2019/07/04

蕭何(4)

 劉邦からの疑心

九江王に封じた黥布が漢に対して反乱を起こしたので、劉邦が討伐におもむいた。蕭何は民衆を安心させ従わせるように努め、国力をあげて劉邦の軍を助けるようにした。

 

しかし、劉邦は討伐中に何度に使者を出して、蕭何の様子を探らせてきた。蕭何は食客の一人から

 

「あなたは、関中で人心を掴むこと十数年です。みな、あなたを慕っています。陛下が様子を探るのは、あなたが関中でなにか事を起こすことを心配しているからです。多くの土地を安く買い叩き代金を支払わないことにより、あなたの名声を汚せば、陛下は安心するでしょう」

 

という進言を受け、その通りに実行した。劉邦はとても喜んだ。

 

劉邦が関中に帰還すると、民衆から上書が差し出された。その上書には

 

「蕭何が無理矢理、民の膨大な広さの田や宅地を安く買っております」

 

と書かれていた。劉邦は蕭何に会うと、史書を読む限り心からうれしそうに笑って

 

「民のものを奪って、自分のものにしたのだな」

 

と言って、上書を見せると

 

「自ら民に謝罪しろ」

 

と蕭何を責めた。

 

蕭何が「長安は、土地が狭いのです。陛下がお持ちの苑(狩猟を行う土地)には、空き地がたくさんあります。民衆が中に入って耕作することをお許しください」

 

と話すと、劉邦は

 

「相国(蕭何)は商人から財物を受け取ったのに、民衆に我が土地を使わせ、これ以上の人気を得ようとするのか」

 

と怒り出し、蕭何を牢獄に繋いだ。

 

しかし、劉邦は部下から

 

「蕭何が楚漢戦争中や陳豨・黥布討伐中に関中で反乱を起こせば、函谷関(関中の東を守る関所)より西は蕭何が奪ってしまったでしょう。いまさら、商人から財物を受け取りはしません。蕭何を疑ってはいけません」

 

と諌められる。

 

劉邦は不満に感じながらも、蕭何を赦免する。老年となっていた蕭何は、劉邦に陳謝した。劉邦は

 

「わしは殷の紂王のような暗君に過ぎないのに、相国は優れた宰相である。わしは民にわしの過ちを伝えようとして、相国を捕らえただけだよ」

 

と蕭何に語った。

 

恵帝に仕える

劉邦が死去し、皇帝として劉邦と呂雉の間の子である劉盈が恵帝として即位する。蕭何は相国として、呂雉と恵帝を補佐した。

 

蕭何は病気にかかり、恵帝は自ら蕭何の邸宅を訪問して、蕭何を見舞った。恵帝が、

 

「あなたに万が一のことがあった場合、誰をあなたの後任にすればいいのかな」

 

と尋ねると

 

「臣下を知るものは、主(恵帝)に及ぶものはおりませぬ」

 

と答える。恵帝は

 

「曹参はどうだろう」

 

と重ねて尋ねた。

 

蕭何は、韓信を大将に推薦した頃から曹参と不仲になっていたが

 

「陛下は、立派な人物を私の後任に選ばれました。死んでも思い残すことはありません」

 

と答える。

 

蕭何が死去すると、恵帝から「文終侯」と贈り名された。

 

曹参は蕭何が死去したことを知ると

 

「私はすぐに都に呼ばれて、宰相となるだろう」

 

と側近に語った。はたして、すぐに使者が来て曹参を都へ召した。

 

他の功臣で蕭何ほどの扱いを受けた人物は、いなかったと伝えられる。

 

評価

  蕭何は、己の宅地や田地を決める時に、不便な所や良くない所にしていた。家を作っても、屋根や塀を立派なものして飾らなかった。蕭何は

 

「私の子孫で優れた人物は、必ず私の倹約した態度を模範とするだろう。また、子孫が賢い人物ではなかったとしても、権勢のある家に奪われることはないだろう」

 

と語っていたと伝えらえる。

 

『史記』において司馬遷は

 

「秦の時代の蕭何は、ただの文書を扱う役人であり、特別優れた行いをしたわけではなかった。しかし漢王朝が興るにあたって、漢王朝の財政を管理し、苦難している民に対し、法を奉じて時世に応じた政策を行い、民とともに改革を行ったのだ。韓信や黥布は誅殺されたのに蕭何の功績は輝き続け、その地位は高祖の群臣の中でも筆頭であった。その名声は、後世にまで伝わっている」

 

と絶賛している。

 

後世の創作において、蕭何は、同じ三傑の張良や韓信が美形や美男、あるいは才気煥発に描かれることが多いのに対し、比較的地味な容貌で、真面目で誠実、常識人に描かれることが多い。軍事や計略といった派手なものではなく、内政や事務処理という少々わかりにくい点で功績を収めたからであろうか。

 

蕭何について

実は劉邦を慕っていなかった?

 

創作においては、蕭何は劉邦と同じ沛県の豊邑出身として、劉邦の特別な才能を見抜き、劉邦を慕っていたとすることが多い。

 

しかし史実では、蕭何は沛県の「豪吏」であり、家もただの富農である劉邦よりは大きく、亭長である劉邦にとっては上司にあたる。「劉邦を助けた」という史書の記述は「劉邦を補佐した」ではなく「上司として劉邦を手助けしてあげた」と解するべきである。

 

蕭何も蕭何で、本文の通り

 

「劉季は元々ほら吹きで、実行したことが殆どありません」

 

と言ったり、反乱の責任者の地位を劉邦に押し付けたりしている。

 

ただし反乱を起こして劉邦を主と決めてからは、一貫して劉邦陣営のために(必ずしも、劉邦のためとは言い切れない部分もあるが)貢献している。

 

劉邦との関係

  創作の中で、誠実で真面目に描かれることが多い蕭何であるが、史書では劉邦の自分に対する猜疑心を感じ取り、何度も保身を図っている。

 

 一度目は、劉邦が何度も使いを送って蕭何の苦労を労った時であり「劉邦が自分を疑っている」ことに同意している。

 

二度目は、韓信を捕らえて処刑した後であり、今度も「劉邦が自分を疑っている」ことに同意している。蕭何の保身を図った上での貢献に対して、劉邦は大変喜んだとあり、蕭何の判断・行動は間違いではなかったと史書では裏付けられている。なお、二度目においては蕭何は勝手に未央宮を建てたり、呂雉の相談を受けたとはいえ、韓信を劉邦に判断を仰がずに勝手に処刑しており、劉邦から疑われる理由は存在する。

 

 また、三度目は劉邦の黥布討伐中のことであり、劉邦が蕭何の様子を探らせた時に、名声を汚すために

 

「多くの土地を安く買いたたき、代金を支払わず、名声を汚す」

 

という国家にとって利益にならない行動によって、保身を行っている。劉邦は大変喜ぶとともに、帰還してから蕭何をその罪で獄につないでいる。

 

劉邦と蕭何はお互いを信頼し、高く評価してはいたが、全幅的な信頼関係にあったわけではなく、実は緊張状態にあったことが分かる。

 

とはいえ、その状況でも天寿を全うしたこと、また君主の疑心を解くことに成功しているため、臣下としても優秀であった。
出典 Wikipedia

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