕭尊が継いだ。彼は5年で亡くなり、その子の蕭章が継いだが、子がなく兄弟の蕭禹が継いだ。王莽が漢を簒奪して新を樹立すると、王莽は蕭禹を酇郷侯に改めて封じた。王莽が後漢の光武帝によって滅ぼされると、酇郷侯も断絶した。

 

明帝と章帝は詔を下して、蕭何を祀らせた。和帝の時代に、詔を下して蕭何の子孫を探し当てて、見つけ出して領地を与えた。このように蕭何の子孫は前漢・後漢にまで繁栄した。

 

さらに、南朝の斉を建国した蕭道成は蕭何の24世の子孫、蕭道成の族子である梁を建国した蕭衍も、蕭何の25世の子孫であると称していた。

 

評価

司馬遷は史記の蕭相国世家にて、「蕭何は秦の時代では小吏にすぎず、平凡で優れた能力はなかった。漢が興ると高祖(劉邦)の余光に頼り、留守の役をつとめ秦の憎悪を利用して、新しい時代を作った。韓信、英布が粛清されたが、蕭何の勲功は光輝き、地位は群臣の上に置かれ、名声は後世まで流れ、閎夭、散宜生と言った周王朝の功臣達と功績を争うようになった」と評している。

出典Wikipedia

 

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蕭何とは、戦国時代末期~前漢の人物。漢王朝を興した高祖・劉邦と同じく沛の出身で、後に前漢の宰相となった。

 

劉邦の功臣の中でも、最も著名な三傑に挙げられる。

 

劉邦の文官の筆頭として、秦との戦いにおいては事務を処理し、楚漢戦争では後方からの援軍による支援と補給を支え、漢王朝の建国後は宰相として、劉邦・呂雉に仕えてその政務を司った。

 

 同じ三傑の韓信を推薦し、楚漢戦争を劉邦の勝利に導いたことでも知られる。

 

沛の地方役人

劉邦と同じ沛県の豊邑の出身。法律に詳しく、事務処理に長け、公正であったため、沛県の主吏(司法をつかさどる役人)の部下となった。

 

当時は、秦の始皇帝により中国は統一され、中国では各地にいた王は廃され、全土が秦の郡や県として、皇帝が直接統治することになっていた。秦では、中央から郡や県を統治する長官にあたる官吏を派遣し、それを補佐する役人を地元から採用した。

 

劉邦や蕭何が住んでいた沛県は、かつては秦に滅ぼされた楚の土地であり、蕭何は秦から派遣された沛県の県令(沛県の官吏の長官)の部下の役人の一人となった。

 

蕭何は、沛の遊侠の一人に過ぎなかった劉邦を役人でありながらかばい、劉邦が亭長となると劉邦を助けてやった。役人がヤクザと癒着していたと見るべきか、劉邦が優れた人物であると見抜いて沛の統治に活用していたと見るべきかは、なんとも言えない。

 

劉邦が咸陽へ労役者を送る任務を担った時には、他の役人たちは300銭送ったのに対し、蕭何は500銭を渡したという。

 

ある時、蕭何は秦から派遣されていた沛の県令と親密な関係となっていた呂公に対する沛の有力者が挨拶を行う会において、接待の全てを任せられた。蕭何は、余りに来客が多いため、「進物が千銭以下の人は、堂の下に座ってもらいます」と宣言した。この時、接待の飯目当ての劉邦が現れて、銭を一銭も持たずに「進上一万銭」と偽って書いた名刺を出した。劉邦の名刺を見た呂公は、自ら劉邦を出迎え劉邦の人相があまりの貴相であったため、奥に通して上座に座らせようとした。この時、蕭何は「劉季は、元々ほら吹きで、実行したことがほとんどありません」と、後々を考えると不敬極まりないことを言ったが、呂公は劉邦を上座に座らせた。呂公は娘の呂雉を劉邦の妻とすることにし、劉邦と呂雉は婚姻を結んだ。

 

この夫妻が後に天下の主となり、自分がその筆頭の大臣として二人の補佐をすることになるという運命を知るはずもなかった。

 

その後、蕭何は沛県の上位にある、泗水郡の事務官となる。成績は第一位であり、蕭何は秦の中央の役人に抜擢されるが、蕭何は固辞している。この後に沛に戻り、沛の主吏になった。沛には蕭何の他に、地元から採用された主要な役人に獄掾であった曹参がいて、蕭何と仲が良かった。この二人の家は、沛でも有力者であったと考えられる。

 

だが、劉邦が再び咸陽へ労役者を送る役目を担った時に、その労役者が途中で逃亡してしまう。死刑になると考えた劉邦も逃亡して、近くの山野に隠れるようになった。秦の始皇帝の政治は過酷さを増していき、沛の中でも劉邦のもとに馳せ参じるものが多かった。結果、人数がある程度増えた劉邦たちは、野盗と化していた。

 

劉邦の部下となる

始皇帝が逝去し、二世皇帝として始皇帝の子である胡亥が即位した。彼と宦官の趙高によって秦の暴政は激しくなり、陳勝と呉広という人物が反乱を起こした(陳勝・呉広の乱)。反乱は広がっていき、陳勝は張楚という国の王を名乗る。各地の郡や県では、秦から送られてきた長官を殺し、反乱に応じる動きが広がっていた。当然、沛の県令も殺されることを恐れるようになった。

 

蕭何は曹参とともに県令に呼ばれ、県令から陳勝の乱に応じることを相談された。蕭何は

 

「秦の役人であったあなたが反乱を起こしても、沛の子弟は命令をきかないでしょう。それよりは、劉邦を呼び戻して、沛の民を脅かして命令をきかせた方がいいでしょう」

 

と県令に進言した。

 

『史記』によると、本当に、このように話している。

 

「劉邦なら人望が厚いから民も従うでしょう」

 

などではない。

 

県令は同意して劉邦を呼ばせることにしたが、呼ばせた後で心変わりを起こし、城を閉じて蕭何と曹参を殺そうとする。蕭何は曹参とともに命からがら城壁を越えて脱出して、劉邦のもとに逃げこんだ。

 

劉邦は城内の沛の民に向けて手紙を射込むと、沛の民は県令を殺し、劉邦を迎え入れた。沛の有力者が劉邦を県令にしようとすると、劉邦は辞退する。

 

ところで蕭何と曹参は、自分たちは文官であり、反乱が成功しなかった時には、家族が皆殺しになることを恐れていた。そこで劉邦を推薦する。劉邦は秦に対して反乱を起こすことを決め、沛公を名乗った。

 

『史記』には、このように記述されている。「劉邦こそが主にふさわしいと思った」とか「劉邦をかねてから慕っていた」というわけでは全く無い。早い話が「失敗したときの生贄・身代わり・責任の押しつけ」である。

 

それからの蕭何は、劉邦の部下として劉邦を補佐し、様々な事務や内務を監督し処理した。

 出典 Wikipedia

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